「なんだ、もう降参かぁ~?」
いつにも増して眠たげな目をした男がこちらを見ているのに気づき、ガイは口元からグラスを離した。さっきから全くパンチがなく味けない。これは白湯かとテーブルを見るといつの間にか空きの一升瓶が転がっていた。
「んなまさか。それよりあの子、こっち見てるけどいいの?」
「あの子?」
カカシの視線を辿るように、ガイはそちらを盗み見た。一人の女と目が合ったかと思うと直ぐに視線を外される。どうやらライバルは相当酔っているようだ。あのような女は見覚えがある。カカシを好いてる女に似ている。ただいつもと違うのは、猫なで声でこっちにやってこないことだった。
「オレじゃなくお前だ。酔うのが早すぎるぞ、まだひと瓶しか空けてないだろぅ……」
わざわざ言わせてくれるな。
心の中で毒吐きながら、ガイは再びグラスに手をつけた。肴に箸をつけるが、切れていないのか摘むのに手こずる。
「いや、酔っ払いはお前だよ」
「これくらいでオレが酔うはずがない」
「じゃあ、それはなんでしょうか?」
カカシがそれという場所を見るが、なかなかピントが合わない。かすみ目にでもなったのかとガイは睨むように凝視した。
「……板わさ」
「ブッブー。ハズレ」
腹の立つ言い草にむっとしつつ、ガイは手元をみつめた。言われてみれば、おしぼりに見えなくもない。だが、だった一升で酔うはすかない。仮に少々酒が効いてきたとしても、さっきの話はカカシの思い違いでしかないとガイは思った。特別に粧し込んでいることくらい、少しばかりオシャレに疎くてもわかる。これまで口紅の色など全く気にしてこなかったが、この時ばかりは無性に気になった。
ここは酒場だが、大衆居酒屋だ。生ビールから始まり、焼酎と清酒ばかりであとは安っぽいワインしかない。そんな場所だ、その女の格好は少々目立っていた。そんな事を考えていると、椅子の音と共に人影が伸びた。そしてその影はだんだんとこちらのテーブルに迫ってくる。ああ、そういうことか。そりゃそうだろうな。と腑に落ちたガイは再び味気ないグラスに口を付けた。
「お隣いいですか?」
その声はとても澄んでいた。目の前の男に熱っぽい視線を向けているであろう人物を直視することなく考える。
そろそろオレは出ていった方がいいのだろうか。せっかくいい勝負だったのに……。ガイはカカシがおしぼりと言ったそれに視線を落とした。
「ええ、どうぞ。じゃ、オレはこの辺で」
ほろ酔いなのか、カカシの声はやけにのんびりとしている。「ガイをよろしくね〜」と席を立つ。
おいおい、そりゃないだろ。
ガイはライバルへ視線を送るが全く効果はない。まるで度の合わない眼鏡でもかけているように、幾重にも重なって見えた。
「待て、勝負はまだ終わってない」
「だーから、お迎えだって。お開き」
カカシは呆れたように呟くと伝票を手に持った。珍しくおごる気で居るようだ。
「おい、」
カカシの後を追うつもりが、目の前を阻む人影にガイは思わず静止した。
わけがわからない。この女は酔っているのだろうか? そう思わずには居られなかった。すとんと椅子に腰をおろした女はじっとこちらを見つめた。やや熱っぽく感じるのは気のせいだろう。
「カカシなら出ていったが」
「そうですね」
その表情は読み取れない。ただ、赤い口紅が孤を描くのがわかった。何か面白いことでもあったのかと考えるが、特にない。たった数分で面白いことなど何もない。
「……いくら酔ってるにしても人で遊ぶのはどうなんだ?」
「え、遊ぶ?」
ガイの予想に反して、女はきょとんとする。戸惑いを隠す様子もない。
「すっとぼけなくともわかってる」
