04

「勝手に居なくなるのはいいけど、私の部屋、みたりしないでよ?」
 身支度を整えたは、まるで年頃の娘が家族に言いつけるかのような口調でそう言った。それに対して、「りょーかい」と言うカカシの返事はえらくのんびりと聞こえる。
 本当に大丈夫だろうか?
 のため息は増える一方だった。そして、ふとした瞬間に思う。こんな事をして何になるんだと。


 結局、昨晩はどうしたのかと言うと、カカシにはリビングで寝るように言いつけ、いつも通りは寝室のベッドで横になった。家に泊まっていいとは言ったが、ベッドを貸してやるとまでは言っていない。招かれざる客ともいえるこの男に、お気に入りのベッドを譲るわけにはいかないからだ。だが、当然寝付けるわけもない。どんなに馴れ馴れしくされても、知らない男が家に止まっている事実は変わらない。自業自得なのだが、部屋のドアの方へ神経を尖らせている内にあっという間に日が昇り始めた。


 その日からは通称や印鑑、身分証などの貴重品は全部自分の手元に持つことにした。用意周到で悪いことはない。いつもよりごちゃごちゃしたバッグは重かった。朝から住宅街を抜け出し街へ出かけたは、真っ先にケータイショップへ向かうと新しいスマホを購入した。生活必需品のそれを放置しておくわけにはいかず、痛すぎる出費にこっそりと通帳を確認すると余計に悲しくなった。諸々の手続きを終え、は新しいスマホを片手に今度は何でも揃いそうなショッピング街を目指した。というのも、さすがにあの人にあの格好で自宅周辺をうろうろしてもらうわけにはいかないからだ。一晩だけという約束だったが、あの男が一円も所持金がないというのは少々気がかりだった。
 自分が思っている以上にお人好しだという事に、は初めて気づいた。

—— まずは上だけでも何か買わないと……あの変なサンダル、サンダルはそのままでいいのかな。いや、やっぱり……。)
 他にも歯ブラシなどの生活必需品が色々浮かんでくる。服や履物はなんとかなるとして、問題は下着だ。別に買って帰ってもいい。だが、あの男は彼氏や夫ではない。赤の他人だ。さすがに赤の他人の下着を買うというのは……なんとなく憚れる。だが、いつまでもあのまま部屋にずっと居られるのも考えものだ。そんな変な葛藤のせいで、は紳士下着コーナーの前でうろうろする羽目になった。


 確か、家を出た時はスマホを買って、ちょっと生活用品を買い足そう、そう思っていただけのはずだ。
 随分大荷物担ってしまったは、それを持ち帰るのに一苦労だった。配信動画を見る時間なんてあるはずもなく、その日はあっという間に夕方になってしまった。

 そして、だんだん見えてくるマンションを見て考える。
 これだけ買ったのに、居なくなっていたらどうしようか……。
 そんな事を思う自分が可笑しくてたまらなかった。

 仮に、居なくなっていてもこっちとしてはありがたい話である。
 玄関の鍵を開けていると、ふわりと美味しそうな匂いが漂い始めた。住人の誰かが夕食を作っているらしい。

「ただいま」
 そう言ったのは、意識したことではない。いつもの習慣だった。

「おかえり」

 はまじまじと男の顔を見つめた。まさかそんな言葉が返ってくるとは思いもしていなかったのだ。そして、男がまだ部屋に居座っている事実を理解した。
「随分大荷物だね」
「これ、殆どあなたのだから」
 の言葉に、カカシは驚いた顔をした。
「頼まれてないのは知ってる。だけど、いつまでもその格好って無理があるかなと思って……」
「それは……そうか」
 カカシは申し訳無さそうにしながらも、「ありがとう」と言った。まさか礼を言われるとは思いもしていなかったは視線を泳がせた。「これを持って、ここを出ていって」と言いそびれてしまった。

「これくらい、大したことないから……」

 半開きのままになっていた扉を通り抜け、玄関先には美味しそうな匂いが漂っていた。
 玄関先でがバトンタッチのようにカカシへ荷物を受け渡しているときだった。
「じゃあ、せめてお礼をさせてよ。洗濯は色々あるだろうから、オレがの代わりにご飯を作るっていうのはどう?」

 異世界から来たとかヘンテコな事をいう男がご飯を作る……大丈夫だろうか。
 そう思ったのが顔に出ていたらしい。カカシはの表情を見て、眉を寄せた。

「あのね、さすがに毒盛ったり、腹を壊すようなものを作ったりしないから」
「本当に? でも、そうしてもらうとありがたいかも……。なんていうか、私、料理はほとんどしないから」
 その言葉に、カカシは「そうだろうね」と余計な一言を呟いた。
 おそらく、無駄に綺麗なままのキッチンと冷蔵庫を見たに違いない。



