空蝉-序章-

 山深い場所を照らすのは、薄雲のかかる月夜のみ。遠くの方から聞こえる物音は野生生物のものだろうか。その片隅で聞こえていた呻く声はだんだんと小さくなり、刃先から落ちる黒い雫を振り払う頃には、辺りはすっかり静寂を取り戻していた。
 背に短刀を収めると、それが合図であったかのように男は口を開いた。
「先輩、そろそろ戻りますか」
 カカシはそれに頷くと、雑木林を後にした。


 カカシ達が木ノ葉の里へ帰ったのは、すっかり日付も変わった真夜中のこと。更衣室で着替えを済ませていると、別の班の男が淡々とした口調で言った。
「そういえば、医療班で殉職者が出たとか。」
 その男に答えるように、同行していた男がビンゴブックに印を付けながら呟く。
「確か、先週もそうでしたよね」
「でも、珍しくはないです」
 二人の会話を耳にしながら、装備をすべて外し終えたカカシは自分のロッカーの中にそれをしまった。
 出入り口のドアノブに手をのばすと、「あ、カカシ隊長」と思い出したような声で呼び止められ、仕方なく足を止めた。

「下で会いました?」
「誰に」
 その問いかけに男は“くノ一”とだけ答えた。一言にそう言われても心当たりがあるわけでもなく、カカシは思わず眉を寄せた。
「用件は?」
「そこまでは。いつ戻るかわからないって伝えたんですが、それでも待つと言うもので」
 しかし、それも数時間前の話だという。そんな女は見かけなかった—— そう言いかけて、今日は裏口から戻ったことを思い出す。表玄関の様子は確認していなかったが、とてもこんな時間に人がいるとは思えない。
「さすがにこんな時間まで待ってないでしょう。急用なら伝言するだろうし」
 そう言いながら、テンゾウは装備を外す手を止めた。そして、真顔だった表情が一瞬で和らぐ。
「でも、くノ一ですか」
 僅かににやりと笑う男とは対照的に、カカシは渋い顔をした。
 この男は一体何を期待しているのか。
 カカシは小さくため息をつくと、更衣室を後にした。



 —— 一応、念の為だ。
 カカシは地上へと続く階段を登りながら心の中でそう言い聞かせていた。薄暗く、換気扇の音が響く廊下では、不規則な足音が並ぶ。
「で、なんでお前までついてくるわけ?」
「玄関を通らないと帰れないじゃないですか」
 まあ、いいじゃないですかそこまでですからついでですよ。と言いながら、テンゾウという男の顔にはしっかり“気になる”と書かれている。
「別にいいけどね……」
 どうせ誰もいないだろうし、と、カカシは心の中で小さく呟きながら玄関の方へ向かった。そして、はたと立ち止まる。
 こちらに気がついたのか、例のくノ一とみられる人物はガラス戸越しに小さく会釈をした。その様子を目にし、さすがに悪いと思ったのだろう。テンゾウは外にまでついて来ようとはしなかった。


 ガラス戸に手を伸ばすと、蝶番の擦れ合う音が耳についた。深夜の静けさもあり、妙にうるさく聞こえる。
「お疲れ様です。待ち伏せしてごめんなさい」
 そう言って、こちらを見た人物は笑みの一つも見せなかった。視線はカカシの向こう側の終始窓ガラスに向けられている。目を合わせるつもりはないようだ。
「……それで、オレに用っていうのは?」
 夜通し待つ理由が分からず、カカシが訝しげな視線を向けると、彼女はさっきよりも視線をやや下に向け、躊躇いながら言った。
「あの……、急にこんなお願いするのも失礼だと思うんですけど、……」
 と、彼女はポケットからメモ紙を取り出す。
「明日、お時間があったら……来てもらえないかと思いまして」

 受け取ったのは、ほとんど反射的なものだった。それを目にしたカカシは更衣室での会話を思い出した。メモ紙に書かれた名はどこかで耳にした響きだ。それが何であったのか、カカシが思い出そうとしていると、俯いた彼女は続けた。
「もちろん、無理にではありませんから」
 用件は本当にそれだけだったらしく、失礼しました、とすぐに背を向ける。
「おい、ま……」
 カカシの呼びかけに反応する様子もなく、一瞬だけ土と靴が擦れた足音が聞こえると、そこにはチリチリと不規則な街灯の電子音だけが響いていた。

 これを渡すために、わざわざ待っていたというのだろうか。
 細い書体で記されていた。内容を見ていると、玄関が開く気配がした。
「知り合いだったんですか?」
 テンゾウの視線は暗闇からカカシの手元へと注がれていた。



 翌日、カカシはその場所へ足を向けていた。
 正午になり、墓地についたカカシはそれとなく辺りを見回した。
 それと同じく、辺りを見回したのは紅だ。続々と集まる参列者の中から誰かを探しているようだった。心配そうに眉を寄せる紅にカカシが声をかけようとしていると、一人の男が近寄ってきた。
「紅、そう心配するなよ、直に来るだろう……。それよりカカシ、今日は非番か?」
「そんなところ……」
「短い間とはいえ、一応お前にとっても同期だしな」
 なかなか律儀なところがあるんだなと、アスマは墓の前ですすり泣いている数人の女を見つめた。そこでカカシは初めて理解したのだった。

 線香から立ち昇る煙を見つめると、今にもぽつりと落ちてきそうな空をしていた。

一、記憶の欠片を拾うとき