空蝉-番外編-

もついてくる?」
 そう言った母の手には買い物籠がさがっていた。「あれは?」と指差すに母親はくすりと笑う。「今日は要らないのよ」と。いつもの忍具ポーチは玄関に置き去りとなった。

 母が手を引いて向かった先は商店街。買い物メモを手にした母は、八百屋、豆腐屋、魚屋と順に足を進める。一つ一つ丁寧に吟味して。そうしていると、空っぽだった籐の籠はあっという間に一杯になった。はたと足を止めた母を見ては思った。楽しい時間が終わってしまうのだろうと。しかし、母は再び足を進める。「わすれもの?」と尋ねるに母はいう。

「違うわよ、ケーキの材料を買いに行くの。もうすぐお誕生日なんですって」

 不思議だった。母が誕生日ケーキの準備をしている。仕事から帰ってくると、普段はせわしなく夕食の支度をする母が。どうして?と思うのはごく普通のことだろう。なんせ、それは自分の誕生日のためではないのだから。
 しかし、そこは親だ。娘の心境を見透かしていた。
「夜遅くまで仕事だと、買い行けないから困るでしょ?」
 なら、今歩いているのは誰かのため。そういうことだろうか。
「……お母さんが作るの?」
「作るのはその子のお父さんよ。その子もね、と同い年らしいの。いつか、お友達になれるかもね」
 たっぷりと材料を買い込んだ後、家路を急ぐ。

「そうだ、あのねお母さん」




***




 物心ついた時からそうだった。
 額当てを付け、忍具ポーチを腰に回す。日が昇る頃には出かけていくのが常である。

「父さん、今日も遅くなるからな。昼飯と夕飯は冷蔵庫に入れてあるから。夜は冷えるから、しまった、腹巻きを干しっぱなしだ」
 靴は履いているのか脱いでいるのかわからない。聞こえるはずの、「行ってきます」はなかなか出てこず、もたもた、バタバタ、という言葉がぴったりだった。

「自分でやるよ」
「そうか、じゃあ、あ」
「今度はなに?」
「夜は早く寝ること」
「わかってる」
「本当か?また勝手に父さんの忍術書を見たりするんじゃないぞ。それから本を読む時は電気をつけなさい。夜ふかしは体に悪いから、」
「そろそろ出ないと遅れるよ」
「そうだな、じゃあ、あ!」
「まだ何かあるの?」
「大事なことを忘れてた」
「いい加減に……」
 
「じゃあ、行ってきます」

「……いってらっしゃい」

 やっとのことで送り出した父が、だんだんと遠ざかって行く。やがて消えるその背中をカカシはじっと見た。

 物干しは頑張れば手が届く。寝る前に本を読んだりしない。あげくに、大事な忘れものがアレだなんて。こんなことで遅刻する必要はない。

 カカシは父の手で乱されくしゃくしゃになった髪の毛をやや乱暴に撫でつけた。



 掛け時計が本日二度目の九つの鐘を鳴らす頃、誰に言われることもなく立ち上がり、居間を後にする。
 戸締りはした。本は棚から出していない。しかし腹巻きに関しては不服だった。
「カッコわるっ……」
 締め付けられるし、暑苦しい。もし敵がやってきて、こんな姿で外にでたら……。やはり格好がつかない。どんなにクナイを上手く投げても台無しだろうとカカシは思う。

 とっくに用済みとなった蚊帳をくぐり、おとなしく布団に潜り込む。部屋の中心に浮かんだ豆電球。それから伸びた長いより糸を引っ張った。

「おやすみなさい」

 カカシは真っ暗な部屋にぽつりと呟いた。一つ、二つ。数えた数は百を越えた。忍術書の続きが気になる。障子紙が居間の灯りを灯すまで、どれくらいかかるだろうか。
 どきどきと胸の音を感じなから、まぶたが落ちるのを待っている。

 とろんと微睡んだ時、障子の灯りが漏れた。台所から音がする。まさかと思いつつ、カカシは布団から這い出た。

「……お帰りなさい」

 その声で、父の背が絵に書いたように飛び跳ねた。
「お、起きたのか」
「何してるの?」
「なんでもない。なんでもない」
 仕切りに「なんでもない」と言い張る父は必死に何かを隠している。台所にはボールと包丁が転がっている。丸い何かが背後に見えた。
「それ、ケーキ?」
「あ、いや……はぁ。バレちゃったもんは仕方ないな」
 やっぱり。カカシは心の中で眉を下げた。嬉しい顔をするのが本当だろう。しかし、甘いのもは好まないのだから仕方がない。蘇るのは昨年のとびきり甘いイチゴのケーキ。口の中がクリームでいっぱいになった。唯一の助けである甘酸っぱいイチゴもシロップで煮詰められていてどこにも逃げ場がなかった。
 このままでは、このままでは……。
 誕生日が最高に嫌な日になってしまう。

「でもな、カカシ。これは大丈夫だと思うんだ」

 特別に教えてもらったのだと見せられたメモには《配合》と書かれている。違和感を覚えたのは言うまでもない。食べ物を混ぜるのに配合なんて書くはずがない。

「……本当に食べられるの?」
「何言ってるんだ、当たり前だろ。ちらし寿司なんだから」

 さすがにムッとしたのか、父は眉を潜めた。
 ちょうどその時だ。静まり返った部屋に鐘の音が零時を知らせた。

「カカシ、誕生日おめでとう。せっかく起きてるんだ、これからお祝いしよう。ちょっとだけ」
「夜ふかしは体に悪いんじゃないの?」
「今日は特別さ。残りはあした」

 夜更けにエプロン姿で台所に立っている父の姿は新鮮だった。丸いケーキは少し不格好。いかにも手作りという形をしている。いっそのこと別のものに、という考えはなかったのだろう。

「そうだ、これ。プレゼントだそうだ」
 そう言って、手渡たされたのはハートの折り紙だった。シールが付いていて、内側の文字が少しだけ透けている。
「だれから?」
「このレシピを教えてくれた人のお子さんからだよ」
「……なんで?」
「そりゃ、誕生日だからだろ。 開けてみないのか?」
「見ないよ、会ったこともないのに」
「ああ、そう……。ま、もうすぐ会えると思うけどな」

 父は偏屈だと言ってため息をつく。そして、恐る恐る口にするカカシを見てニヤリと笑った。

「大成功だろ?」
「……そうだね、大成功」

 カカシはハート型のそれをこっそりとパジャマのポケットにしまった。

「あのね、父さん」
「なんだ?」
「腹巻きは今日限りにしようと思う」

 やはり腹巻きはいただけない。
 こんな姿をみられたら、きっと火が出るほど恥ずかしいに違いない。

「そうか。そうだよな、カカシももうすぐアカデミー生だもんな」

 まるでハートの折り紙に見られているようだった。
 名前も顔も知らないのに、おめでとうと透けた文字を気にしている。

深夜零時と知らないしらべ