この部屋に越して来て初めて招き入れたのが、まさかのまさか。身元不明の外国人だとは考えもしていなかった。普段なら絶対にこんな事はしなかっただろう。
とにかく、すぐにでも次の宿を探してもらわなくてはならないと言うのに、あの男—— はたけカカシと名乗る男は無一文だった。一円だって持ち合わせていなかったのだ。
なんだかんだ言いつつ、結局はその男—— はたけカカシを家に招いてしまったは、内心どうするべきか分からずにいた。いつまでも二人してリビングで立ち尽くしているわけにもいかない。
「とりあえず、座ったら？」
お茶しかないけどと、一応もてなしのような事をすると、「どうも」とカカシは二人用のダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。
見れば見るほど変な男だった。
スマホは壊れてしまった。
だが、本気になれば数百メートル先の交番に駈け込む事もできたのだ。
それなのに、なぜこんな事をしたのか……。
正直、自身、よく分からなかった。ただ一つ言えるのは、カカシという男はそんなに悪い人ではない……直感的にそう思ったからかもしれない。
「それで、本当はどこから来たの？ 日本人でもなくて、外国でもないって」
信じてもらえないだろうけど、と前置きして話し始めたカカシの言葉を、はまるで信じていなかった。というのも、の予想に反し滅茶苦茶なことを言い出したからだ。ハーフでも、ビザが切れたわけでも、不法入国でもない。酔って寝ていて道がわからなくなったわけでもない。なんでも彼は、火の国という所に住んでいて、木ノ葉の里という所で忍者をしていると言う—— 。忍者なんて、今の時代存在しない歴史上の集団に過ぎない。あんなへんてこな格好をしていたくらいだ、そんな設定を組み込んでいてもおかしくない。そう考えたは笑わないようにと注意を払いながら問い質した。だが、相変わらずカカシは困った顔をしていた。
「そのまさかなんだけどね」
あんな格好のまま真面目な顔で冗談を言うなんて……と、はついに本気で笑い出してしまった。
「趣味はほどほどにしておいた方が良いと思うよ？」
「だから、信じてもらえないだろうけどって言ったでしょ……」
くすくす笑いが収まりそうにないを見て、カカシはため息をついた。
「でも、……まぁ、もしもそれが本当なら、何か証拠をみせてよ」
「証拠？」
「そう。あなたが木ノ葉の里っていう所の忍者っていう証拠。あ、手裏剣とかは無しね、壁に穴が空いたら大変だから」
この時、は以前テレビで観た忍者の情報をイメージしていた。黒尽くめの外国人が忍者になりたいといいながら手裏剣を投げて練習していたのを思い出す。テレビで見た彼らはすっかりなりきっていた。
の言葉に、カカシは顎に手をやりながら真剣な面持ちで考えこんだ。
（どうせ何もできないんだから、そんなに考えなくてもいいのに……。）
はそう思いつつ、その様子を見守る事にした。
「じゃあ、これはどう？」
そう言って、カカシは立ち上がるとバルコニーの窓を開けた。外で実演してみせるつもりらしい。
「壊さないでね？」
「あー、大丈夫だから」
と、そこまではよかった。
何を思ったのか、彼はバルコニーの手すりによじ登ったのだ。まさかの出来事に、は慌てふためいた。
「ま、まって、何してるの？！ 私、そんなつもりで言ったんじゃ、」
ここはマンションの７階だ。いくら忍者の真似事をしていても無事でいられるはずはない。そもそもそんな場所を選ぶ事自体おかしなことだ。慌ててバルコニーに駆け寄ったが、間に合うはずもなかった。男はが考えるよりも素早い動きをしていた。
カカシはにっこり笑みを浮かべると、背中から真っ逆様に落ちたのだった。
最悪の事を想定して耳を塞いだ。
（やっぱりあんな男と関わるんじゃなかった。ああ、どうしよう、どうしたらいいんだろう……。）
が涙目になって想像もできない恐怖と戦っていると、背後から名を呼ばれ、とんとんと肩を叩かれた。それは今しがた、バルコニーからダイブしたあの男—— カカシの声だ。
ひっと息を呑んだのは覚えている。
この奇怪な現象は余程ショックが大きかったのか、が覚えているのはそこまでだった。
気がつけばはソファーの上で横になっていた。最近ようやく慣れてきた天井の雰囲気に、心から安堵する。仕事から帰って、疲れてソファーで寝てしまって夢を見ていた。そうなのだ。
と、納得させたのもつかの間。
夢で消えたはずの男が突然目の前に現れて、のん気な声で言った。
「ああ、やーっと起きたね」
言っておくが、ここはこの変な男の家ではない。
あの時、一瞬にしてパニックに陥ったは気絶した。気絶なんて生まれて初めての体験だ。今頃になって後頭部が微妙にズキズキする。どこかで頭を打ったようだ。だからだろう、このカカシという男が二人居るように見えた。だが、もう片方の男は煙になって消えた。これが幻覚というものか—— 。
人が消えるなんて、あり得ない話だ。
「……そっか、そうだよね」
はさっきの不思議なできごとを思い浮かべて、ぽつりと言った。
しかし、その直後。「なんなら、もう一回見てみる？」という声とともに、もう一人同じ男が現れ、声にならない声をあげることになった。
「これで、すこしは信じてくれたかな？」
相変わらずのん気な声で言うカカシに、うんとは言わなかった。今は信じるとかそういう次元ではない。ただ、安易に証拠を見せろだなんて言うものではないと痛感した。
完全にパニックになったはとりあえず、冷静になろうと、目の前のお茶を口に含んだ。
「あ、それ……」
「え？」
は目の前のコップを見て、唇を懸命に拭った。めったに使わない客人用のコップである。
—— 最悪。
今、それが一番相応しい言葉だとは思った。