06

 —— プラネタリウムなんて、いつぶりだろう。

 ロングチェアに寝そべったは、緩やかに消えていく天井のダウンライトを見つめていた。ライトが消える直前、左側に座るカカシに視線を向けると、カカシは目を瞑っていた。
 今、彼は何を考えているのだろう。そう思いながらも声をかけるか迷っているうちに、消灯のアナウンスが流れ、はそのタイミングを完全に失った。

 天井を見つめると、無数の星が輝いていた。人工的と分かっているのに、その輝きに見入ってしまうのはなぜか。


 は天文学に興味があるわけでも、のように星占いが好きなわけでもなかった。
 わかるのは夏の大三角、デネブ、アルタイルとベガ。七夕伝説、それくらいだった。星座なんて殆ど気にもした事がなかった。春の大三角と秋の大四辺形なんてほとんど初耳だった。

 無数の星を眺めながら、は解説に耳を傾けた。
 そして、前に一度とと行った花火大会の帰り道を思い出した。色々と熱心に語っていたが、その時、が知っているものなんて殆どなかった。おそらく彼女なら、このギリシャ神話の話も事細かに知っているかもしれない。あの時は殆ど聞き流してしまったが、今日は違った。星座にまつわるギリシャ神話は意外にもの興味を惹いた。天罰で星になったり、引き剥がされたり、再びで出会ったり……。
 中でも冬の星座、牡牛座はとても不思議だった。この牡牛は神の化身。要するに、神様が牛に化けてしまったのだ。その理由はなんと王女様に恋をしたから。恋をした神様は大胆だった。近づいてきた王女様をそのまま背中に乗せて連れ帰ってしまう、というわけである。
 とにかく、このギリシャ神話というのはこの上なく美しい女や娘ばかり登場する。だが、それは仕方がない事だ。この物語の類は“この上なく美しい”というのが話の肝なのだ。仮にこれが普通の女だったとする。果たして神様が振り向くだろうか。そんなのは考えなくとも分かる話だ。物語はそういう風にできているのだから。
 そんな事を考えていると、後方から「素敵だね」などとのろけた声が聞こえてきて、は現実に引き戻された。



 上映終了のアナウンスが聞こえると、徐々にダウンラウトが明るくなった。映画館の後のように、退場待ちの列に達も並んだ。パンフレットを眺めていると、その折り目の間には2枚の用紙があった。一枚はよくあるアンケート用紙、もう一枚は星占いだ。
 これはにあげよう。
 そう思いながら、はさり気なく聞いてみることにした。
「カカシは誕生日いつなの?」
「9月15日」
「じゃあ、乙女座だね」
 はカカシにその用紙を見せた。
「占いか。はこういうの信じてる?」
「うーうん、そうでもないよ」
 矛盾したの返事に、カカシは関心を無くしたように「ふーん」と呟いた。

 は密かにある仮説を立てていた。
 カカシの言うことが本当なら、ここに来た理由が何かあるんじゃないか。
 それが例えば、その人が恋人だったりしたら、ちょっとロマンチックかもしれない。もしも、カカシが牡牛座だったら……。ギリシャ神話のように、連れ帰るつもりでいるのかも—— などと、本気で思ったかもしれない。
 薄暗い館内を出ると、先程の静かな空間とは間逆の光景が広がっていた。見ろ、これが現実なんだと言っているようだった。



 プラネタリウムで時間を取ってしまったこともある。買い物という買い物も殆どしなかった。買い直す予定でいた洋服も本人は要らないと言うし、この場所にいる意味がなくなってしまった。
 そろそろ帰ろうか、そう考えていた時だ。突然肩を突かれ振り返ると、そこには会社の後輩が立っていた。
「あ、やっぱり先輩だ! こんな所で一人で何してるんですか?」
 一人で、と言われてが慌てて周りをみると、すぐ隣にカカシが立っていた。どうやら、彼女はが一人でいると思い込んでいるようだ。
「ちょっと、用事があって」
「へー、そうなんですか」
 そんな話をしていると、彼女の彼氏らしい人物が彼女の肘を突いた。早くしろ、ということなのだろうか。
「じゃあ、先輩、また明日」
「あ、うん……」
 年上の彼氏らしい男と手をつなぎながら去っていく彼女を見送りながら、は小さくため息をついた。彼女は学校を出たばかりの新人だ。とにかく明るくて、可愛らしい女の子だった。そして、さっきのように、時々嫌味っぽいところがある。彼女が来ると、なぜかはエネルギーのすべてを持っていかれたような気分になった。
「知り合い?」
「そう、会社の」
 のなんとも言えない声を聞いて、カカシは何を思ったのか、こんな事を呟いた。
「なんなら、オレ達も手をつないでおけばよかったんじゃないの?」
「……変な冗談言わないでよ」
「冗談なら、別に手をつなぐくらいなんの問題もないと思うけど」
 その言葉を聞くと、やっぱりカカシは手慣れていると感じた。は無意識に手のひらを軽く握りしめた。
「わっ、何するの、離してよ」
「だって、また迷子になるかもしれないよ?」
「迷子になったのはカカシの方でしょう?」
 そして、は思った。誕生日なんか聞く前に、カカシの歳を聞いておくべきだったのかもしれない。あんな出会い方をしたこともあり、ほんの少しの強がりを含め、カカシのことを呼び捨てにしていた。雰囲気から考えて、おそらく自分のほうが年下だ。本当なら、“カカシさん”と言うべきなのかもしれない。そう思いはしたが、今さら敬語だなんて、そんなの無理に決まっている。まずは、繋がれた手のひらを引き離す方が先だろう。どう話すべきかとは一人考える。結局そのまま駅までやってきて、切符を買う時にようやく離すことになった。


