「の場合、ある意味戦いだよね」
その時私は同僚のこの言葉を深く考えていなかった。
「新作にしようと思ってるんだけど、どうかしら?」
私は差し出されたタッパーの中身を凝視した。
「あのー、それって私が食べても大丈夫なんですか?」
「ええ、もちろん。この時期はみんな何かしら新商品を出すでしょう?うちだけ何も無いのはね〜」
いつから鹿煎餅は兼人用になったのだろうか。なかなか手が出ない私を店主が不思議そうに見る。
「あ、もちろん型も新しくしたわよ?さすがに別にしないと……って、私、人用って言ったかしら?」
「もしかしたら、言ってないかもしれないです」
「あら、ごめんなさい!でも、いくら常連さんといえさすがに鹿煎餅は出さないわ」
と、店主は笑ってごまかした。
場所は鹿煎餅専門店。試食という概念がないこの店で、このやり取りは異様な光景だった。
誤解が解けたところで私はさっそくハート型のそれを口にした。こ、これは……。間違えて鹿たちに与えたら大変なことになるだろう。一瞬にしてモテモテになること間違いない。しかしこれ以上モテたら私は困る。餌やり当番がオンリーワンになりかねない。
「これだけでも美味しいですけど……チョコレートをかけたらもっと美味しくなるかも」
「あ、そうね!チョコレート」
そうそうに店の奥に引っ込もうとする店主を私は慌てて引き止めた。この店の私の本命は鹿煎餅だ。
「待っておばちゃん、これ3袋お願いします!」
「毎度!あ、これ全部食べちゃっていいからね」
「ありがとうございます」
それでは遠慮なく、とさっきより大きめのかけらをもう一つ。これは店の看板商品に並ぶ勢いで人気がでるかも。常連というのがほぼ奈良家であるこの店に、ご新規さんがくる大チャンスになるかもしれない。
「お前、いくら腹が減ってるにしてもだな……」
「ん゛?!」
振り返るといとこのシカマルが呆れた顔をして私を見ていた。もちろん、慌てて誤解を解こうとしたのはいうまでもない。しかし、このクッキーは一つ難点がある。
口の水分がすべて奪われる。
非常にどかしい状態だ。ふふっと息を漏らす私に、シカマルは訝しげな眼差しを向けた。
「……なんか良いことでもあったのか?」
違う、全部違う。
しかし、私は黙ったままシカマルの服の袖を引っ張ることしかできない。
「なんだよ?」
私はものすごく焦っていた。というのも私は学習していた。確率で言えば八割五分くらい。
シカマルが居るところに、六代目様あり。
「あら、六代目様!」
店先までやってきた六代目様は、店主が持つ物をじっと見つめた。
「新作なんですよ、今チョコレートをかけたばかりなんです。ちゃんがいい案出してくれて、ね?」
確かにこれに必要なものはチョコレートと言ったが、間違っていたと一刻も早く店主に伝えなければならない。必要なものは、間違いなく水分である。
「六代目様もいかがです?」
「ありがとうございます。ただ、これから用がありまして……。すみませんが、また次回にでも」
にこやかな笑みを浮かべた六代目様を目にすれば、それ以上口にしようと思わない。きっと、店主もそうなのだろう。
「そ、そうでしたか……お勤めご苦労様でございます」
と、胸の前で手を揃え、ほんのり淑やかに。鹿煎餅屋の店主は商売気が引っ込むと品の良い奥様に様変わりした。「ありがとうございます」と告げる六代目様しか視界に入らないのか、店主は愛犬を腕に抱いていた時のように、試食品の入ったタッパーを撫であげた。
いつもの私ならここで「六代目様!」と声を掛けるのだが、この時ばかりは店主と同様、無言で六代目様の背を見送った。いや、同じくというのは間違いだ。少なくとも今回は店主のようにとろんとした目をしていなかったと思う。
そもそも、なぜ私は鹿煎餅屋で時間を浪費していたのか。
話は買う派だった同僚がいともあっさり手作り派へと移行してしまったことから始まる。彼女は「気持ちがあれば何でも大丈夫だって」と言うけれど、手作りのお菓子なんて。六代目火影に初めての手作りを渡すなんて……。もし、そんな事がスマートにできれば私は鹿煎餅屋で長居することなどなかっただろう。
もしこの時、私の口が自由だったら全力で否定できたのに。
「あ、そうか……。なるほど」
六代目様の視線はしっかりと私の左手を見ていた。
□ □ □
すっかり世間はバレンタイン一色。来る日は刻々と迫っているというのに私は本命を決めかねていた。非常にまずいことになっていた私は藁にもすがる思いだった。久しぶりにいとこの家へ向かうと、彼の姿はどこにもない。ヨシノおばさんに聞いたところ、彼は物置だという。忙しい合間に家事手伝い、なんと多忙なことだろう。
「シカマルー」
「あ?」
「あ?じゃなくてさ〜ちょっと聞きたいことがあって、」
「なんか手頃な箱ねーかな」
シカマルは私のことなどお構いなしに物置を物色中。一度くらい振り向いてもよさそうなものだ。
「箱? 竹籠でもいいなら納屋にあると思うけど」
「竹籠、ま、それでもいいか」
ないよりマシだとシカマルは腰を上げ背を伸ばす。
「何に使うの?」
「ああ、回収箱に使おうと思ってな、バレンタインの」
なんだって?
