「って事は、結局家に上げちゃったんだ」
とあるカフェの片隅で、一通りの話を聞いたはおっとりとした口調でそう言うと、オレンジジュースで喉を潤した。
「私だって、最初は警察に言うつもりで……でも、まともに番号も押せないし、スマホは壊れるし、と、とにかく必死だったの、本当に」
「でも、なんだかんだ言って家に上げたのはでしょう?」
はの新品のスマホに視線を向け、でもそんなことするんだ、とぽつりと呟いた。
はの幼馴染だ。何か惹かれるものがあったからか、親がいないというお互い似たような境遇だからか、小学校で初対面だったにもかかわらず、すぐに友達になった。にはとうとう養父母という存在は現れなかったが、の養父母はの事も何かと優しく接してくれる、本当に素敵な夫婦だった。
そんな優しい養父母の元で育った彼女は親友の目から見ても、少し変わっていた。占い、SF、オカルト—— とにかくそういう類が大好きだった。
「それで、その人なんだけど……やっぱりいいや」
躊躇うに対し、は話の先が気になって仕方がないという顔をした。話すまで帰らないとでもいい出しそうな表情をしている彼女に、絶対に笑わないでと前置きをして、は周りの様子を窺った。こちらの話に聞き耳を立てるような暇な人物はこのカフェにはいないようだ。
「実は、突然現れたような気がして……。すっと、目の前に」
あの時は気が動転していた。冷静じゃなかったのは間違いない。
とにかく、あり得ない。
そう思い、一度はその線を消したはずなのに、何故だかずっと気になって仕方がなかった。
「それに、外国人でもなくて、何か、とにかく聞いたこともない所が祖国だって言うの……変だと思わない? 絶対に変よね」
こんな話にもまともに耳を貸すのは彼女ぐらいしか居ないだろう。その彼女でさえ、一瞬ぽかんとした顔をしたのをは見逃さなかった。
「えーっと……、は心の何処かで、その人の言うことはあながち嘘じゃないんじゃないか、とか思ってるの?」
「そういう訳じゃなく……いや、そうなんだけど……」
さすがに同じ人が二人現れたとは親友にも言えなかった。はのように占いも未確認生物も信じてはいなかった。だが、いくら考えても、どうしてもあの現象を証明でき、納得がいく結論にたどり着けない。はが何らかを知っているのではないかと、密かに期待していたのだ。
「そんな事ありえないよね、やっぱり……」
「私はそれもあり得なくないと思うけど」
「なんでそう思うの?」
「だって、地球人がいるんだから、火星人もいるかも知れない。この世があるならあの世もあるかもしれない。それと同じよ。今があれば過去も未来も存在するんだから、別の世界が存在したって、なんの不思議もないじゃない?」
がこんな事を言い出したのは今日が初めてではなかった。彼女とは長い付き合いだ、ひょっとすると若干彼女に洗脳されたのかもしれない。
「そういうもの、なのかな」
半信半疑ながらもその線に傾きつつあるにが言った。
「それに、が家に入れたって事は、変な感じじゃなかったって事でしょう?」
「うん……」
確かに悪い気はしなかった。
昔から変な感が働いた。怪しい人から刺々しい空気、優しい人からは柔らかい空気が流れている。それを総称してオーラと言うらしい。スピリチュアルな人がよく言うあれだ。その感覚だって、今はぼんやりと感じる程度。小さい時はあれほど普通がいいと思っていたのに、いざ普通になってしまうと、ちょっと便利なアイテムを失ったような残念な気持ちになるのだから不思議だ。
「そうだ、の新しいマンションにも行ってみたいし、その時にでも会わせてよ」
「え?」
会わせる——
なら言い出しそうなこと……いや、こんな話をすれば誰でも興味本位でそう言い出すに決まっている。そんな事も想定せず、ぺらぺら話してしまったことをは少し後悔した。その前に、昔からの友達ならば心配してすっ飛んで来るか、無理にでも止めに入るものじゃないのかと思うが、彼女は少し変わっている。驚いたのは一瞬だけだったらしく、今の彼女は好奇心に満ちあふれていた。いたずらっぽく笑みを見せたがこちらを覗き込んだ。
「あー、そんな事言いながらさ、実は彼氏だったりして」
「彼氏じゃないから」
「ふーん?」
は徐に席を立ち、伝票を握った。
「どうしたの?」
