08

 時計を見たはそれを凝視した。そして、勢いよくリビングのドアを開けた。そこには当たり前のように朝食が用意されている。もちろん、カカシの手作りである。「おはよう」と言うの言葉は思ったよりも頼りなかった。寝起きだからというのもあるが、妙に体が重かった。口の中が熱い。おまけに頭痛もする。とりあえず、水だけでも飲んで行こう……。
「あ……そっか……」 
 デジタル時計の曜日を見て、は安堵した。



 確か、一度起きてリビングへ向かったはずだ。
 なのに今、ベッドに横になっているのはなぜなのか。ゆっくりと目をあけると、いつもの寝室の天井が視界に飛び込んでくる。リビングの方へ意識を向けると、話し声がしていた。
(私、テレビ点けたっけ?……あ、そっか)

 土曜日。つまり、今日は休み。
 そう思った瞬間、気が緩んだのか、空気が抜けた風船のように、体の力が抜けてしまったのを思い出した。自力でここまで戻って来た記憶はない。多分、カカシがここまで運んでくれたのだろう。
 そして、額に乗った物に気がつき、はそれを手にとった。微温くなってしまったそれは、どこか懐かしい。思えば、大人になってからこんな事をしてもらったのは初めてだった。誰かが看病をしてくれることなど無かった。
 カカシがこの家に転がり込んできて一週間。あれから生活が激変したかというと否。ごく普通の毎日だ。仕事だっていつも通り。あえて言うなら、コンビニに行く頻度が減ったくらいなものだ。
 初めはあんなに嫌だと思っていたのに、この状況に慣れ始めていた。
 

 人の気配がし、ぽつりとその名をつぶやくと、遠慮気味に扉が開いた。
「それ、もう微温いんじゃないかと思って」
 半分ほど開けた扉から、カカシが顔を出した。
「え、うん……。ありがとう」
「お腹は空いてる?」
「あ、……少しだけ」
「一応、作る用意はしているけど」
「じゃあ、私リビングに行くね」
「大丈夫?」
「うん、そんな大したことないから」
 上半身を起こしてそう言うと、カカシがこちらを見てきた。
(え、なに……?)
 妙に顔が近いのは、気の所為ではない。急に顔が熱くなった気がして、この状況に耐えきれなくなったは目を瞑った。
 だが、いつまで経っても想像したようなことは全く起こらなかった。その代わりにと言うべきか、の額にはカカシの手のひらが当てられていた。
「んーやっぱり、まだ熱があるね」
と言いながら、カカシはの方をじっと見た。なんとも言えない視線に、は違和感を覚えた。
「……どうしたの?」
「いや、朝ごはん食べるなら、準備しないとね。朝というより、もう昼だけど」
「えっ、もう、そんな時間?」
 枕元の目覚まし時計を見ると、12時をとっくに過ぎていた。
 ベッドから這い出ると、今朝程のだるさはなかった。こうなってしまうといつもは丸一日寝ていないと良くならないというのに……。が手のひらを開いたり閉じたりしていると、カカシが不思議そうに言った。
「どうかした?」
「うーうん、何でもない」
 カカシは準備をすると言ってさっさと部屋を出て行った。それはいい、いいのだが……。さっきまで全く気にもしていなかった物がの意識にありありと存在を見せつけていた。
 カカシがあれを見ずに部屋に入るのは不可能である事くらいはわかる。これは想定外、不測の事態。べつに彼氏に見られた訳じゃない。どうって事ない。ただ、出会って間もない居候の不思議な男に洗濯物を見られただけじゃないか。別に下着の一枚や二枚……。
 そう言い聞かせながら、思う。カカシからしてみれば、自分だってきっと変な女かもしれないと。
 少々強引に言ったとしても、本当に家にあげてしまう女が果たしてこの国にどれくらい存在するのか。警察に突き出すどころか、何だかんだで平気で家に住まわせているのだから。


 リビングに向かうと既に準備は整いつつあった。「あ、今できるから」と言うカカシには変わった様子は何一つなく、少し身構えてしまったことをは恥ずかしく思った。

「いただきます」
「味、薄かったかな?」
「うーうん、ちょうどいいよ……美味しい」
 カカシの作る料理は美味しかった。おかゆ一つでもぜんぜん違う。が作る水分が少ない不味いおかゆとは大違いだった。味がなかったり、塩っぱくもない、優しい味だ。

