おあずけの合図

 友人の第一声は困惑していた。
 こいつは何を言っているんだ、と言わんばかりに猿飛アスマは眉を潜めた。

「……んなもん、目見りゃわかるだろ。付き合いたてじゃあるまいし」
「……だよねぇ」
「お前でもそんな事があるのか」
 カカシは心の奥でため息をつく。ニヤリと笑う友人はまるで悪友だ。やっぱり聞くんじゃなかった、そう思えてならない。


「ねえ」
 カカシは団子を喉に詰まらせたように押し黙った。視線を向ければ、そこには紅の姿が。幸いにも彼女一人だ。
「さっきから何してるの?」
 その声は疑問に満ちていた。いつもは部下たちとのんびり腰掛けている場所『甘栗甘』で、今は男二人。片手には団子を、もう片手は肩を抱き、身を寄せ合って小声で話している姿は端から見れば怪しいことこの上ない。
「少し込み入った相談を……」
「ああ、それで寝不足なわけね」
 と、紅は自分の目の下を突いてみせた。
「まあ、色々と立て込んでおりまして」
「カカシも大変ね」
「そう、大変なのよ……」
 何が?と首を突っ込んでこない紅に、カカシはほっと胸を撫で下ろす。勢いで話すのもよかったかもしれないが、こんなところで知人の赤裸々な事情を聞きたいと思わないだろう。それに返答に困るような事は初めから黙っておくほうが良いに決まっている。“女心を見失った”なんて言えば、きっと彼女は首を傾げるに違いないからだ。カカシは懸命に笑いをこらえている男を見て見ぬ振りをした。



 あれはいつも通り、が任務帰りに顔を出しに来たときのこと。夜も更け日付も変わる、そんな時間帯だっただろう。
「泊まってけば?」
 その言葉を耳にしたは久しぶりのお泊まりだと頬を綻ばせた。最近は忙しく任務に明け暮れる日々。そんなこともあり、いい歳をした大人が期待をしなかったかといえば嘘になるだろう。あの時、確かに彼女は嬉しそうにしていた。珍しく先に風呂に入ったはベッドに入っていた。彼女は任務帰り。疲れていたのだ。カカシはこっそりとベッドに入り、彼女の背後を抱いた。風呂上りの良い匂いが鼻腔をくすぐる。目を瞑ったは微睡にいるのか悩ましげな吐息を漏らした。
「ん……」
 耳に薄っすらとかかった後れ毛を避け、そこへ息を吹きかけてみる。するとは身を捩らせ、重たくとろんとした瞳でカカシを見た。
「ねーカカシ……」
「んー?」
「くすぐったくて寝れないよ……」
「あらら、それは失礼」
 と言うのは口先ばかりで、カカシはシャツの中へと手を忍ばせる。人肌に触れる直前の温かさがなんとも心地よい。ふかふかの布団に包まれ、何の疑いもなく夜も更けていく。
 それはものの数秒だったであろう。
 微睡みなど蹴散らす勢いでバッと飛び上がったは掛け布団をひっつかんだ。今更照れているのか、と呑気に構えていたのは煩悩に苛まれていたからだろうか。
「き、今日はちょっと難しいと言うか、限りなく難しいと言うか、果てしなく難しいというか」
「は、果てしなく?」
「ごめん、果てしなくは言いすぎたかも」
 布団に包まったに、もはやなす術もなかった。きっちり目覚ましをセットする手が伸びたが、胴体は蓑をかぶったままだった。
?」
「あの、おっ、おやすみなさい!」
 ぴしゃりと言い放たれ、収まりどころを無くした男の右手は宙ぶらりんのまま布団からはみ出した。今日はご機嫌斜めか。時にはこんな日もあるだろう。そう思い直し、察したように目を閉じる。
「……ねえ、オレにも布団ちょーだいよ?」
 にお願いすると、もぞもぞと動き足元がほんのり温かくなった。本当は一緒に包まっていたかったが、それでもいいとカカシは思った。どうせ一時間もすれば跳ね除けられたそれを拾う事になるのだから、と。


 思えば、それが始まりだったのかもしれないとカカシは思う。
 あの日以来、は泊まりに来なくなった。というより、必ず自分の家に帰るようになったのだ。すっかり愛想を尽かしたのかといえばそうでもないようで、今日も無事に任務が終わったと顔を見せに来るし、休みの日には一緒に料理もする。デートもした。誰がどう見ても一般的な恋人同士の日常だった。
 しかしながら、突如出現した鉄壁を越える術が見当たらない。
 「そのうち何とかなるさ」という言葉はうまくいっているからこそ出る言葉だとカカシは思う。急に隣の芝が青く見える。羊羹は栗入りか粒入りかと揉める二人が微笑ましいとさえ思えた。
「な、何よ?」
「いやぁーね、幸せっていいなと思ってさ……」
 寒気がする腕をさする紅をよそに、カカシは一つため息を漏らした。


