空蝉-四章-


「……もうこんな時間か」

 カカシは見慣れた天井を恨めしげに眺めた。真っ先に飛び込んできた景色はピンぼけしたレンズを覗き込んでいるようだ。
 病室にガイと三忍の一人、綱手がやってきたことは憶えている。綱手の術で目を覚ますや否や、早々に退院を迫られた。追い出されるように帰宅し、それから自室のベッドにごろりと寝転んだのだが、まだ本調子でない身体は正直なものでいつの間にか寝入ってしまっていた。
 入院中、見た夢。ただ暗く、重く、苦い空気がカカシの脳裏に漂っていた。


 ベッドサイドに目を向け、カカシは眉を潜める。インナー、ベスト、ズボン。その他諸々の一式が揃っている。もちろん忍びの印である額当てもそこにあった。額当ての布地はアイロンがかかったように綺麗に畳まれている。こんな几帳面なことをするのはおそらく、
「……紅か?」
 ぽつりとつぶやくと、図ったようにチャイムが鳴った。寝ぼけ眼をどうにかこじ開ける。朦朧としたまま鍵を開けるとよく知る人物が顔を覗かせた。
「うーん……俺の勘もなかなかだよね?」
「カカシったら、まだ寝ぼけてるの?」
「今、ちょうど紅のことを考えてたもんだからさ」
 へらっと笑ってみせたカカシだったが彼女の態度はツレない。バッカじゃないの?そんな顔をしてこちらを見る目は冷ややかだった。
「いきなり気持ち悪いこと言わないで」
「気持ち悪いってそんな……」
 カカシがコンクリートの照り返しの眩しさに目を細めると、紅は疲れ切った様子で言った。あなたが気を失っている間に本当に色々なことがあったのよ、と。
「とは言え、私も助けてもらった身だもの。カカシ、ありがとう」
「いえいえ。助けたって言っても俺もこのザマだしねぇ。んーと、それでご用件は?」
 重要なことはそれでないのだろう。カカシが先を促すと紅は改まった顔をした。
「良い知らせとまあまあ悪い知らせ、どっちから聞きたい?」
「じゃあ、まあまあ悪い方で」
 目が覚めそうだから、というカカシに紅は息をついた。

 それらの話は鈍化した思考をクリアにするには十分だった。良い知らせは五代目火影が綱手に決まったこと。悪い知らせは、まあまあ悪かった。最悪でないと思うのは一旦は収束したように見えたからだ。カカシはサスケにイタチのことが知れるのは時間の問題だと思っていた。だが、早すぎた。
 ナルトを連れ出した自来也とそれを追ったイタチ。それを知ったサスケがおとなしく里に居るはずもなく。教え子がしっかり揉め事を起こし脱走し、戻ったと思えば木ノ葉病院で世話になっているというのだからため息をつくしかない。自来也の助けがなければどうなっていたのか、カカシは考えるだけで目眩がしそうだ。下忍の行動は上忍の責任である。監督不十分。そう言われれば反論の余地はない。
「そういうことだから、……まあ、あなたもあまり無理はしないことね」
 はぁ、うん。カカシののらりとした返事に閉じた扉が蓋をした。
 眠っていた間の事情を把握し、部屋へと戻ったカカシはふと立ち止まる。
——まて。何か……。
 長年の忍の勘が密告する。“何が”おかしいのか考えていると、その異変は細部まで渡っていることに気づく。窓には結界札が貼られている。丁寧で細い文字だ。その几帳面な字面をカカシはしげしげと眺めた。
「ガイではないな……」
 もちろん、アスマでも紅でもない。三人以外の誰か。その誰かがこの部屋の違和感を最大に引き出していた。念には念をと、引出、書棚、様々な場所を開けてみる。これらに変わった様子はない。盗まれたものもなかった。食器や洗剤の位置、タオルの畳み方、入れた場所も変わっていない。そう、変わっていない。まるで一流の忍が部屋に侵入した後のように。変わらなすぎて逆におかしいということに当人は気づいていないのか、それとも……。カカシは洗剤のボトルを見つめ、手に取った。
「洗剤の量は……減ってるな」
 横にふるとチャプンと液体が波打った。さすがにここまでは気にしなかったようだが、ベッドサイドの衣類はおそらくそれだ。
「うーん……」
 唸るように息が漏れる。入院するような事態は今に始まったことではないというのに、なぜ今。
 カカシはたたまれた衣服に身を包み、額当てを手にした。鈍く光ったそれにぼやけた姿が映り込む。それから窓際に視線を向けた。植木鉢の土は適度に湿り、葉は生き生きとしている。そしていつもの写真へ目を向けた。

「……詰めが甘いな」

 写真立ての埃の跡が少しだけずれている。額縁に触れ、指先がピリリとした気がした。
 —— べつに見られて悪いもんじゃない。そうだろう……。
 言い聞かせるようにカカシは写真立てを手にし、小さく息をついたのだった。