「今日はもう解散」
「え、なんで?」
「だって、その人がの家で待ちぼうけてるかもしれないじゃない」
「え、いいよ。そんな事気にしなくても」
私とカカシは赤の他人なんだから。がそう呟くと、はため息をついた。
「一応家に泊めてるんだから、それなりに接待しなさいよね」
「接待って……ちょ、、本当に帰るの?」
の言葉など聞きもせず、はお釣りが出ないようにぴったり支払いを済ませると、さっさと店を出て、ちょうど止まった路線バスに飛び乗った。まだ支払いも済ませていないにはバスの中からにっこり笑って手を振った。すると、スマホにメッセージが届いた。それには『あ、今度の日曜に行くね』と表示されていたのだった。
「ただいま」
「おかえり、早かったね」
いつも通りの『ただいま』に返事が来る。
この状態には慣れないでいた。と言っても、まだ二晩しか経っていない。当たり前といえばそうなるだろう。カカシはあの妙な服をひとまず着ないと決めたのか、きちんとが買った服を着て玄関先に立っていた。
「友達は用事があるって、先に帰っちゃったから」
「あー、そうなの」
関心があるのかないのかわからない声でカカシは呟いた。
とりあえず、と思って買った服を着ているカカシを見て、は思った。
「……家に居ても暇だろうし、ちょっと買い物でも行ってみる?」
「どこまで?」
「五つ先の駅まで」
「駅……まあ、いいけど。知ってるだろうけど、オレ、金ないよ」
「うん、知ってる。またご飯作ってくれたらそれでいいよ」
自分でも変だと思っている。“また”なんておかしな話だ。なのに、は靴を脱がずに玄関のドアノブに手をかけた。
「行かないの?」
直前まで迷っていたカカシは、あの妙なサンダルを履いて後をついて来たのだった。
驚いたことに、カカシは切符の買い方も知らないようだった。駅の券売機を目の前に、一つ一つ教えながらなんとなく、は自分の分も切符を買った。
ピークの時間は過ぎたらしく、休日のホームは人もまばらで、いつもの光景とは真逆の風景だった。
「私、いつもこの駅から仕事に行ってるの」
「へー、大変じゃない?」
「慣れればどうってことないよ。カカシ……の国には、電車とか、スマホとか無いの?」
カカシがいつもスマホを“これ”とか“それ”と言っていたのが気になっていた。
「ない。そもそもこんなに発展してないし」
「そうなんだ」
「この国は、ずいぶん平和だよね」
「あー、もしかしたら、この地球で一番平和かも。あまりにものんびりしてるから他国からは“平和ボケしてる”って言われたりして、」
と言いながら、はカカシが住む国を想像してみた。忍者と言うし、もしかしたら山の中で電気も通っていなくて……そんな感じの国をイメージしたが、昨日のカカシの様子を思い出し、ますます不思議に思った。普通に冷蔵庫を開けて材料を入れていたし、炊飯器でご飯を炊いて、料理をしていた。電気も普通につけていた。ひょっとすると、今イメージしている様子よりも、カカシが住む国というのは発展しているのかもしれない。
それで、もしかしたら……、
平和とはちょっといい難いのかもしれない——と、そこまで考えて、は向かい側のホームに視線を移した。
あくまでも想像の中の想像だ。
自分はいつから妄想癖になってしまったのだろうか……。
存在していない架空の国の事を考えることは、全くもって意味のない事だとは自分に言い聞かせた。
「はこの国に居て幸せ?」
不意にカカシはそんな事を呟いた。
「え? うん、それなりに……」
その言葉は嘘ではなかった。ただ、すごく幸せでもなければ不幸でもない。
それなりに、だなんて、なんとも曖昧な返事だとは思った。
やがて駅のホームに音楽が流れ始め、は線路を見つめた。
「あ、電車が来るよ。あれに乗るから」
遠くの方からやってくるそれは何の珍しさもなかった。だが、カカシは違った。「へー、ああいうものがあるんだ」と珍しそうに呟いた。
電車内はそこそこ人が乗っていて、たちは出入り口をさけるように立っていた。その間、カカシはに質問したことなど忘れてしまったかのように、窓の外を熱心に眺めていた。
電車を降りると、休日ということもあり、店の前はかなりの賑わいをみせていた。
どこに入ろうかと迷っていると、ふと、ショーウィンドウに展示されたメンズ服に目が止まった。
