「お先に失礼します」
誰かがそう言った。
そんな部下達の声には全く気が付かない様子で顔も上げず、熱心にパソコンを見ている上司。最近人事異動でやってきた男だ。仕事熱心 そんな事はない。あの男が見ているのは無料動画サイトだと誰もが知っている。それなのに、よりも給料は二倍だ。社会とは理不尽の固まりだ—— がそんな風に感じた事は一度や二度ではない。お金持ちの家に生まれた時点で人生の半分は決まったようなものだと誰もが言う。生まれながらにもった運はそう変えられない。中には、『自分は努力してここまできた』そう主張する人もいるが、それもまた運。どう足掻いたって、嘆いたって、一定の地点にたどり着くのが精一杯。そんな人間も少なからずこの世に存在する。
定時もとっくに過ぎたというのに、ビル前通りはサラリーマンやOLの姿が切れることはなかった。ビルの裏口のドアを開けると、なんとも言い難い生ぬるい風が全身を包み込んだ。だが、それも一瞬。特に気に留める事もなく、は自分が勤めるオフィスビルを後にした。
朝も夜も満員の電車に揺られる。それはの日常の一部であり、ごく当たり前のことだった。右も左もあったもんじゃない。加齢臭が漂う中年やイケメンのサラリーマン、塾帰りの高校生に飲み会帰りの大学生、同じように疲れた顔のOL。そんな人々と共に、五つ先の最寄り駅まで揺られる。は無言の争奪戦で勝ち取った吊り革に必死に掴まった。余裕で居眠りをする座った乗客の頭上越しに見えたのは、赤みを帯びた満月だった。そして、ふと、今朝方のニュース記事を思い出す。
「ストロベリー・ムーン」
今夜は年に一度の特別な日。
赤の他人にすみません、と何度も言いながら、はすし詰めの車内から吐き出されるように飛び出した。何度も通った改札にスマホをかざし駅から出ると、先程とは打って変って静まり返った町並みが現れる。この辺りでは有名なベッドタウンだった。
がこの街に越してきたのはつい最近の事。前の家から考えれば随分楽になったものだ。一ヶ月前は、あと三十分は走る箱の中に閉じ込められたままだったのだから。
駅近のコンビニで寄るのもまた日常。選ぶ、と言うよりも、売れ残りに近いような商品からただ口にできそうなものを手に取る。そして、ふと普段は無視する陳列棚に視線を向けた。
(あ、これ有名なやつだ。)
今日は少しだけついていたらしい。はすぐに無くなってしまう話題のお菓子をカゴに追加した。今日は金曜日。ちょっとしたご褒美の日。一週間頑張った自分を甘やかす日だ。そう決めていた。
それが、ささやかな幸せだった。
これが知人に知れたら、随分寂しい女だと思われるかもしれない。
たが、そんな事を気にしていたら、ささやかな幸せは無くなってしまうだろう。
ただ、一日が終わるだけの毎日。
それでも、十分幸せだ、はそう思っていた。