「その額当て……は、しなきゃ駄目なの?」
 が適当に買ってきた服に着替えたカカシは、まだあの妙な物を頭に巻いていた。どう考えたって不釣り合いだ。顔を隠していたのはコンプレックスがあるからだと思っていたが、何のことはない。が見た限り、コンプレックスどころかその辺の男よりも随分、かなり、整った顔立ちをしていた。しかもこの身長。まるでモデルのようだ。それなのに、あの変なマークが入ったヘアバンドならぬ額当てというものを付けたままになっていて、かなりおかしな風貌になっていた。
「んー、しかたないか」
 が居ない間にテレビでも見ていたのか、カカシは自分の格好がかなり変だという自覚はあるらしく、素直にそれに応じた。しかし、はそれを見てぎょっとする。
「……ごめんなさい、やっぱりそれ付けたままでいいから」
「え、せっかく取ったのに」
「私、そこの薬局行ってくるから、ここで待ってて、すぐ戻ってくるから!」
 玄関を飛び出したは数メートル先にあるドラッグストアを目指した。あんな傷があったら、誰だって隠したくなるだろう、そう思ったのだ。


 全身鏡を覗き込む二人の顔はなんとも言えない表情をしていた。
「んー、なんか口元がスースーするからやっぱり……」
「また職質受けるかも」
「ああ、それはちょっと困るかな」
 一体どこが気になるのかには全く理解できなかった。カカシは適当に買った安物のTシャツとスウェットでさえ着こなしていて、眼帯も相まってなんだかビジュアル系でも目指している男に見えてくる。そんなに気になるなら、と使い捨てマスクを差し出したが、眼帯にマスクが合わさると威圧感が凄かった。日本人離れした風貌も合わさり、より一層怪しげな雰囲気を醸し出した。
「目立ちそうだね……」
 思わず出てしまったの本音に、カカシはそっとマスクを取った。
 さっきの服よりもこっちのほうが大分マシになったのは間違いない。


 カカシの身支度が整ったこともあり、達は夕食の買い出しに出かけることにした。朝から色々走り回ったはへとへとに疲れていた。
「夕食、何がいい?」
「何でも。……家には調味料もあんあまりないし、凝ったものは無理だけど……」
 まるで昨日初めて会ったとは思えないような会話をしながら、達は適当な材料をかごに入れていった。だが、ある地点ではカカシに疑問を持つ。
「これ、ちょっと買い過ぎじゃない?」
「え、予算オーバー?」
 カカシは買い物籠を見て金額を気にした。異世界から来たといいながらも、かごの中身は桁外れな金額にはなっていなかった。
「いや、金額じゃなくて、量の話」
「まさか、夕食だけだと思ってた?」
「え、違うの?」
「さすがにあれだけ世話になって、夕食だけなんてありえないでしょうよ」
 ざっと三、四日分はある食材には驚いた。カカシは本気で料理をするつもりなのだ。



 家に帰ったとカカシはさっそくキッチンに立った。
 珍しくキッチンにトントンと手際のいい音が響く。

「へー、本当に料理できるんだね」
 思わず感心したように呟くにカカシはため息をついた。
「そんなにジロジロ見られると、やりにくいんだけど」
「あ、ごめん。でも、作ってる所を見るのってなんか楽しくて」
 どんな料理ができるのか、は楽しみで仕方がなかった。カウンターから台所の様子を覗き込む様子はおそらく子供のようだったに違いない。そんなに、カカシは一瞬手を止めると「ま、いいけどね……」と言って、また手際よく料理を再開した。
 フライパンを火にかけながら、キッチンの換気扇が回る音がする。
 玄関の外は今、空腹泣かせのとてもいい香りがしているに違いない。


 それからしばらくし、は目を輝かせながら、テーブルに並んだ料理を見ていた。どれもすごく美味しそうだ。カカシの「簡単なもので悪いけど」なんて言葉は謙遜もいいところ。自ら料理をすると言うだけはある。いただきます、と手を合わせながら、はカカシが料理に箸を付けたのを見て、同じ様に口にした。
「凄い……料理、どこで覚えたの?」
「一応、独学で」
「そうなんだ、本当、凄いよ。すごく美味しい」
 一口食べただけでの胃袋は虜になりそうだった。そして、頬張るたびに、幸せな気分になっていく。
 それは、カカシの料理がプロみたいに美味しかったこともあるが、一番は、誰かと食事をしているこの時間だったのかもしれない。