「おかわりする?」
「あ、うん、ちょっとだけ」
 はお茶を飲みながら、カカシの様子を窺った。へらっとしたかと思えば、やけに真顔になったり、こうして料理をして、勝手に熱を出した女の世話までしている。いくら居候だからって、そこまでするのも何だか変な話だ。


 食事を食べ終える頃、そう言えばとカカシは思い出したように言った。
「明日、友達が来るんでしょ? 大丈夫?」
「あ、」
 そうだ。がカカシに会いたがっていた。
 自身、のどが痛いわけでも咳が出るわけでもない。そもそも、こんな時期になぜ熱をだしたのか自分でもわからなかった。
「これくらいどうってことないよ」
 熱なんて寝ていれば治るだろうし、とは心の中で付け足した。対するカカシは若干呆れた様子だった。
「朝一でぶっ倒れた人が言う台詞かねぇ……」
「大丈夫だって、これ食べたら大人しく寝ておくから」
 そう言えば、今朝は朝食がすでに用意されていたはずだ。それなのに、カカシはそれを一切言わなかった。
「カカシ、」
「んー?」
「朝食、ごめんね」
「ああ、そんなこと気にしてたの?」
「せっかく作ってくれたのに、あれだって、わざわざ……なんで、そこまでしてくれるの?」
 カカシからしてみれば、ただの家主というだけ。
 そもそも、こちらの言う事を一々真に受ける必要なんてどこにもない。もっと悪く言うなら、隙を見て現金を奪ってどこかへ行ってしまってもいいわけだ。それなのに……。
「ま、困った時はお互い様って事。が家に上げてくれなかったら、オレ、今もまだ警察の檻の中かもねぇ。身元不明な奴ほど怪しいもんはないからね」
 本当にそんな理由だけなのだろうか。その言い分に納得していない事に気づいているのか、カカシは続けて言った。
「それに、一人ぐらしだとこういう時困るのも知ってるし、今回はちょうどよかったと思えばいいじゃない」
「……カカシも、一人暮らしなの?」
「そう、結構ベテランのね」
「そうなんだ。私も結構ベテラン……のくせに、料理はあんまりだけど。それでね、は小さい時からの友達で、色々あって、今もなんだかんだで付き合いがあるの」
「その人は、の親友ってこと?」
「あ、……うん。私はそうだと思ってる」
「なるほど、友達か……」
 そう言ってカカシはキッチンでテキパキと洗い物を始めた。そして、「オレ、その人に殴られるかもね」とポツリと呟いた。
「え、なんで?」
「なんでって、押しかけておいてなんだけども、一人暮らしの女の人の家に居候してるだなんてねぇ」
と、カカシは今さらながらそんな事を言い出した。それが妙におかしくて、はくすくす笑った。
「ん?」
「あ、ごめん。大丈夫だよ、はそんな人じゃないから。前にも言ったけど、ちょっと変わってるんだよね」
「……変わってる?」
「そう、なんかSFとか未確認生物とか、そういうのが好きで、なんか時々ずれてるけど、優しくていい子だよ」
 の言葉にカカシは眉を寄せた。「時々ずれてる、優しい子、ね……」と、何度も食器洗い用のスポンジをくしゃくしゃと泡立てながらそう呟いたのだった。


 食事を終えたは言葉通り寝室へ向かった。大人しく寝てないと良くなるものも良くならない、そうカカシに言われたこともある。
 —— あ、そうだ……
 が徐にスマホを手にするとメッセージが届いていた。送り主はだった。
『明日、10時ね!』
 極めて短い文章だ。あっちは約束を覚えている。後は体調を整えておくだけだ。
 そう思いながら、は目を閉じたものの、すぐに眠くはならず、色々な考え事が浮かんだ。

 —— ずっと一人暮らし。
 それを聞いたは、なんだか妙に親近感が湧いた。それが、彼の情報で唯一の共通点だったからかもしれない。
 誰かが居る。それだけでなんだかほっとする。
 それは、はじめての感覚だった。


 だが、はカカシが言ったことを完全に無視したわけでも忘れたわけでもなかった。

『二週間くらい』
 突然現れたカカシはそう言った。
 
 ひょっとして、カカシは——
 でも、何のために?

 その疑問は、重たくなった瞼と共に消えていった。