「さっきから何のことを……あ。酔ってるのはガイさんでしょ?」
「は?」
女はくすりと笑った。せっかくオシャレをしてきたのに、と残念そうに言うのだ。そして、手にしていたグラスをぐっと前に押し出した。
「なんだ……?」
「お冷です」
目の前の手は華奢で、所々荒れていた。派手な口元とは随分対照的だ。正直に言えば、もっと艶やかな手をしてあると思っていた。爪だって色を差しているものだと。なのにこの手の爪は短く切り揃えられている。ぼんやりとそれを見ていたガイは、そっと手を伸ばした。なぜかその手が気になった。これも見覚えがある、そんな気がしてならないのだ。
「ガ、ガイさん……?」
澄んだ声は、戸惑った声に変わる。テーブルには二つのグラスが並んでいるが、どちらが酒かなど見比べた所で判断がつかなかった。ガイは諦めたように右側のグラスを手に取ると、口に含んだ。冷えたそれが喉を通る。ぼんやりとしていた視界が時折鮮明に映りこむ。
「ガイさん、それを飲んだら一緒に帰れます?」
「帰るなら一人で帰る」
「そんな〜」
おかしい。とにかく変だ。
「あ、全部飲んでください!」
ガイは目の前を見つめた。真っ赤な口紅をつけた女が親しげに名を呼ぶ。だが、声はのようだ。カカシはどこに行ったんだ?いや、さっき伝票を……。もう一度グラスに口をつけたガイは思い切りそれを飲み込んだ。
赤い口紅の女は、……本物のか?
そう思ったとたん、朦朧とした意識が鮮明になっていく。
グラスの中は酒でも水でもない、酔い覚ましの入った水薬か。
「ん?」
違和感に頭を傾げる暇も無い。
もう片方を見たガイは声にならない声をあげた。
「いつ私だって気づきました?」
「もちろん、初めから……」
「初めから? ほんとに?」
は眉を潜めた。ガイを見るそれは疑いそのものだ。
「お酒はほどほどが一番だって前にも……ガイさん、聞いてます?」
「……今日は、なんで違うんだ?」
唐突だったからだろう。はえっと小さく息を漏らした。
「あー……たまにはどうかな、なんて思っただけです」
気の迷いみたいなもの、気まぐれだと述べた声色は案外淡白だ。
「でも私に派手なのは向かないかな。ガイさんもそう思うでしょ?」
と、こちらを覗き込むはいつも目にする姿と変わらない。紅い口紅を除けば……。
「なあ、」
「はい?」
「なんで一人であの店に来た」
「それは……たまたま」
すっかりクリアになった視界はの表情がとてもよく分かる。
「私だって、たまには居酒屋くらいひとりで行きますよ」
「そうか?」
覗き込むとは顔を背けた。
酒はすっかり冷めてしまった。それなのに、なぜか脳裏から弧を描いた紅が離れない。
「いいんじゃないか、ほら、そのー……それ」
「それ?」
「その色」
できることなら自分の前だけに留めておいてくれないか、などと言えるわけもなかった。慣れないことはするもんじゃない。歩みを止め、すっかり黙り込んだ隣の彼女を見て、ガイは焦った。
「いや、やっぱりさっきのことは……」
ちらりとを見ると、彼女の頬はわずかに朱色がかっていた。珍しく「あの」「えっと」と、口籠るの頬は濃くなるばかりだ。これにはガイも困った。すっかり返答に困り果てているではないか。
「、さっきのは」
「じゃあ、また付けてきます。今度、お茶するときにでも……」
「……そうか。」
だが、その“お茶”は誰と行くのだろうか。
ぼんやりとしていた疑問がふつふつと熱を持つ。もしかすると、あの酔い醒ましは少々薄かったのかもしれないとガイは思う。
「ガ、ガイさんに決まってるじゃないですか!」
嘗てないほどに真っ赤になったを見るまで、声に出していたことも気づかなかった。