 しかし戦力を欠いた今、のんびりした時間は続かない。再びベッドに腰掛けたカカシの元へ、早くも任務の知らせが舞い込んできた。夕刻には出発しなければ間に合いそうにない。まだ忍具も揃えていない上に、腹ごしらえもしていない。なのに五代目火影は容赦なかった。『病み上がりで悪いね』というそれは社交辞令そのものだ。やれやれという気持ちもあるが、窓の外の変わらない景色を見るとその気持ちは軽くなる。カカシは里が変わっていないことに安堵した。窓越しの子供の声が悲鳴でなく、赤子の泣く声が恐怖の怯えでないことにほっとした。火影がいる。それは忍の里に暮らす人々に平穏をもたらしていることは確かなことだった。


 適当に胃袋に食べ物を流し込み、忍具の調達に出かけたカカシは足を止めた。アパートの廊下で話し込んでいる姿が目を引いたのだ。客がいるのは特段不思議ではないだろうが、それがまた随分と長話だった。盗み聞きのつもりがなくともどんどん大きくなるその声を聞かなかったことにするのは困難を極めた。何かあったのかと言わんばかりに1階のご婦人が窓から顔を出し、上階の様子を窺っている。もはや近所中がその成り行きを見守っていたのだった。

「だからさん、困るんですよ!」
「いえ、ですから違うんです」
「向こう隣の方がおっしゃっているんです!毛深い男がアナタの部屋から出てきたと! しかもアナタこれが始めてじゃないっていうじゃないですか!」
「で、ですから、そっちは私じゃないんです」
「そっち?」
「あっいえ、あっちが、そうじゃないんです!」
「毛深い男はあなたでしょ?」
「それはそうなんですけど……とにかく、あっちは違うんです!」

 あっち、そっち。と、何やら揉めている。首を突っ込むべきか否か。カカシはポケットに手を入れたまま思案した。『ア?まだ里を出てないだと?』と五代目火影の小言が浮かばないこともなかった。ならばさっさと済ませてしまえばいい。頭の中で素早く結論を出したカカシは素早くフェンスに飛び乗った。
「ギャッ!」
 女が声をあげ、は声も出さず目を見開いたまま顔をこわばらせる。
「あのー、お二人とも。少し声が大きいように思うんですけど、何かありました?」
 我ながらおせっかいだとカカシは思う。が、無視できないものは無視できない。
「何もありません。アパートの契約違反で通告しているだけです」
 憤慨した様子のこの人物はアパートの大家らしい。ここは女子専用アパート。そう言ってカカシの目に前に契約書を突きつける。男性の同居は不可。近隣のトラブルは退去理由になり得ると書かれている。
「なるほど……で、この人が何をしたっていうんです?」
「近隣から苦情がきているんです!彼女の家に頻繁に出入りしている男性がいると。それから、それから……」
「それから?」
「夜に“ウルサイ”と!」
「あー……」
 のプライベートがどのようなものかカカシは知らない。恋人がいても不思議ではないが、ちらりと彼女の方へ視線を向けるとは耳を真っ赤にさせて何度も顔を横に振った。その仕草は「濡れ衣」、そう言っていた。
「さては、あなたも出入りしてるんでしょう!」
「いやいやご婦人、御冗談を。オレはたまたま通りかかっただけですよ」
 にこやかに笑って見せたカカシだったが、大家の態度は一片たりとも変わらなかった。
「ウソついたってごまかせませんからね!」
「えっ、いえ、ですからオレは本当に……あ、同僚です。そこを通りかかったもんだから声をかけたまででして。ほら、毛深くないでしょ?」
「とっ、とにかく。あなた方はひょいひょい飛び越えて隠れおいでですけどね、見ている人は見ているんです!!ではさん、これを。期限は来週末ですから」
 はさっと青ざめた。何の期限かと考えるまでもない。話しているのはアパートの大家。毛深い男というのが誰を指すのかはさておき、少なくとも夜の話は勘違いだろう。大方は隣か下階の住人であろうとカカシは察したが、大家の言い分はそれだけではなかった。「そもそも、私は忍を住まわせることに反対だったんです。でも先代がさんに恩があるって言うもんだから……とにかく、契約違反です!」
 ぴしゃりと言い放った大家は振り向く素振りも見せずドシドシとひどい音を立て階段を下りていく。「待ってください」と声くらいかければ良いものの、当の本人は青ざめたままその背を見つめるばかりだ。まるで来る時が来た、そんな顔をして。
「あの……なんかオレ、悪いことしちゃったね」
 こんなにも虚しい一人ごとがあるだろうか。助けにきたはずがこんなことになるとは。そもそもここを通ったのは先日の礼を言うためであったのに、

「……あなたのせいじゃありませんから」

 口に綿でも詰め込まれたようにカカシは無言にならざるを得なかった。
 なにも鍵まですることはないだろうに。
 閉じた扉の先は見た目以上に遠く、分厚く感じたのだった。