「……そんなに貰うの?」
普段、奈良家のおじさんたちに「シカマル様」とからかわれる姿ばかり見ているのもあるだろう、いつのまにそんなにモテるようになったのかと私は少しショックだった。ひょっとすると近すぎると気づかないのかもしれない。思い返せば私に妙なことを言う子が居た。来館直後にもかかわらず貸し出しカウンターに居る私の所まで直行し「シカマルくんの妹ですか?」と聞いてくるのだ。私が兄妹ではないと答えると、「なぁ〜んだ」と本も探さず帰っていく。ちなみに年下でもないと言いそびれた。いとことも言い忘れた。
私の言葉はきちんと届いていたらしく、シカマルは「はぁ?」と悪態をつく。
「これはオレじゃなくて火影用だ」
……なんだって?
「あのーそれはどういう……あっ、待ってよシカマル!」
シカマルは竹籠を求めてひょいと垣根を越えていく。残念ながら私にはそんな芸当は無理なので表玄関まで大回りしなければならずまた時間をロスした。バレンタインデーが直ぐそこに迫っている。もたもたしている時間はないというのに見事に見失う。逃げられた……。
しかしその翌朝、予約本を借りにきたサクラちゃんから運良く情報を得る事になった。
「ああ、カカシ先生? 昔から苦手みたいよ、チョコレートとか甘いもの」
「えっ、そうなの?」
「でも、さすがに107歳のおばあさんは断れなかったみたいね。あのおはぎ、20個はあったかしら?お重箱いっぱいに詰まってたから……カカシ先生ったら一個でギブアップしちゃったの。 結局みんなで食べる事になって、あ、これは秘密よ?」
「あ、うん」
「……もしかして、カカシ先生に渡したいの?」
才女の眼光が私を射る。
「えっ、その、いつもお世話になってるし、渡す機会があったらいいな〜と思って、機会があればね!」
フハハっと妙な笑みを浮かべた私を見て、サクラちゃんは怪訝そうな表情をする。今までどうしていたのか、という疑問も含んでいたかもしれない。もちろん渡そうとした事もあった。せめてチョコレートだけでも、と思って火影室を覗くと既に机の上には山のようにギフトが積まれているではないか。おまけに廊下ですれ違ったお姉さんのいい香りと言ったら……。就業後、慌ててエプロン姿で来る場所じゃないのだと思い知った苦い思い出が蘇る。この時期は火影室から足が遠のいていた。しかし、私もそこそこな年齢になった。今年はリベンジするべきだ、そう思っていた。
「……わかった、今はそういうことにしておくわ。でも、そんなこと言ってたらいつまでたってもカカシせん」
「オレが、どうしたって?」
サクラちゃんと私は目があったまま身動きを止めた。
まさかこのタイミングでいらっしゃるとは思いもしない。サクラちゃんの背後に立った六代目様はまだまだ甘いとおっしゃった。忍たる者なんとやら、という事らしい。
「悪口なら隠れて言ってほしいんだけど。傷つくでしょ?」
「わ、悪口だなんてそんな!」
私はこれでもかと言うほどに顔を横に振って否定する。
「まあ、それは置いといて。
、館長は? もしかして休み?」
六代目様はちらりと奥の事務所を覗き込んだ。
「あ、はい。今日は有給休暇です」
「そりゃ良い傾向だ。これ、館長に渡しておいてほしいんだけど頼める?」
「わかりました、お預かりします」
受け取った袋の中身は見えなかったけれど、たぶんこれは本だ。ハードカバー。わざわざ封筒に入っているということは、見てはいけないものなのだろう。重要書物かもしれない。
「ところで、どうするんですか?」
不意にサクラちゃんが六代目様を覗き込む。
「ん?」
「今年のバレンタイン」
「あー、それね……。シカマルがおしゃれな竹籠を持ってきてくれて、今年はいい感じに整ってるよ。確かにダンボールはマズかったよな〜。いやー反省、反省」
私は確信した。そのおしゃれな竹籠というのはおそらく自宅の納屋から発掘されたであろう物で99.9パーセント間違いない。
「じゃあ今年もやるんですね」
「まあね。あんまり期待はできないけど」
バレンタインに竹籠。こんなことならシカマルにもっと詳しく聞いておけばよかった。話についていけない私はたまらずサクラちゃんに問いかけた。
「それって?」
「去年から孤児院に寄付をしてるのよ。でも思うように集まらないから、今年はどうするのか気になってたの」
「そうなんだ……」
知らなかったとは言えずエプロンの紐をイジっていると、サクラちゃんの目つきが変わった。六代目様に向ける眼差しには正義感が漂っていた。
「先生が断らなければもっと集まるんじゃないかしら」
えっ、断る?