「あんな感じ、カカシは好き?」
この人なら絶対似合うに違いない。
「カカシはどんな服が好きなの?」
難しいことを聞いたわけではない。それなのに、カカシの返事は鈍いものだった。
「服か……あんまり考えたことないな」
あの妙な服にはこだわっていたのに、服に無頓着だなんて……。
はそう思いつつ、「そうなんだ」と簡単な返事に留めた。すると、カカシはが考えていた事を見透かしたように言った。
「ああ、別に要らないよ?」
「でもそれ、私が適当に買ってきた安物だし、カカシの好みとかあるんじゃないの?」
「オレのために用意してくれた服には変わりないし」
「私、そんな大層な事はしてない」
「それに、オレってけっこう何でも似合うよね」
これは新しい発見だったかなと言いながらカカシはポケットに手を入れた。突然の自画自賛には驚きと共に呆れた顔をした。
若干感動しそうになった事に謝ってほしいくらいだった。
「実はカカシって……ナルシスト? あ、でも私に声をかけるくらいだし、女たらしとか?」
からかうにカカシは「あのねー、冗談に決まってるでしょ」とげんなりした表情を見せた。
祖国でナンパをするカカシの姿を想像し、なんだか面白くなってしまったこともある。
「どんな人なの?」
「え?」
「居ないの? 彼女」
このルックスでフリーなんてあり得ないと思いつつ、はカカシの返事を待った。
—— なんか、まずいことを言ったかも……。
直感的にそう感じたはすぐに言葉を付け足した。
「まあ、人には色々あるもんね。変なこと言ってごめんね」
それから何と声をかけるべきか分からなかった。
考えてみれば、カカシは今どういう事情か不明だが、外国にいるのだ。その事実を知りながら、ちょっと無神経だったかもしれない……。
賑やかな繁華街を、達は無言で歩いた。
「お腹空いたんじゃない?」
しばらくして、そろそろ話題を振ってみようとはカカシの方を振り返った—— はずだった。
「カカシ?」
人の流れを逆らうように、は視線を向けた。カカシが自分の隣に居ない事に、今の今まで全く気がついていなかったのだ。あの髪色に身長。近くに居るのなら、すぐに気づくはずだ。もしかしたら、怒って帰ってしまったのかもしれない。そう思いながら、少し焦っていた。もし、はぐれただけだったら……電車も知らない人がこの辺の土地勘なんてあるはずがない。どうしようもなくなったは、手当たり次第に探し始めた。
服には興味がないと言っていた。なら、食べ物だろうか。それか、物珍しそうな場所—— 。
考えれば考えるほどわからなくなった。あの男について分かる事は微々たるものなのだ。それなのに、話しやすさもあって、あんな事を言ってしまった……。
—— もう一回、ちゃんと謝らないと……。
そう思いながら、いつしかは必死になって探していた。
「さっきはごめんね」
ある路地を曲がったところにカカシらしい人影が見え、は慌てて声をかけた。怒ったよね、と言うとカカシはきょとんとした顔をした。
「何が?」
「私、無神経なこと言ったから……」
カカシは「怒ってないよ」と言いながら、ようやく自分のことを探し回っていたのだと知ったようだった。
「あー、ごめん。ちょっとこれが気になって、後で追いつこうと思ってたんだけどね」
はカカシが凝視していたものに視線を移した。無機質なコンクリートの打ちっぱなしような外壁の前に、小さな立て看板が出ていた。『大人のプラネタリウム』と書かれている。どうやらこの路地の奥に建物が続いているようだ。
「プラネタリウムって?」
立て看板のイラストを見て、カカシは不思議そうに言った。どうやらこれも彼の祖国にはないもののようだ。
「室内で夜空を見上げて、楽しむものかな、天体観測みたいな感じ。もちろん本物ではないけど」
余程興味があるのか、カカシは顎に手を当てて、じっとそれを見ていた。
「……見てみる?」
さっきのお詫びにと思うのは、自己満足に過ぎない。それでも、すこしでも何かしてあげられるのなら—— 。
「いいの?」
「うん。次の開演は……2時か、その前に昼ごはんにしようよ、お腹空いたでしょう?」
この街にはこんなにもいろんな物があるのに、なぜカカシがプラネタリウムに興味を持ったのか、は不思議だった。