今日、六代目様の補佐官は席を外していた。戻ってくるのは夕方。これは間違いない情報だった。
 今、火影室には私と六代目様しか居ない。隣の執務室から「お疲れ様です」と突然部屋にやってくる人物はいないのだ。
 つまり、このタイミングしかない。

「私、六代目様の事が好きです!」

 言った、ついに言ってしまった。
 顔は赤らんでいないだろうか。声は上ずっていなかっただろうか。手汗をどうにかしようと洋服の袖を握りしめた。六代目様は私が提出した書類から目を離し、じっとこちらを見据えた。それだけで私の心臓はきゅんとする、というよりもドキドキを通り越し、どっどっと息が支えそうになり、呼吸に支障をきたしそうになっている。そんな状態から脱しようと、ごくりと息を呑んだ。

「あ、そう。ありがとうね」

 六代目火影様は今なんとおっしゃっただろうか。

 ありがとう? それって、そういう事……?
 それって、六代目火影じゃなくて、はたけカカシとしてありがとうってこと?

 こんなにうまくいくことがあるなんて。こんな時はどうしたらいいのかと慌てて思考をフル回転させる。何しろ人生で1,2を争う一大事だ。今夜は赤飯にするか。そしてふと、六代目様は赤飯好きなのかと素朴な疑問が浮かんだ。私はとりあえず照れ笑いを浮かべた。そのつもりだった。

「予算オーバーしてるからって、よいしょしたところで変わらないよ? ま、新しい本が増えるのはいいことなんだけどね。読書は大事だし。でもね〜」
 ニヤニヤしたって変えられないもんは変えられないのよ。と、六代目様は書籍購入予定リストを見つめた。そして、リストを吟味した六代目様はある一点を見て、眉を潜める。
「リクエストに答えるのはいい試みだと思うけど……、本当に全部必要? 特にこれとか」
 と、六代目様は購入リスト第14項を指さした。題名は『男が恋に落ちる瞬間-25の秘密-』。本当に必要かどうかと言われれば……、もちろん必要だと私は思っている。
「一応、この本はベストセラーですから」
 私の言葉は六代目様にどう聞こえたのか、再びリストに視線を落とした。
「んー、最近の若い子はこういうのが好きなわけ?」
「えっ、あ、好きかどうかは別ですけど、ハウツー本は人気ですよ?」
 手っ取り早く知りたいことが分かるという面ではどんな内容であれ、こういった類いの本はよく読まれる。論調的な長い文章ではなく、箇条書きでわかりやすいというのが人気なのかもしれない。もしかしたら、火影様はこういう本は好きではないのかもしれない。
「恋愛がこの本でわかったら、誰も苦労しないよねぇ……」
 トントンとリストの項目をペン軸の先で叩きながら、六代目様は小さくため息をついた。
 私はドキッとした。もちろん、高揚感ではなく真逆の理由だ。これではまるで、六代目様が恋に苦労しているとでも……。
「って、こんな事言い始めるなんて、オレもおじさんになったってことかな〜」
 さっきの発言は特に意味はなかったのか、六代目様はははっと笑った。だが、私は笑えなかった。六代目様がおじさんだなんて、そんなことあるわけない。
「おじさんなんかじゃないです、素敵ですよ!」
 すこし声が大きかったかもしれない。六代目様—— カカシさんは、一瞬きょとんとして、
「あ、そう? でも、そんな事言うのくらいなもんだよ」
と、笑みを見せた。それがとっても素敵で、私は内心どうしたらいいのか、もじもじしていた。そんな私を見た六代目様は「だから……、ニヤニヤしたって何も変わらないってさっきから言ってるでしょ。はい、これ」と、リストを突き返した。そして、もう一度内容を吟味しろという宿題を命じたのだった。