確か、さっきもサクラちゃんは断れなかったと言っていた。ということは六代目様は、……。
「そんな無責任なことできるはずないでしょ。それとこれは別の話。それにオレは安易に受け取らない主義なだけ。」
「確かにそうだけど……カカシ先生って、律儀なの?それともただの堅物?」
「堅物って……」
「あ! じゃあカカシ先生が受け取った時こそ本命ってことね!」
「さあ、どうでしょう……というか、
はまだ仕事中なんだから、お喋りはこの辺にしときなさい」
と、先生の顔を見せた六代目様は「あー忙しい」と言いながら背を向けた。
するとサクラちゃんはぷりっとした顔をして、
「すぐはぐらかすんだから……って私も忙しいんだった!」
今から試作品を作らなければならないからとお菓子のレシピ本を5冊抱えて帰っていった。
昨年机の上にあったギフトの山々……。どうやら六代目様は何も受け取らない主義、だからせめてもと置いていったのだろう。あれは足跡を残そうとした結果だ。世にはバレンタイン商戦というものがあるのだから、同僚が言うようにこれもある意味“戦い”かもしれない。
そして、バレンタインデーの前日。黄昏時。
私は仕事帰りに火影室を訪れた。あいにく六代目様は不在だったけれど、それでも構わなかった。
赤い紙袋に沢山のチョコレートを詰め込んだ。中身はすべて市販のチョコレートだけど、今はこれが正解だと思う。竹籠の中は思ったよりも少なく、私が入れた紙袋は少々目立った。気合を入れすぎたかもしれない。
「これでよし」
こういうのは誰にも見られてはいけない。大役を果たしたように、私はほっと息をついた。そして、そこから五歩程歩いた時、
「あ、もしかして急用?」
火影室に戻る六代目様と目があった。手ぶらな様子から考えると、散歩にでも出かけていたのだろう。とっくに定時は過ぎていたし、こんな時間に私がここに居るのは変だ。何かあったと思うのは無理もない。
「い、いえ!何もないです!シカマルにちょっと用事が」
「ああ、そういうこと……ん?」
ひらりと落ちた紙を六代目様が拾い上げた。
「あ、すみません、ありがとうございます」
恥ずかしいものだったらと思うと見るに見れず、私は急いでポケットに突っ込んだ。
「いや……こっちこそありがとうね」
「いえ?」
「そういえば、この前持ってた紙袋はおじさんたちの分?」
「あっはい、そうです」
質より量!と豪語するおじさんたちへの大量の義理チョコ。徳用バラエティパック。何しろ人数が人数。まともに買ったら確実に破綻する。それをどうして六代目様がご存知なのか。もしかしたら、シカマルに聞いたのかもしれない。
「……そりゃご機嫌なわけだ」
「あの?」
「いや、独り言」
そう言って、六代目様は目元を細めた。
あの時サクラちゃんと話してよかったとつくづく思う。というのも、竹籠の中はすべて孤児院行き、寄付用だったのだ。そうとも知らず、私は別の事を想像していた。実にさもしい話だ。
結局、今年も六代目様には何も渡せなかった。本気で渡そうと思えばいくらでもチャンスはあったはずなのに。私はこの戦いにおいて白旗を上げ続けるのかもしれない。
私事だが、昨晩家計簿を開いたのはいいけれど肝心のレシートが1枚行方不明。確かに貰ったはずなのに、どこに入れ込んでしまったのか思い出せずにいる。この本を片付ける頃には思い出すだろうか……と、六代目様だ。こんな人気のない場所までいらっしゃるのは珍しい。
「六代目様、なにかお探し……」
しっと口の前に人差し指を添えた六代目様は……、
「いや、あのさ……
、」
「は、はい……」
「……おはぎ食べる?」
Act.8 戦線離脱により離席します