「こんなことあんまり言いたかないんだけどね、この際だから勇気を出して言っちゃうけども……オレって実は嫌われてる?」
 誰かブッと吹き出した。ゴホゴホと咳をしているのは山城アオバだ。その隣で「え、誰が誰にだって?」ととぼけるアスマに眩暈がする。
「……アスマくんって、そんなに意地悪でしたっけね?」
 五代目より受けた任務は全て遂行。はたけカカシも復活したのだから、今後のことを含め情報は共有すべきだ。今回はそういう集まりだと聞いていた。だから忙しくともこうして甘栗甘で顔を合わせているというに、話の内容はいつの間にか脱線をたどる一方だ。そのきっかけはガイの何気ない一言。
「ところでは? 声をかけなかったのか?」
「忙しいんだって」
 紅の困り顔が言葉以上の疑問を呼んだ。「何かあったのか?」とガイは言う。
「あの子今、情報部の仮眠室に寝泊まりしてるらしいのよ」
「そりゃまた、随分多忙だな!」
「それだけならまだいいんだけど。」
「ん?」
「はぁ……。ガイ、あなた本当何にも知らないのね」

 上忍が宿無し。その前代未聞の出来事はあっという間に知れ渡る。紅はそれとなく理由を尋ねたが、本人はだんまりを決め込んでいるという。しかも物騒なことが起きたばかりだ。心配しないわけがない。当然、どうにかならないものかと思うだろう。
 カカシだって知らぬふりのままではなかった。しかし、どうしてあんなことを口走ってしまったのだろう。他にもやりようはあったはずだ。あの時玄関越しに発した言葉を回収できるならどんなに気が楽だろう。
『あのー……どうしようもなくなったらさ、オレん家に来る? 部屋も余ってるし、どうせオレはほぼ不在だからさ』
 は何も答えなかった。扉の目の前に気配を感じる。もしかしてと思った瞬間、ドアチェーンのかかる音がした。もちろんカカシとしては善意のつもりだった。他意はなく下心なんてものもない。ただ、もしかしたらこんなことになるんじゃないかとなんとなく予感したのだ。なぜなら上忍宿舎はしばらく空きがない。

「はぁ……君たちね、小馬鹿にしないでちゃんと聴いてくれる? 笑い事じゃないのよ、ホント」
「たしかにカカシが言うように笑い事じゃないわ。彼女、1週間ほど演習場で野宿してたって話よ? 獰猛なのはクマやイノシシだけじゃないんだから」
 カカシは小さく息をつき、「あいつならやりかねないな……」とぽつりとこぼしたアオバに同意する。
「ね、ガイ、聞いてる?」
「な、なんで俺に話をふるんだ!?」
「だって、毛深い男ってガイのことでしょ?」
 紅は誰も口にしなかった一言をさらりという。
「ちちち違う、人違いだ。俺はそういうことは断じて無い!無い!」
「……そういえばガイさん、昔にダンベル贈ったでしょう?」
「な、なんでアオバがそれを知ってる?」
「それなりに付き合い長いんで。しかし、女性の贈り物にダンベルはちょっと……」
「違う、本当に違うんだ。君たちはとても大きな誤解をしている。ひ、ひ、ひとまず落ち着こうじゃないか」
 熱湯風呂上がりのごとく滝のような汗を流すガイ。こんな時、つい悪戯心がくすぐられる。しかしどういうわけか、カカシの口からでたのは揶揄ではなく率直な疑問であった。
「そもそもお前はの家に何しに行ったわけ?」
「それは……まあ、同期の仲を深めるべくだな……」
「仲良くお茶でもしてたって?」
「そんなところだな。いずれにしてもカカシには関係のないことだろっ」
 関係ない。それがちくりとした。あのとき、ガイが自分と同じことを言ったらはなんと言うだろう。どんなに悪く想像してもチェーンをかけられることはないのではないか。ガイはよくて自分はダメだ。そう言っているようなものだ。このモヤモヤがなんだったのか、このときカカシはわからなかった。知らぬ間に親交を深めていた二人が気に入らないのだと気付いたのは、この話がすべて済んだときだったとカカシは記憶している。
「まあ、何にしてもだ。だっていい大人だ、自力で解決したいのだろう。最悪、オレの部屋を貸してやってもいい。オレは野宿でも構わんからな!」
 と、どう考えても事の発端であろう本人はこの調子。気に揉むだけ無駄なのかもしれない。
「それは無いわね。あのタイツをどうにかしなきゃ、むさ苦しくて落ち着かないわ。あと、トレーニング器具も」
 そんなやり取りを一通り見ていたアオバが言った。
「そう言えば、紅さんの部屋はダメなんですか?」
「私は真っ先に断られた。もっと頼ってくれたらいいのにね。だから、カカシ。べつに嫌われてるとかそんなんじゃないわよ。ただ、少しだけ不器用なだけ」
「不器用ねぇ……」
 紅の言い分は間違いではないのかもしれない。ただ、不器用だけで済まされるのか。カカシの疑問は晴れるどころかますます靄がかって見えたのだった。

二、扉の奥

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