空蝉-四章-

 もしもあの時奈落が見えたなら、少しは変わりはしただろうか。

 カカシの問いかけた言葉は汚泥の如くまとわりついた。いっそのこと目が覚めなければとさえ思うが、やるべきことも残っている。けれども、重たく自由の失った身体はどうにも言うことをきかなかった。ここから這い出るにはどうしたらいいのか。これは夢か、それとも。
この暗い闇はどこまで続いているのだろうか——




「……シ、カカシ! 起きろつってんだろ!」

 木々を横切る音、そして声の主に向け、カカシは眉根を寄せた。瞼を開ければ、勢い良く振りかざされた拳がカカシの耳横を通り過ぎる。拳を握りしめたオビトの眼には涙が潤んでいた。

「いってぇ〜!!」
「はぁ……」
「ため息つきてーのはオレの方だ! どんだけ探したと思ってんだよ!」
「そんなの知るか。文句は見つけられない自分に言え」
「はァーッ?!コイツ……マジで頭かち割ってやろうかっておいっ、待ちやがれっての!」
 ぷんすかと文句を垂れるオビトを尻目に、カカシは木の下へと降り立つ。
「かち割るって? あの当たらない拳で?」
「さっきはたまたま外れただけだ!」
「外した、でしょ。おまけに足音は凄いし……そんなんでホントに忍者になれんの?」
 これが追い討ちとなったのか、オビトの耳は真っ赤になる。
「それとこれは、かんけーねーだろ! てか、ふつうこんなとこに隠れるか?!」
 オビトがビシッと指さした先は第三演習場の森の中だった。かくれんぼを始めたのはアカデミーからほど近い公園の敷地内。言われてみれば、たしかに距離があるかもしれない。だが、忍の足を使えばなんてことはないはずだ。だから問題ないとカカシは考えていた。それに、
「どこまでとか言われてないし」
 オビトは「それはヘリクツっていうんだ!」と文句をいう。そういうお前は減らず口だ、とカカシは涼しげな視線をオビトへ向けた。
「なら、次は範囲を決めることだな」
「あ〜、いちいちうっさいヤツ」
「そっくりそのまま返す。せっかく気持ちよく寝てたのに……」
「いつからかくれんぼは昼寝の時間になったんだよ!!」
「お前が鬼になったときから」

 3分で見つけてやる、いや、1分で見つけてやる!そうカカシに宣言したオビトは10分経っても見つけに来なかった。こちらはずっと見ているのに全く来る気配がない。仕方ないとわざとらしく樹の葉を落としても気づきもしない。石ころを転がしても全く違う方へ走っていく。そんなことをしていたためか、ぽかぽかとした陽気に誘われていつの間にかうたた寝していたのだ。

「はぁ〜もうっ!リンはなんでこんなヤツ、こんなヤツゥ!!」
 悔しがるオビトを横目に、カカシは言った。
「そろそろみんな来る頃でしょ」
「はっ、そうだった」
 今日は男子のほうが早く授業を終えた。くノ一クラスは午後の授業が残っている。それを終えればいつものメンバーが揃う。つまり、「かくれんぼ」の本番はこれからなのだ。
「オレ、ヘトヘトなんですけど……」
 オビトはお前のせいだと言わんばかりにカカシを見る。
「あーそう。じゃあ木陰で休んでれば? リンにはオレから話しとくよ。オビトは暇つぶしのかくれんぼで体力を使いはたしてバテてるから、」
「や、やめろ!ぜーったい余計なこと言うな!というか、カカシはリンと話すな!!」
「べつにいいけど」
「マジ?!」
「でも、無視したらリンがかわいそうだろ」
「あ、そりゃそうか」


