11

 —— これで見納めだ。

 空を見上げたが、光り輝いているはずのそれらは本来の姿を見せることはなく、遠くの方でくすぶっているようだった。


 数日前。
 カカシは約束の場所に来ていた。
 約束の時間よりも少し送れてやって来た女は目の下にクマを作っていた。この決断でいいものかと夜通し考えていたのだろう。だが、いつまでも泣かれていてはこちらの立場が危うくなってくる。警察とやらがやって来てはすべての計画が台無しになりかねない。
 時折鼻をすすり、ハンカチを口元に当てて泣いている女をカカシはただ黙って見ているしかなかった。

「本当に、黙って行くんですか?」

 これで何度目だろうか。自分を見つめてくるという女に、カカシははっきりと頷いた。予定では「思い残すことはない?」と言うつもりだったが、隣の女には心残りが有りすぎて聞くほうがおかしなほどだった。
 重い鉄の塊が派手に音を立ててレールを進んでいった。
 (そろそろ、帰ってくる頃か……)
 アスファルトの硬い地面の感触を名残惜しむかのように、カカシは地面を見つめた。
「本当に、本当に、あなたが言ったとおりになるんですよね?」
 目的の場所に付く間、しつこいくらいに何度もという女は問いかけた。世話になった人、関わった人がどうなるのかと気にして。
「特殊な術式を書いた口寄せでね……、君が心配しているような混乱はないよ。みんないつもの日常を送れる……」
 元は居ない存在。里に戻る頃には全部忘れている。という友人の存在も、突然姿を表した男の存在も、永遠に。



 やって来たのはとあるマンションの前。せっかく落ち着いてきたというのに、それを目にしたはまたしくしく泣く羽目になった。街灯が少ないこの場所も、今はわずかに明るく見える。
「そろそろだけど、覚悟はいい?」
 彼女が小さく頷くのとほぼ同時だっただろう。
 靄一つ無い綺麗な満月がこちらを照らした。



 ぐらぐらと揺れる視界。脳は揺さぶられ、胃袋はひっくり返るかのようだ。方向感覚が無くなった体は何処へ向かっているのかもわからなかった。そして次の瞬間、急に狭い場所に引っ張られているかのような奇妙な感覚が襲った。息苦しく、窮屈な空間に体が押しつぶされるかのようだった。失敗したらあの世行きだろうかとカカシは思う。あの世ならまだしも、息絶えるその瞬間まで永遠にこの感覚を味わうことになったら—— そう考えた瞬間背筋に悪寒が走った。


 ここはどこか…… 。
 感じる人の気配。自分を取り囲んでいるのだろうか。
 カカシが目を開けると、見知った人物が自分たちを覗き込んでいた。口寄せされた場所は火影室だったらしい。
「……只今、戻りました」
 浮遊感の残る体はまるで自分のものではないようだった。気力で立ち上がり、脇に抱えた女を見ると、あの奇妙な空間に耐えられなかったのか、虚ろな視線のまま、ぐったりと頭を垂らしていた。
「ご苦労であった。まずは静養だな」
 火影の言葉を耳にした医療班は彼女の方を抱き、火影室を出ていった。それを見届けると、扉を開けて医療班の一人が待っていた。
「……いや、オレは大丈夫だから」
 体は鉛のように重かった。早く家に帰って休もう、カカシはそう思っていた。
 突然行方をくらましてしまったくノ一は戻ってきた、これで終わった。
 任務完了だ。



