店を目にしたは魂が抜けるのではないかと思う程に長い溜息をついた。毎日綺麗に磨いていたであろう窓ガラスは、雨水の跡や砂埃ですっかり輝きを失っていた。店先では雑草がいきいきと育っている。いつまでも外観を見つめているわけにもいかなかった。とりあえず中に入るべきだが、すっかり錠前は錆びついていた。それになんとか鍵を差し込もうと四苦八苦しているを目にしたカカシはそれを受け取り、器用に解錠してみせた。
「わ、ありがとうございます」
鍵を開けただけなのに、は感心したような声をあげ、頬を緩ませた。引き戸を開けると、がりがりと砂を引く音がした。店内を見たカカシは今度こそは本当に途方にくれるだろう、そう思った。蜘蛛の巣がはり、埃まみれになったテーブル、ショーケースはどんよりとくすんでいた。中に入れていた店ののれんは所々カビが生えている。そんな店内を見ていると、久しぶりの人の気配にいそいそと身を隠す何かをカカシは目にした。うつむいたを見たカカシはそっと肩に手を添えた。
「オレも手伝うから、そんなに心配しなくても、」
大丈夫だから、と言いかけてカカシは口を噤んだ。すぐに心配という言葉が必要ない事に気づく。はさっと両袖をたくし上げ、「前よりうんと綺麗な店にします、絶対!」と決意表明をし、さっそく箒をとりに店の裏手へと向かった。店の床には、見覚えのあるサイズの足跡がうっすらと残っていた。
スイッチが入ったはとてもしっかりしていた。あれがない、これが駄目になったと言いながらも悲しむ様子は見受けられなかった。これまで、彼女はずっとそうしてきたのだろうとカカシは思った。
そろそろ休憩しようと声をかけなければ一日中動き回っていたのではないだろうか。カカシの予想では開店まで二週間はかかるとふんでいたのに、は一週間で店を再開した。
「カカシさんのおかげです、ありがとうございます」
開店初日。カカシはの店がそこそこ人気であったことを初めて知った。が一生懸命つくっていた和菓子は時間を追うごとにショーケースから姿を消し、予定よりも少し早い店じまいをすることになった。がつくる和菓子細工はとても可愛らしい上に繊細で、味は控えめで食べやすいと評判だった。
「いや、これは受け取れないよ。そんなつもりで来てないし」
「でも、色々手伝ってもらったのに、」
「オレは重いもの持つくらいしかしてないから」
カカシはが差し出した封筒をやんわりと突き返した。色々と世話になったと言ったことも忘れているのか、はそれを握りしめ、何かお礼をしなければ気が済まないという顔をする。
「本当ならお夕食でもといいたいのですが、……その〜……」
恥ずかしながら得意ではないとはぽつりと言った。
夕方の鐘の音を聞きながら、カカシはそれならばとある提案をした。それを聞いたは少し驚いた顔をした。
「わー……、カカシさん、本当はプロの料理人なんですか?」
カカシが台所に立っていた時と同様に、テーブルにならんだ皿を見たはきらきらと目を輝かせた。
「そんなわけないでしょ」
「あ、そうですよね、すみません、……でもほんとに凄い!」
いただきますと手を合わせたは何を思ったのか、じっとカカシの方を見つめていた。
「ん?」
「あ、いえ、なんでもないです。ただ、ちょっと懐かしい気がして……すみません、変なことを言って」
忘れてくださいと言いながら、は照れたような笑みを浮かべた。そして、初めに箸をつけたのは卵焼き。
「おいしい!」
ほんのり塩味のするそれを口にしたは頬を緩めた。
そんな彼女を見ていると、自然と口元が弧を描く。
「はさ、今、幸せ?」
自分は何を言っているのだろうか。
今更こんな事を聞いてどうするんだと思いはしたが、カカシは聞かずにはいられなかった。するとは目を点にしたようにえっと小さく呟いた。心臓がちくりとした。あの時と同じだった。にこちらに戻るかどうか選択を迫った時。自分の不甲斐なさを実感したあの時だ。
『君を迎えにきたんだ』
そんな立派なセリフを言える立場ではない、そう思ってしまった。
「そうですね……、」
はカカシの言葉を噛みしめるように呟いた。
店の切り盛りは色々大変だけど、大好きな和菓子を作れて、それを好きだというお客さんがいて、些細なことかもしれないけれど、それが幸せだと言う。
「今も、こうして……」
「え?」
「あ、いえ、なんでもないです」
とは笑った。
今度は弟子たちを連れてくると約束し、カカシは自宅へと足を向けた。
ポケットに手を入れて、その存在を確かめる。
指先で弄ぶかのように、銀色のそれをくるくると回した。そして、一人失笑した。を別の世界に置いてきて、それで幸せでいてくれたらなんて一瞬でも考えてしまった事を。
—— 夢のようなひと時
こんな世界でも、どこかに理想とする幸せがあるのかもしれない。
そう考えれば、今のこの感情も納得できる、と。