 集合場所へ戻るとリンが声をかけた女子数名と、隠れ役の男子たちが談笑を楽しんでいた。

「あ! オビト、カカシくん!」
 こちらに気づいたリンが手を振った。
「遅くなってごめんね!待ちくたびれたでしょ?」
「ぜんぜん! へーき、へーき!」
 頬を綻ばせるオビトに、女子の一人がくすくす笑う。
「な、なんだよ」
「オビトくんって、すんごくわかりやすいね」
 というのはカカシが知らない女子。くノ一クラスの一人であることはわかるが、名前まではわからない。というのも、リンが誘うのか、ここに集まる女子はころころと変わる。いつものメンバーに加えわる『誰か』を気に留めることは少なかった。だが、あちらはこちらを知っているらしく、目が合うとにこにこと愛想よく笑みを浮かべた。
「う、うるせさいぞ!」
「だから、うるさいのはお前だって……。で、今日の修行は何する?」
 昨日は缶けり。その前は鬼ごっこ。やっていることは遊びにすぎないが、いつしかそれを修行と言うようになり、それがアカデミー後の日課になっていた。修行ということにしておけば、多少帰りが遅くなっても許される気がしていた。

「あ、今日はかくれんぼにしよう!」

 リンの声にオビトが反射的に表情を歪める。
「あ、他にする?じゃあ、」
「へ?! そんなわけないだろ!今日はかくれんぼに決まりな!」
 オビトはハハッと笑いながら、じろりとカカシを睨んだ。そして「じゃんけんに勝てばいいんだからな……」とぶつぶつ独り言をこぼした。キョトンとするリンにオビトはただ笑うばかりだった。


 もーいいかい?
 まーだだよ。

 もーいいかい?
 まーだだよ。

 もーいいかい?


 草むらの向こう側で、段々と声が小さくなっていく。
 カカシは身を潜めあたりを窺った。ふふっと笑いながら隠れるオビトの姿を見て、小さくため息をつく。あれではすぐに見つかってしまうだろう、頭隠して尻隠さずとはああいうものを言うのだとカカシは思った。
「おい、オビト」
「しーっ。静かにしろ!バレるだろ」
 あれは隠れたと言えない。カカシはそう思うのだが、オビトは楽しそうにしている。修行だといって遊んでいるのにあれでは全く意味がない。そろりと忍び寄る足音を感じ、

「あ、オビトみーっけ!」
「あ〜あ、見つかっちまったか……」
「オビトが一番だよ」
「げー、マジかよ」

 オビトがへらへらと笑う。リンの声がだんだんと遠ざかる。すぐ近くに居るのに、二人の足音はカカシの耳元から遠のいていく。
 本当に意味がない。自分から見つかりにいくなんて、本当に。今回はオビトの時のように木の上ではなくオビトと同じ草むらに隠れていたのに、……。
 カカシは二人の様子を見て、小さく息をついた。
「ま、いいか……」
 呟いてみたが、少しばかり虚しく感じる。
 そのうち来るだろう、そう思うことでふつと沸いた感情を紛らわした。


 それから少し経つとカサカサと垣根を越える音がし、
「カカシくん、みーっけ!」
 リンが顔を出した。眩しく思うほどにその笑顔は輝いている。
「カカシくんが最後だよ」
「そう……」
「今日は早く見つけられると思ったのになぁ」
 残念、とリンは笑う。
「……でも惜しかったよ」
「そうかな~?」
「オレさ、ずっとあの場所に居たんだ」
「えっ!全然わからなかった!もう少し見ておけばよかったなぁ〜」

