終着地点は過ぎました

「ねえ、あの人やっぱりちゃんに気があるんじゃないの?」
 それにあの人絶対イケメンよ、と言いながら厨房の奥から顔を出したのは、この定食屋の女将だ。
「もう、おばちゃん。そんなわけないじゃん」
 と言いつつ、はのれんの隙間からちらりとテーブル席を覗いた。イケメン——。確かにそんな気はするが、あの忍装束の怪しげなマスクで本当にそうだとは言えないとは思った。
 だが、その時はほんの少し、ほんの少しだ……。満更でもないと思ってしまったのだ。



 密かに様子を覗ってみるが、扇風機でパラパラとめくれるカレンダーがの視界の邪魔をした。今日も美味しそうに定食を食べているであろうその客が、この店によく来るようになったのは最近のことだ。この定食屋にとっては久しぶりの新しい常連客だった。木ノ葉の忍で名は、はたけカカシ。いつもあのマスクで顔を隠している。それだけで、の興味を引くには十分の要素だ。そして、今日も密かにそのタイミングを図るのだが、客の素顔を見るだなんて……。端ないことは止めておこう、そう思ったは厨房へ引っ込んだ。お盆を手に持つと、空いた席の空になった食器を引き上げにかかる。
 不思議なことにその客は食べるのがとんでもなく早かった。が食器を片付け、他の客の注文を聞いている間にさっさと勘定を済ませて居なくなっているということも珍しくない。そして、その日もあっという間に居なくなってしまったその人物に、女将は「あれ、もう帰っちゃったの?」と言って、厨房の奥から顔を出した。
「はい」
 は他の客の食器を洗い場に運びながら、小さく呟いた。

 女将があんな事を言い出したのは、がここで働き始めて一週間が経った頃だ。「最近、あの人よく来るのよね」と言いながら、注文を取っていたのが印象に残っている。そして、ついには気があるんじゃないか、なんて言い出したものだから、いつしかはすっかりその気になってしまった。だが、そんな淡い恋心を打ち砕いたのはつい先日の話だ。


 そして、その日もいつものように出入り口の引き戸ががらがらと耳障りな音を立てて開いたのを耳にし、は厨房から飛び出した。
「いらっしゃいませ」
「あーどうも」
 入店してきたのはの予想通りの人物だった。そして、その客はいつもの席に腰をおろした。
「ご注文がお決まりでしたら、」
 と言いかけて、この客の注文がすでに決まっていることに気づく。それは——

「サンマの塩焼き定食」

 残暑から少しばかり涼しさが感じられるようになった頃、この店でよく出る定食があった。
「かしこまりました。サンマの塩焼き定食ですね」
 はそう言って伝票に書き込んだ。正確にはすでに書き込んでいたと言っていいだろう。
 そう、なんのことはない。この人の目当ては「サンマの塩焼き定食」なのだ。それもそうだ、ここは定食屋なのだから。厨房に向っていつものようにメニューを読み上げる。板長の返事を耳にし、は別テーブルの方へ足を向けた。今が旬のサンマ。おそらくこの人はあと少しでここには来なくなる。はそう思った。
 しばらくすると、厨房でサンマが焼ける香ばしい匂いが店内に漂い始めた。は他の客の料理を運び終えると急いで厨房へ戻った。すでに盛り付けられたお新香をお盆に乗せて他の料理の皿を準備する。そして、手際よく女将が適量のご飯をよそっているうちに、こだわりの七輪と炭で焼いたサンマを板長が薬味のすだちと大根おろしと共に盛り付ける。そして、最後にが味噌汁をよそうというルーティンで「サンマの塩焼き定食」が完成する。