 この後、職場である図書館に戻ると同僚にしかめっ面をされた。緩んだ頬が元に戻るまで、少し時間がかかるものだ。「なんで火影室に行ってそういう顔になるのよ、緊張感もかけらもないじゃない」と言う同僚には、私の気持ちは理解できないだろうと思う。
「独身の火影ってそんなに魅力的なもんなの?」
と、同僚は独り言を言いながら、書庫へ向かった。同僚は私がカカシさんを好きになったのはここ最近の話だと思っているようだが、それは大きな間違いである。



□ □ □




 私がまだ10代半ばで、青春の真っ只中だった時。
 何度もアカデミーと図書館を行き来するのは面倒だな。
 あと一回、二回往復すれば終わるかも。
 そう考えたのがすべての始まりだ。


 あれはアカデミーの玄関先の出来事。アカデミー生の授業用にと貸し出していた資料集を抱え込もうとした時だった。
「いっぺんに持ったら腰痛めるよ?」
 声がする方を横目でみると、たまたま通りかかったのか、道路側から一人の男がこちらを見ていた。歳は自分よりも十ぐらい上のようだ。どこかで見たような気がするなと思いながら、私は大して気にもせず、ダンボールに積み上げられた本に視線を戻した。
「あ、大丈夫です! 慣れてますから!」
 こんなことでへこたれているようでは図書館の勤務なんてできるものか。そう思いながら、私は木ノ葉の里資料集の第一巻から十巻までを持ち上げた。例え足元が見えなくても、腕が千切れそうでも、数メートル我慢すれば台車があるし、どうにかなる! と思ったのは、私がまだ若かったからかもしれない。よっこらせと年寄りくさいことを言いながら、一歩踏み出した。きっと、あのときの私はよちよち歩きをしている子供のような有様だったに違いない。その人には大丈夫と言ったものの、ものの数秒で後悔した。
(やっぱり重い……。間違えた)
 指の関節がおかしくなるのが先か、本が雪崩のように地面に滑り落ちるのが先か。無理やり一、二回で済ませようと思ったのが大間違いだったのだ。
「これ、どこまで持っていくの?」
 本に隠れていて、表情は殆ど見えなかった。たぶん、こっちを見ているのだろうと思った私は声だけで返事をした。
「里の図書館までです」
「ああ、そう」
 すると、足音がこっちに近づいてくるような気がして私は焦ってしまった。
「あ! 台車に乗せたら大丈夫ですから!」
 私は見知らぬ人の手を煩わせまいと、慌てて階段を駆け下りた。ちょっと考えれば、いや、考えなくてもわかりそうなことだ。私はほんの数十センチの段差を見事に踏み外し、バランスを取れないまま顔面から前のめりになって地面に頭から飛び込む羽目になった。危機の直前、スローモーションに感じるというのは本当のようだ。時間にすると数秒の出来事だが、その倍以上の時間をかけたかのように、ゆっくりと視界が逆さになっていった。さすがに走馬灯は見えなかったが、なんとしてでも本は死守しなければならない。そう思った私は両腕にそれを抱えたまま倒れ込んだのだった。

「あー、危なかった。君、大丈夫?」

 私は思った。
 心奪われるって、こういうことなんだ——




「その話、もう何百回も聞いたし、聞き飽きた」
 将棋盤を見つめた男はタバコの吸殻を灰皿に落とした。
 場所は変わって、ここは奈良一族の本家の縁側である。仕事を終えておばさんに頼まれていたお菓子作りの本を渡しに来たのだ。そして、今日の出来事を話すついでにといつものように私の思い出話を聞かせていたのだが、「は〜あ」と大きなあくびをしたあたりから、私の話は独り言になっていたようだ。「腹減ったな」と縁側でお茶をすするその男は私のいとこ。本家のご子息様で、相当な切れ者である。それでもって、数年前から六代目様の補佐官をしている。と、これだけ聞くととても立派な好青年のようだが、私よりも二歳年下だというのに、雲を眺めたり、焚き火を見つめてみたり、昔から歳に似合わずジジ臭いところがあり、めんどくさがりなところがあった。
「てか、言うたびにカカシさんの口調が違うし、だんだんキモくなってんのわかってんのか?」
「キモいって、それちょっとひどくない?」
 シカマルに指摘され、改めてあのときの光景を思い返す。別に美化してなんかいないはず……。