 だが、別に付き合いたてのカップルでもないのだ。思い切って聞いてみるという手もある。

 カカシは呼び鈴の鳴る玄関へと足を向けた。いつものように任務帰りのを出迎えるためだ。だが、玄関を開けてすぐに違和感を覚える。の手元に視線を向けると、着替えを入れているいつもの小ぶりのバッグが握られていた。
「今日は遅番じゃなかったっけ?」
 てっきり直行してくるものだと思っていた。なのに、コレはどういうことか。思考を巡らせるカカシに反し、は何の戸惑いも見せず答えた。
「実は早番の人と交代になって」
「あー、そういうこと。ま、とりあえず上がりなよ」
「あ、うん……」
 いつものように、カカシはの手からバッグを受け取ろうと手を伸ばす。しかし、彼女は一向にそれを渡そうとはしなかった。持ち手をぐっと握ったままだ。その理由を考え、「あ……あのね、」というを見てもさっぱりわからない。「ん?」なんて、短い返事で関心がなさそうにしているのが精一杯だ。
「……今日、泊まってもいい?カカシの家」
「そりゃもちろん……改まってどうしたのよ?」
「えっ、うーうん、なんでもない」
 頭を振るはぎこちない。
 今更断る理由はない。それなのに、はまるで初めて家に来たように遠慮気味だった。






 「しまった」とカカシの呟きは部屋に吸い込まれる。考え事をしていたからか、先に風呂に入ったのはいいが、脱衣所からドライヤーを持って出てしまったのだ。いつもの棚に無ければが探すだろう。さっと入って置いてくればいいか、まだ上がらないだろうし。と、そっと脱衣所の扉を開けたことをカカシは悔やんだ。

「あ!」

 悲しくも悲鳴を上げられる……という事態には至らなかった。しかしラッキーなのかアンラッキーなのか、薄着のの姿がそこにある。普段ならここでちょっかいを出す元気もあるが、またあのような悲劇に見舞われでもしたら……。なんとなく目のやり場に困ったカカシは洗面台へと視線を向けた。
「ごめん、ドライヤーをね……」
「あ、そっか……ありがとう」
 恥ずかしそうにバスタオルを掴んだと視線が交差する。一度狂った調子はなかなか戻りそうにないらしく、脱衣所には妙な空気が漂っていた。柄にもなくすぐさまここから脱出したい気分に襲われ、カカシの脳裏に甘味処で笑いをこらえる友人の姿が浮かんだ。そうしていると、ボディーソープとは別のいつもと違う香りがふわりと鼻をかすめた。
 どうしたものか。
 カカシは手に持っていたそれと鏡を見比べた。

、前向いて」
「いいよ、自分でする」
「いいから、ほら」
「でも、……」

 コンセントに差し込んで、スイッチを入れる。束になっていた髪をすきながら熱をあてていくと、今度はシャンプーの香りが漂った。
「同じものなのにね」
 が不思議そうに見たが、カカシはなんでもないとはぐらかした。どうしてこうも良い香りがするのか不思議でしょうがない。しかも不思議なのはシャンプーに限ったことではなかった。

「クリーム変えた?」
「うん」
「どうして?」
「その、店員さんに勧められて……前のが良かったかな」
「そんなことないよ」
「ほんと?」
「ホント。……はい、終わり」
「あ、ありがとう」
「いえいえ。どういたしまして」

 すっかり乾いた髪をブラシでとかし、ドライヤーのスイッチを切ると同時にカカシは前を向いた。
 気がつけば、さっきまで考えていた疑問はどうでもよくなっていた。風呂上がりにアイスを食べるのもいいだろうし、本を読むのもいい。付き合いたてのようだっていいじゃないか。青少年のようなお付き合いだって清くてよろしい。隣の芝は所詮隣の芝である。こちらにはこちらの芝がある。と、カカシがそんなことを考えていると、「ごめんね」とが口を開いた。
「カカシ……怒ってないの?」
「何を?」
「だって、私この前……」
「あ、布団? べつに怒ってないよ」
 確かに少々寒かった。だからといって、明け方まで布団が戻ってこなかったくらいで怒るはずがない。
「なに、違うの?」
「違うよ、そうじゃなくて……」

 今しがた風呂上がりの娯楽について考えたはずが、一瞬にして崩れ去る。
 それもそうだ、残念ながら青少年の模範的お付き合いには限度がある。そもそも、そのような歳はとっくに過ぎている。煩悩に支配された悪い大人が顔を出すのは時間の問題だった。

「……じゃあさ、わかるように教えてくれる?」

 カカシが鏡を覗くとは不自然に視線を逸らした。彼女曰く「いじわるな目をしてる」とのことだが、カカシにはさっぱりだった。





 数日後、再び甘栗甘で男二人の姿が目撃される。
「どうなったって……アスマくんそれ聞いちゃうの?」
「いや、もういい」
 結局の所ずべて惚気だと友人は呆れたが、カカシにとってどうでもいい事だった。
「女心って、奥深いよねぇ……」
「はぁ?」
 というのも、ダメだと言って布団にこもってしまったのもボディークリームを変えたのも、全部自分のためだと知ったこともあるかも知れない。
「あ、ここに居たんだ!」
 何より今は笑みを浮かべたに手を挙げて答える方が先である。


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