 ぼんやりと影を映すのは、満月の月明かりだった。すっと鼻を鳴らすように息を吸い、辺りを見回した。様々な匂いが入り交じる空気、決まった時刻に聞こえる電車の音、車の走り去る音。夜でも明るく輝きをみせる高い建物—— そんなものはここにはない。まるで、幻を見ていたかのようだ。そう思う一方、想像する。あのマンションの玄関を開け、なんの違和感もなく彼女は「あー疲れた」と言って、のんびりとあのソファーに寛ぐのだろうかと。
 そんなことを考えながら歩いていると、あっとい間に見慣れたアパートが見えてきた。ポケットに入れていた鍵を探しながら、カカシは玄関のドアノブを握った。
「あ……」
 いつの間に紛れ込んでいたのか。指先に振れたのは家の鍵ではなく、見覚えのある銀色の硬貨だった。百円、と言っていた。入れた記憶は全くないと思いながら、もう一度ポケットを探った。今度こそ部屋の鍵を手にしたカカシは鍵穴にそれを差し込んだ。
 玄関を開け、無意識に足元を見つめた。当たり前だが、そこには小ぶりのサンダルも無ければ先の尖った黒い靴もない。
 そこから除くのは、出立前のいつもどおりの静かな部屋だった。


 窓を明けると夜の空気が流れ込んできた。
 そして、カカシが思い返すのは、彼女と最初に出会った日のことだった。

 あの目のまわるような空間に耐え、やっと楽になったと思えば想像もしていなかった場所に立っていた。ここは何処だと思った瞬間に胸元にぶつかってきた彼女は唖然とした表情を浮かべていた。その時、彼女にどう思われているのかは一目瞭然だった。
 初めは野宿でも、そう考えて里を立ったはずなのに、ほんの少しの賭けに出たのが始まりだったのか……。
 警察とやらが何であるのかもすぐにわかった。時間も限られているというのに、そんな者にのんびりと付き合っている暇はなかった。
 それに、見た瞬間……、

 この子、——

 そう、思った。
 だが、それは勘違いだった。少しでも何かあるのならと色々なことを試してみたのに、彼女は全くそんな素振りを見せなかった。それどころか驚いて失神し、不安げに見つめてくる。一度でやめておけばよかったのに、何度か試してしまったのも悪いとは思う。しかし、あまりにも似ていたのだ。自分の知っている……——
 何にしても、最後は目的の人物にたどり着いたのだから、結果オーライと言えばそうなる。

(オレの感も鈍ったもんだな……)

 明日、目が覚める頃にはこの訳のわからないもやもやもすっきりしているだろう、そう思いながらカカシはベッドに寝転んだ。

 目を閉じると、彼女が—— が、「ただいま」と玄関を開ける姿が思い浮かんだ。
 夕食は一応レトルトを買い置きしていたし、水も買っておいた。また買い出しに出かけてへとへとにさせないようにはしておいた。彼女の買ってくれた服や生活用品を捨てるのは気が引けたが、そうする他無かった。残っていると妙な事になってしまう。唯一のミスといえば、百円玉を持って帰ってしまったことくらいだろう……。
 両手を頭の後ろに組むと、ほんのりと柔軟剤の匂いがし、カカシは思わず動きを止めた。明らかに、この世界にはない匂いだった。
『そういえば、あの服、洗ってもいいの?』
 そう言って、洗濯機のある脱衣所から顔を出したを思い出した。
 あの時は特になにも思わなかったが、やっぱりそのままにしておけばよかったと今頃になって後悔した。
 あの国は本当に平和だった。少なくとも、テレビで見ていたような銃撃戦というのは無縁の場所だった。内情を知ればまた違う考えを持つかもしれないが……。不思議だったのは、皆どこか疲れていて、浮かない顔をしている人が多いこと。人に関心がないのか、自分のような男が突然あのマンションに居付いても、とやかく言う者はいない。それどころか、は隣の部屋の住人を見たことがないと言っていた。知らないほうが安全なんだと。とは言え、一人殺されるだけでニュースになり、新聞に載るような世界は十分平和だと言えるだろうとカカシは思った。

 彼女がこの世界に来たら、どう思うだろうか。

 と、そこまで考え、途端に馬鹿らしくなる。
 いつまでも一つのことを考えているなんて、本当に馬鹿げている——

 まどろみの中でカカシが思い浮かべるのは、明日の朝にはを忘れている自分の姿だった。