01

 いつものように、駅前のコンビニを出たは急いで自宅マンションを目指した。
 あの映画、確かまだ配信してたよね……。
 そんな事を考えながら、これからゆっくり休日を楽しむ予定だった。


 最寄り駅から徒歩15分の道のりをひたすら歩く。理想は、駅近10分。だが、それだけで家賃が1.5倍に跳ね上がると知り、悩んだ末に仕方なく15分の方を選んだ。しかし、実際は20分近くかかる。不動産屋の口の上手さ、下調べが足りない自分……。悔しいからこうして早歩きで無理やり15分にしているのだ。馬鹿げている、そんな事は百も承知で。


 それは、駅から10分ほど歩いた時。
 ビル風の生ぬるい空気が頬を撫でた。
 それに気味の悪さを感じたは、更に早歩きになった。ヒールの音が焦ったように夜の通勤路に響く。マンションのエントランスが視界にちらつく頃には殆ど駆け足だったかもしれない。

 あと少し、あと少しで……——

 そんな気持ちを踏みにじるかのように、の視界は遮られた。


「いっ、」

—— 何、まさか、強姦?!)

 思い切り尻餅をつくと、いきなりのしかかる重みには血の気が引いていくのがわかった。慌ててスマホを探すが、右ポケットに入れた手のひらはポケットの生地を撫でただけだった。慌てて周りを見渡すと、正反対の方に光るものが見えた。必死に腕を伸ばしたが、それに指先が掠ることもなく、絶望感が襲った。
 すると、不意に身体が軽くなった。
 今しかない、そう思ったはよろよろと地べたを這うようにしてそこまで向かい、すぐに立ち上がった。亀裂が入ったスマホ画面に絶望する暇はない。
—— 11……110
 たった三文字。なのに勝手に震える指先はまるで言うことを聞かなかった。目の前に立ちはだかる影に、どうする事も出来なかった。男のただならぬ空気に、息を吸うだけでやっとと言ったほうがいいかもしれない。

「け、警察に連絡したから、直ぐにここに来るから」

 振り絞って出した声の直後、都合よく近くでサイレンの音がした。
 これで男も逃げるに違いない。はそう思ったが、考えが甘かったと思い知る。微動だにしないその男を見て、ついに何も出来なくなってしまった。

(あ、もう、だめだ……)
 力無く下げた腕から、するりと滑り落ちたそれは、ガシャッと派手な音をたてた。はこれからどうなるのかという恐怖を直視できず目を逸らした。
 (一体なんなの、なんで私なの……)
 警告音のように止まない心音を感じながら、目を閉じた。だが、いつまでたっても自分が想像したような事態は起きなかった。

「これ、たぶん大事なものですよね?」
 その声で目を開けると、目の前にはバリバリに画面がひび割れたスマホが差し出されていた。半ば奪い取るようにそれを手にしたは、すぐに画面を確認した。だが、さっきの一撃でとうとうどうにもならなくなってしまったらしい。真っ暗な画面を見ると少しは諦めもつく。怯えていたってどうにもならない。どうせなら一言二言文句を言ってやろう、そう考えたは意を決して顔をあげた。
 そして、は驚愕する。

「すみません……悪気はなかったんですけどね」

 取って付けたような敬語で申し訳なさそうな顔をする目の前の男は、が想像していた者とは全く違っていた。まず初めに銀色の髪に目がいった。次は口元、インナーか何かで隠している。そして額にはヘアバンドのような妙なものをして、目元も隠れていた 。それに、何というか、格好が変。とにかく変だった。まるで漫画のコスプレのようだ……。—— そういえば、彼らはこういった類が好きだと聞く。髪の色からして、おそらく外国人なのだろう、そう思った。会話は普通に通じていたような気がする。とりあえず、この男は日本語が話せる。謝っている様子から、普通にぶつかっただけかもしれない。この道は街灯が少なかった。もしかすると、自分がぶつかった可能性も否定できない。

とにかく、おかしな事は確かだ。男が急に目の前に現れるなんて、あり得ない……。


「いえ、こちらこそすみませんでした」
 は数メートル先のマンションに視線を向けた。
 だが、不意に腕を掴まれ、思わず肩を震わせる。
「……なんですか?」
 スマホは完全に壊れている。警察には、通報できない。この状態は明らかにこちらが不利だった。冷や汗が出るのを感じながら、は男の言葉を待った。
「ところで……ここは?」
 困った様子で眉を下げた男の顔を、はまじまじと見つめた。その間、男は電信柱の住所を記したプレートをじっと見て、さらにため息をついた。そして、空を見上げた。
 そんな男の様子を目で追っていたせいか、ばっちり目が合ってしまった。
 そして、目が合った男は耳を疑うような事を言い出したのだ。

「あの〜非常に申し訳ないんだけど、君の家に泊めてくれないかな? 二週間くらいでいいから」

 は呆然とその男の顔を見つめ返すのが精一杯だった。