 はできたての料理をカカシが座っている席へ運んだ。
「おまたせしました」
 声を掛けると、カカシは読んでいた本をそっと閉じてテーブルの脇へ置いた。随分年季が入った本だ、そう思いながら空になっていたグラスに水を注いだ。
「ありがとう」
「ごゆっくりどうぞ」
 は水が入ったピッチャーを持ってその場を離れた。「いただきます」という声を背中で聞きながら、はそわそわした気持ちで厨房へ足を向けた。
「あ、すみません」
 その声には思わずのけぞると、ピッチャーの中の氷がガラガラと音を立てた。急に席を立った客とぶつかってしまう寸前だった。
「こちらこそ申し訳ありません、お客様は大丈夫ですか?」
 そんなやり取りをしていると、偶然にも視界の端で捉えたのは、あのカカシの姿だ。それはほんの一瞬、本当に一秒もあったかどうかという時間だった。「あ、すみません、お勘定いいですか?」という客の声に、が店内を見ると女将は料理を運んでいる途中だった。は慌ててレジへ向かい、精算を済ませた。レジ機を閉めると、目の前に影ができ、次の客が来たのだと理解した。
「ありがとうございます」
 差し出された伝票を受け取りそれを見る。そこには『サンマの塩焼き定食』と書かれている。しかも、それはの字だ。
「いつも思うんだけど、」
「はい」
 しまった、クレームだろうか。はそんな不安にかられたが、次の言葉は予想を反するものだった。
「いつもチームワークいいよね」
「え?」
 この時はこのカカシという人物がなんの話をしているのかさっぱり理解できなかった。
「ああ、あの定食が出来上がるまで」
と言うカカシは厨房の方へ視線を向けた。それではやっとその言葉の意味を理解した。適切な返しが思いつかなかったは「ありがとうございます」と無難な言葉を口にすると、レジ機の”定食1”のボタンを押した。代金は伝える前にすでに出されていた。そして、今回もお釣りはない—— そう思っていたが、今日は珍しくお釣りが出た。
「お釣りの二十両です」
 お釣りを手渡しながらが顔をあげると、黒い瞳が自分を見つめていた。は一瞬にして自分の耳が赤くなったのがわかった。
「さっきも目があったよね」
 そんなことを言われ、は手が汗ばんできたような気がした。
「あの、……すみません」
 さっき、と言われればあの時しかない。ピッチャーを持って他の客とぶつかりそうになったあの時だ。はうっかり見てしまったのだ、カカシのマスクの下を。一度見てしまった記憶はそうそうに消せるものではない。今、目の前でカカシがマスクをつけていようがいまいが、にとってはもう関係ないのだ。
「別にいいけどね。それで、君はいつまで居るの」
「私は来週までですけど……」
 なぜカカシがそのことを知っているのだろうか。はそう思わずにはいられなかった。カカシが言うように、がここでバイトをしているのは期間限定だった。元々、この定食屋で働いていたのは店主の娘だった。その娘が最近結婚し、一生に一度だからと国外へ新婚旅行に行ってしまった。そこで、店主の親戚でありこの定食屋でバイト経験もあるが急遽駆り出されたのだ。せっかくの年休もこの件で殆ど使い切ってしまうが、結婚祝いになるしバイト代も手に入る。何より困っている叔父夫婦を放っておくこともできず引き受けたのだった。

「じゃあ、それまでよろしくね。さん」
 カカシはそう言って二十両をポケットにしまった。
「お味噌汁も美味しかったよ。ああ、そうだ。再来週からさっそく任務が入ってるから」
「はい。……え、任務って、なんで」
 の疑問は尽きなかった。
 なぜ自分の名前を知っているのか、なぜ自分が忍だと知っているのか。なぜナスの味噌汁を作ったのは自分だと知っているのか。なぜカカシが任務の話を知っているのか——はもはやどこから手をつけるかわからなかった。そんなの疑問に答えるようにカカシが言った。
「なぜって……、再来週の任務に同行するのオレだから」


 は「ごちそうさま」と言って出ていくはたけカカシの後ろ姿を見ることはなかった。
 確かに、休暇が明けたら長期任務が入ると火影から言われていたが、まさかこの人物とは思っていなかった。の気持ちなど知りもしない女将はまだ「やっぱりちゃんに気があるんじゃないかしら」と言っている。
 は重大な秘密を知ってしまった気がしてならなかった。
 そして、サンマの塩焼き定食は来週までにすると板長が決めたのは、この日の夕方だった。


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