 本を持ったまま地面に倒れ込んだ私の目の前は地面ではなかった。いたた、と声がする方を見ると、そこにはその男、はたけカカシが居たのだ。派手に転んだ私を受け止めてくれていたのだ。私はすみませんと慌てて謝った。すると、
『あのさ、』
『は、はいっ』
『言ってる側からやらかすタイプだね、君って』
と言って、ほんの少し、ほんの少し呆れたような視線を……。
『ま、怪我しなくてよかったよ。こんな事で前歯が折れたらものすごく格好悪いもんね……』
と、もしかしたらそんなことを言ったかもしれないし、私の記憶違いかもしれない。何しろあれから数年は経過している。多少の誤差はつきものだろう——

「とにかく。私はカカシさんがどうやったら振り向いてくれるのか知りたいの、相談してるの。ねえ、聞いてる?」
「んなこと言われても……そもそも本人にその気がなきゃ、どうやっても無理だろ」
 シカマルはいつも痛いところを突いてくる。その気がなさそうな人を振り向かせたい、という話をしているのに、こんな正論を言われたらどうすることもできない。
「まさか、誰か居るっていうの?……カカシさんに、すぅ、好きな人とか」
 だからスルーされた、というかあんな風に勘違いしたのだろうか。
「さあな。いい歳だし、それなりに誰か居るのが普通なんじゃねーの?」
 アラサーの恋愛事情なんて想像するのも面倒くさいと言わんばかりに、シカマルは盛大に溜息をついた。
「もういい。シカマルに相談する私が馬鹿だった」
 その言葉も何百回も聞いたというシカマルの捨て台詞を耳にしながら、私はズカズカと廊下を歩いた。さっさと家に帰ろう、そう思っていたのに、おばさんに「もう帰るの? 一緒に夕食食べてから帰ればいいじゃないの」と言われると帰るに帰れなくなる。おばさんの絶品料理を求めて早くも胃袋が準備を始めたような気がした。キッチンの方から醤油の香ばしい匂いが漂ってくる。今日は魚の煮付けだろうか。
「いつも頂いてるのにいいんですか?」
 なんて、形ばかりの文言もいいとこ。私の口の中はすでに魚の煮付けを受け入れる準備が整っている。
「今更何言ってんのよ、赤ちゃんの時からの付き合いじゃないの」
 そうだ。赤ちゃんのころからの付き合い。ヨシノおばさんとシカクおじさんがラブラブしていたであろうときからの付き合いだ。それから小一時間程経過し、リビングへやってきたシカマルが「まだ居たのかよ」と面倒そうに呟いた。


 おばさんの料理は私の予想通り、魚の煮付けだった。ふっくらした魚の身に程よい味付けが食欲をそそる。いつもの私ならこの煮付けだけで茶碗二杯はいけると思うが、今日は茶碗一杯まで。そんな私におばさんは「あら、どうしたんだい?」と心配そうにする。何にもないと言ってもヨシノおばさんにはそれは通用しない。

「手の届きそうにない人を射止めるにはどうしたらいいか、ね〜」
 食事の手を止め、珍しくおばさんは少し困った顔をした。
「どうしたらいいと思います?」
「そりゃ、アタックするしかないんじゃないかい? しかし、どんな男か見てみたいもんだね」
 今にも相手の家に突撃しそうな勢いのヨシノおばさんに、それが六代目様であるとか、すでにアタックしたなどと言えるはずもなかった。シカマルはこの話には関わらないと決めたのか、無言で魚の身を突いていた。
 こんな時、シカクおじさんだったら何ていうかなぁと密かに思いながら、私はお新香に箸を伸ばした。

Act.1 告白より予算が大事