 帰りの電車は混んでいた。通勤ラッシュほどではないが、少し揺れるだけで隣の人とぶつかってしまいそうな程だ。カーブを控え、はつり革を見つめた。
「カカシって背、高いね」
「んー、そう?」
「私はそっちのつり革はぎりぎり。特にこの先のカーブが、」
 そう言っている間にはバランスを崩し、誰かの背にもたれかかってしまった。
「ごめんなさい」
 そう言っても返事が来ることは稀だ。しかし、今日は違っていた。
「いえ、大丈夫ですよ……、あれ、さん」
 そう言って振り返ったのは会社の同期、山田だった。
「あ、久しぶり」
「ほんと、久しぶり。休日にこんな所で会うなんてさ」
「フロア違うとなかなか会わないもんね」
 初対面でもわかる程の良い人そうな人懐っこい笑みを浮かべる彼に、自然とも笑みを浮かべた。
「今日は、買い物?」
「まあ、そんな所かな……」
「もしかして、……あー、俺降りないと、それじゃ」
 そう言って、彼はすみませんと申し訳なさそうに人をかき分けながら電車を降りていった。
「あ、さっきのは、」
「会社の人、でしょ」
「そう、会社の人」
 休みだというのに今日はやたら会社の人と会う確率が高い。これではまるで自分には会社しかないみたいだと、が恥ずかしく思っていると、あの事を思い出した。
「そう言えば、来週の日曜日、私の友達が家に来るかも」
「あ、そう。ならオレはどっか行くとするかな」
「あ、いいよ、家に居て」
「なんで?」
「カカシに会ってみたいんだって」
「え?」
「少し変わってるけど、いい人だから」
「その人に話したの、オレのこと?」
「……やんわりと。ダメだった?」
「いや、……まあ、言っちゃったものはしかたないけど」
 そんな話をしていると、電車は目的の駅に着いていた。
「カカシ、降りないと!」
 は急いで降車口に向かった。
 入ってくる人に揉まれながらなんとか駅のホームに足をつける。
「はー、危なかったね……」
 そう思ったのもつかの間だった。
 の呟きに返事をする者は居なかった。
「カカシ?」
 急いであたりを見回すが、時すでに遅しとはこの事だ。
 ガタンガタンと揺れながらゆっくりと発進した電車を見ると、既の所で閉ざされたらしいカカシの姿があった。
「次の駅で降りて、引き換えして!」
 ひと目もはばからずにとっさに叫んでみたが、おそらくカカシの耳には届いていない。次の電車は10分後。それに乗って追いかけよう、そう思いはしたが、万が一引き返してカカシが戻ってきたら行き違いになってしまう。仕方なくは駅の改札を出て、駅員に事情を説明しようと窓口に向かった。


 それはちょうど窓口の職員に声をかけようとした時だった。
 不意に肩を叩かれ、振り返ったは驚愕した。
「いやー、まさか自分の目の前で閉まるとはね」
と、のんびりした口調で話すカカシには言葉もでない。
「やっぱり、手を繋いでないと迷子になるな……って、オレの話聞いてる?」
「本当は、降りて隠れたんでしょう?」
「え、いや、いくらなんでもそんな事しないよ」
「なら、どうやって戻ってきたの?」
「それは、」
「本当は、隠れたんだよね……」
 自分でも矛盾しているとわかっている。異世界から来たとかほんの少し信じたり、否定してみたり。
 確かに、カカシは列車に乗ったままだった。なのに、カカシはの目の前にいる。
 困惑するに、カカシの瞳が僅かに揺らいだ。


「用がないなら退いてもらえます?」
 気がつけばの後ろには迷惑そうにこちらを見る中年女性が立っていた。
「あ、すみません」
 慌ててその場から離れると、その女性は見つめ合った達を勘違いしたのか、「全く、場所を考えなさいよね」などと厭味ったらしく吐き捨てた。


 マンションまでの道のりがこれほど遠く感じたことはない。気まずい空気のまま、達は自宅へ足を向けた。
 カカシが現れて、少し浮かれていたのかもしれない。一緒に住んだら情が湧くというのは本当のようだ。だが、それは一ヶ月とか半年とか、そういうものだとは思っていた。
「ねえ、カカシ」
「ん」
「……晩ごはんは、何にするの?」
「ああ、帰ってからのお楽しみ」
「今日は、カカシが二回も迷子になったから豪華にしてもらわないとね」
「豪華っていわれても、あるものでしか作れないけど」
「それもそっか」

 いつまでこっちに居られるの——
 そう、呟いてしまいそうで、とっさには違う言葉を探していた。