—— あの日から、三年が過ぎようとしていた。
「お先に失礼します」
誰かがそういった。
それを見計らったように、は席を立った。熱心にパソコンを見ていた上司も、「他のみんなも、そろそろ切りの良いところで帰りましょう」とまるで新任教師のように言うと、ジャケットを羽織った。今年の春—— 人事異動でやってきたのは、なんとあの同期の山田だった。若すぎると随分と批判を受けたようだが、この島のみんなの意見は賛成の満場一致だった。前任者は降格になった。きっかけは些細なことだったはずなのに、芋づる式に次々に不正が発覚した。当然のように動画サイトの件もばれてしまった。誰かの堪忍袋の尾が切れたらしい。すっかり定時退社が板に付いてきたこの部署は、今では平和な日々を送っていた。
「、お疲れ! デートか?」
「デートじゃないですよ、お先に失礼します」
隣に座る先輩は相変わらずだった。二人のやりとりを見てクスクス笑う人もいる。にこやかな職場になった。
ビルの正面玄関から一歩外にでると、日が落ち始め、夕焼け空が向かい側のビルから顔を出していた。
通り過ぎるのは帰社を急ぐサラリーマン、友達と話をしながら歩く4人組の学生、ショッピング帰りの若い女の子など様々だった。
自分もそのなかに混ざろうか、という時。肩を叩かれ振り返ると、先にビルを出たと思っていた山田が人当たりの良いいつもの笑顔を浮かべていた。
「お疲れ様です。山田課長」
「またそんなこと言ってさ、山田でいいって言ってるじゃん」
「課長は課長でしょ?」
同期だろうが、上司は上司。一番手で出世街道を歩み始めたこの男の邪魔をするつもりは毛頭なかった。
「今から飲みに行かない?」
「あ、ごめん。私、引っ越しの準備があるんだよね」
「あー、そう言えばそうだっけ」
そんな話をしていると、あっという間に会社の最寄り駅にたどり着いた。一本でも早い電車に乗れるようにと改札を通り抜けた人々は器用に人の流れをかき分けていく。
彼らと同じように、自分もその流れに吸い込まれていった。
つり革を持つような余裕もなく、はバッグを両腕に抱えて箱の中で揺られていた。静かなサラリーマン達の傍らで、高校生がスマホを片手に通学帰りの会話を楽しんでいた。ガタンゴトンと揺れる電車で、一緒に乗り合わせていた山田が、そういえばと呟いた。
「今夜はスーパームーンらしいよ」
「……そうなんだ。それって、」
会話はそこまでだった。すっかり降りるタイミングを忘れそうになっていた山田はすみませんと言いながら慌ててかけていった。こういうところは全く変わっていないなとは思う。いつも話すタイミングが遅かった。
少し人が減ったと思えばすぐに車内には新たな人が加わり顔ぶれが様変わりした。出入り口の方から座席前に追いやられ、は車窓を窺える位置でやっと落ち着いた。
(そう言えば、あの日もそんな日だったっけ……。)
突然目の前に現れ、突然居なくなったあの男の存在。
今朝まで普通に家に居たはずの居候は、突然姿を消した。ご丁寧にも、身の回りのすべてのものを整理して。しかも、姿を消したのはあの男だけではなかった。親友と思っていたも居なくなった。というより存在がなくなった、と言ったほうがいいのかもしれない。
メッセージは既読になるどころか有るはずのアイコンは消えていて、彼女に関する情報のすべてが消えていた。どうなってるのかさっぱりだった。とりあえず、本人に確かめようと彼女の実家まで出向いた。だが……、
『あなた、どちら様? うちには娘なんていませんよ』
—— 結婚して25年間、ずっと夫婦二人暮らしなんだから。
混乱、というよりも恐怖に近かった。自分の記憶と食い違う証言に、逃げるようにその場を去った。という女の子なんて知らないというのだ。あんなに可愛がって、自慢の娘だと言っていたのに。それだけではなかった。後輩も、山田も。誰もあの男の事を覚えてはいなかった。
皆、忘れていた。自分を除いて……。
こんな現実離れした話を誰が信じるというのだろう。頭がおかしくなったんじゃないかと思われるのが嫌でそれ以上のことを言えず、当たり前のようにやってくる日常と非現実的な思考の間で揺れた。