 リンは本気で笑い、本気で悔しがった。

「リンってさ、」
「え?」
「……そろそろ鐘が鳴るよ」
「あ、そうだね」

カカシは尻に付いた泥を払い、皆がいる場所へ足を向けた。屈託のない笑みも悔しがる姿も、ほんの少しだが、オビトと似ている気がした。

「あ゛ー!!」

 突如声を上げたのはオビトだった。両手を外側へ仰ぎながらこちらに向かってくる。離れろ、ということのようだ。そしてオビトは二人の間に割って入り、カカシの耳に囁いた。
「おまえ、どこ居たんだよ!オレはともかく、加減ってもんを知らねーのか?」
「オレは……手を抜けって言ってんの?へー」
「ち、ちげーよ、オレはリンが」
「リンが?」
「リ、リンがぁ……」
 途端に尻窄みになっていくオビトを、リンが不思議そうに覗き込む。
「わたしがどうかした?」
「いやぁ~その~……」
「ん?」
「リンっ! やっぱり次の男女対抗はナシにしよう!」
 オビトの言葉に、リンは目を点にした。カカシは何のことだかわからず、密かに耳を傾ける。
「ナシって、どうして?」
「コイツがすげーややこしいところに隠れるから、そのぉ、すげー時間かかると思うんだ!」
 コイツが、コイツが、と指をさされ、カカシはムッとした顔する。似てると思ったのは勘違いだ。オビトの方が何倍もうるさく、何倍も鬱陶しい。
 カカシの様子に気づいたリンはやんわりとオビトに言った。
「たしかにカカシくんは隠れるのが上手だけど、……オビトはわたしたちが負けると思ってるの?」
「ええっと、そういうわけじゃないんだけどさぁ……」
「大丈夫!わたしにもちゃんと考えがあるんだから!」
 よほど自信があるのか、リンはふふっと笑い勝ち気な顔をした。どうやらカカシが隠れている間に次の修行の話しか決まっていたらしい。その様子を見ていると、ほんの少し疼いた好奇心がカカシの心をくすぶった。
「そのくノ一、そんなに強いの?」
「う〜ん、強いとはすこし違うけど……でもね、カカシくんだってびっくりすると思うよ」
「ふーん……」
 途端に胸に沸いた熱が引いていく。

 そうこうしていると、七ツを知らせる鐘が鳴った。今日の終わりを告げる合図だ。ほんのりと感じる湿度にまじり、夕暮れ時の匂いが鼻をかすめる。迎えに来た保護者立ちに連れられ、だんだんと散っていった。
「じゃあ、またね!」
 母親に手を引かれ、リンは振り返り手を振った。
 カカシの右手がひくりとする。
 すると、がっしりとした手がカカシの腕を掴んだ。

「カカシ、ちゃんと言わなきゃだめだろ」

 いつの間に?
 そんなことを考えているとカカシの右手は勝手にさよならを告げていた。
「ちょ、振りすぎ!」
「ほら、さよならは」
「……さ、さよなら」
 リンがくすりと笑う。
 掴んでいた手が離れ、その手はカカシの頭をガシガシとかいた。そして、父、はたけサクモは目尻にシワを寄せにっこりと笑った。カカシは慌ててあたりを見回す。
「ん? 誰か探してるのか」
「……うーうん」
 いつの間に帰ったのだろう。そう思いつつも、今ゴーグルをつけた少年がいないことにカカシはほっと胸をなでおろした。



 この日、任務帰りに公園に立ち寄ったサクモの手はビニール袋を下げていた。中身を見たカカシは口を出さずにはいられなかった。
「こんなに買ってどうするの、これ」
 ごろごろとした大きなじゃがいもが、ビニール袋をぱんぱんにしていたのだ。
「買ったんじゃないよ、貰ったんだ」
「だからって、二人でこんなに食べられないでしょ」
「大丈夫だよ、じゃがいもはすぐ腐らないからな」
「でも、この前は芽が出た」
 前にも同じようなことを言って、収納庫で種芋のようになったそれを忘れたのだろうか。取り除いて食べるといっても限度があると学んだばかりではないか。
「いやぁ〜、あの時は忙しかったからな、ハハッ」
 笑ってごまかす父を、カカシはじっとりとした目で見上げた。じゃがいもの味噌汁、ポテトサラダ、コロッケ、肉じゃが、考えつく献立もそう長くは続かない。カカシと同じくサクモもじゃがいも尽くしの食卓を想像したのか、「……確かに貰いすぎたかもしれないな」と反省の言葉を漏らした。
「今度お裾分けしよう」
「だれに?」
「ユーキさんだよ」
「また?」

 時々耳にする“ユーキ”という忍の名。どんな人だと訊けば、「すごい人だ」としか言わない。どうすごいのかと訊けば「父さんにはできないことをできる人」という。だが、カカシはあまり信用していなかった。純粋に父よりすごい忍がいるとは思えなかった。一番だった。自慢の父だった。


 そんなにすごい人なら、どうして。

 一番だったのに、どうして。

 どうして……。



 懐かしい淋しさが残る。まるで幼少に戻ったようだ。
 —— 馬鹿か。あれから何年経ったと思ってる。
 視線を巡らすも、何も見えはしない。ただ、暗闇の中で黒い影が四肢を掴んでいる。餓鬼、もしくは亡者。
 沈みゆく感覚に、カカシはぼんやりと身を委ねていた。

一、つむぎ星

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