電車のアナウンスを耳にし、は慌てて最寄り駅に止まった電車を駆け下りた。いつものようにスマホをかざしながら、改札口を通り抜け、いつものコンビニに寄った。
今日は金曜日。久しぶりに何かご褒美でも、と思いつつ節約の文字が浮かびその手を止めた。いつもの夕食だけを買い足して、コンビニを後にした。
マンションの前にやって来て、それを見上げた。
(結構気に入ってたんだけどな……)
更新も残っている。本当なら、まだ住み続けてもよかった。だが、あの時のことが永遠に忘れられないような気がして、ここよりも三駅先のアパートに引っ越すことにした。以前住んでいた場所、そこですべてをリセットする、そうしようと決めていたのだ。
空を見ると、いつもよりも大きめの月がこちらを見つめていた。ロマンチックだと騒ぎ立てる世間を冷ややかに思う。
ここを通るのもあと僅か。
バッグから鍵を取り出して、いつものように自動ドアを通り過ぎた。
自宅に戻ったはバッグも床に置いたまま、着替えもせずにソファーに腰を下した。部屋にはいくつもダンボールが散らばっていて、片付けが中途半端に進んでいた。これをすべてしまうのか、と思うとため息が出る。何しろあと数年は引っ越さない気でいたこともあり、色々な物を買い揃えてしまっていた。捨てる物が少なすぎるのだ。とりあえずどこか一つでもダンボールに詰めておこうと、手付かずになっていたリビングのチェストの引き出しを開けた。何かうまくまとめる方法はないかと思いバッグに手を伸ばした。
「あれ? うそ……」
いつものポケットにあるはずのスマホがない。どこに入れたのかと服のポケット、玄関の棚、テーブル、色々な場所を探ったが、見つかる気配はなかった。自分の行動を振り返り、はため息をついた。レジの物置台にバッグを置いて財布をだした。ポイントも付けてもらおうと……スマホを物置台に置いた。いつもならすぐにしまうのに、なぜか今日に限ってそこに置いてしまった事を思い出した。
(もう……、まだあるかな、ありますように!)
は慌てて玄関を飛び出した。
エントランスのドアを開け、小走りで駅の方へ向かった時だ。思い切り何かにぶつかったは尻もちをついた。慌てていたは気づきもしなかった。
あの時とよく似ているという事に……。
「……あ、すみません」
親切なことに、立ち上がる手助けをしてくれた。差し伸べられた手を握ろうと、顔を上げた。
何かの間違いか。これは錯覚か。
「あ……」
もう一度会ったら絶対に文句を言う、そう決めていたのに、顔を見て出てきたのは情けない吐息だった。は目の前の男を頭の先から爪先まで見た。これは幻覚なのかもしれない、そう思ったが、真横を通り過ぎた女子高生が奇妙な視線をこちらに向けたことに気づき、その可能性は消えた。今度あんな事があったら、家に泊めろだなんて言われても絶対に泊めないし、どんな頼み事をされても無視すると決めていた。だから、今回も無視することしか選択肢にないはずだった。
三年前、同じような状況下で落ち着きを払っていた男とは思えなかった。
おどけた様子もなく、はたけカカシと思われる男はただ、驚いていた。
「もしかして、オレのこと覚えてるの?」
何を言っているのだろう、この男は。
覚えてるか、だって?
は何度も心の中で呟いた。
絶対に無視する、そう決めていたはずだ。
「なんで、……」
そして、はっとする。腰回りを探った所でスマホが出てくるわけもなかった。自分が何をしようと家を出たのか思い出す。スマホは駅前のコンビニだ。つまり、今回も前回と同じくして警察に連絡する手段を持っていなかった。だが今回は走って交番に行く、という手段がある。
「残念ながら、今回はケイサツとやらとおしゃべりしてる時間はないんだよね」
気がつけば、カカシに手を捕まれ、は不自由な身になっていた。
手短に話すけど、と、勝手に話し始める男の言葉を飲み込むのに、大分時間がかかった。
ああそうですか、さようならと言うつもりだった。
まったく意味がわからない。
この男、はたけカカシという男は出会ったときからそうだった。
とにかく、無茶苦茶なことばかり言って、混乱させるのだ。
「要するに、本来はここに居るべき人じゃないってこと」
カカシは平然と言った。