空蝉-第一章-

 火の国、木ノ葉隠れの里。この里に生れた時点で人生の半分が決まったようなものだとは思っていた。親が忍であれば尚の事。その子供も忍を目指すようになるものだ。物心がつけば、自分も忍者アカデミーに入学するものだと思う。珍しくもない、選択肢の少ないこの時代ではごく自然なことだった。
 アカデミー時代はこれと言って何か特別なことがあったわけではない。特別に教師の目を引くような生徒でもなければ、特別に家柄の良いお嬢様でもなかった。
 そんなでも、いくつか印象に残っている出来事がある。


 アカデミーとは忍の養成学校。忍になるにはまずはそこを突破しないことには始まらない。そこで学ぶすべての子供が特異な者かといえば、そうではない。入学試験さえ通れば、一般人の子供でも通えるシステムになっている。忍術を教えてもらい、覚え、実践する。この術には何が有効か。この判断の間違いはどこだったのか。そんなことを繰り返し学ぶ。一歩ずつ階段をあがるように。
 そこに個人差はないのかと言われると、なんとも言えないのが正直なところだった——


 課題が終われば昼休み。そんな時、アカデミーに通う女子達はいつもよりもうんと早く課題を終わらせて、男子の演習の様子を見に行った。おしゃべりもそこそこに熱心に課題を仕上げることに専念する彼女たちに、くノ一クラスの教師は決まって「いつもこうだったらいいんだけど」と苦笑いをした。
 こんな時、アカデミーのグラウンドの一角にはすでにギャラリーが出来上がっている。もちろん、もそのギャラリーに参加しようと思っていた。しかし、今日に限って刺繍の授業。その前は巾着づくり。手芸が得意なツヅリは早々に作品を仕上げていたが、それに比べてはこれらの事がとても苦手だった。一番簡単なものを選んでいるつもりなのに、提出はいつもギリギリだった。いつも賑わう日中の実習室は静まりかえり、三人がけの机にはだけが端の方で一人ぽつんと残っている。そんなことが度々あった。
「やっとできた」
と、そんな状況でも作品が仕上がると満足気に微笑む。焦って早く終わらせようとはしなかった。
「先生、出来ました」
 その声に、教師は書物をしていた手を止め、くるりと椅子を回転させの方へ向き直った。やっと来たわ、そんな雰囲気を醸し出していた。だか、作品を手に取ると明らかに表情が変わる。
「あら、とっても綺麗な桜の花びらじゃない」
 教師の口元がほんの少し弧を描いた。教師がそれを受け取るのを見て、慌ててその場を後にする。もちろん、向かった先はアカデミーのグラウンドだ。

 友人のツヅリが待つグラウンドへ着いたのは、授業が終わる数分前だった。今日こそはともフェンス越しにグラウンドを覗いた。何か動作をする度に、女の子の色めきだった声が聞こえた。その声の先には銀髪の男の子。器用にも五枚の手裏剣を的のど真ん中に綺麗に収めていた。それはもう見事なものだった。(後日、こっそりと家の前で真似てみたが、そう上手く行くはずもなく、意思を反した手裏剣を探すのにとても苦労することになる。)噂通りの腕前にすっかり見とれていたは割り込んで来た女子に左右から押し出され、尻もちをついた。だが、彼女たちにとってはが尻もちをついたことなどどうでもいいことだ。「あんた邪魔よ」、上級生にそう言われては後ずさるしかない。
、大丈夫?! ちょっと、今押したの誰よ!」
 ツヅリはこうして度々上級生につっかかった。しかし、その声は目の前の彼女たちには全く響いていなかった。差し伸べられた友人の手を取り、が立ち上がるとほぼ同時に授業終了のチャイムが鳴った。
「あーあ、終わっちゃった……」
 誰かの一言に、フェンスを見つめた女子たちの殆どが残念そうにため息をついた。まるでこの世が終わるかのような声だった。一々大げさすぎる。ここにいる女子はいつもそうだ。
「また見に来たらいいのに」
 思わずそう呟くと、知らないの、とツヅリが言った。
「なんのこと?」
「カカシくん、卒業試験受けるらしいよ」
 一瞬、頭が真っ白になった。卒業試験、それに合格すると額当てを貰い、正式に忍者になるということだ。つい今しがた、やっとのことで刺繍の課題を終えたばかりのにとって、それはとてもとても遠いものだった。
「卒業って、まだ一年しか、」
「カカシくんなら一発合格だよ」
と、ツヅリは羨ましそうにため息をついた。そして、もため息をついた。だが、それはツヅリのものとは違っていた。この時のは、先ほどの女子たちと同じであった。

 
 そして、その日の放課後のこと。は今でも鮮明に覚えていた。
 バッグに筆記用具と教科書をしまっていると、一人の女の子が声をかけてきた。同じクラスののはらリンという女の子だった。
「修行?」
「うん。公園でみんなで集まって修行してて、っていうかほとんど遊びだけど。ツヅリちゃんも一緒だよ」
 なぜ、彼女が自分に声をかけようと思ったのかはわからなかった。クラスには自然に出来上がったグループで別れていた。とリンは全く真逆のグループ。彼女たちはきらきらと輝いていた。その中に混ざることなんて考えもしたことがなかった。
 なのに、声をかけられて気づく。
 胸が弾んだ。とても嬉しかった。彼女の華やかさがこちらに移ったかのようだった。
「あの、……」
 絶対に即答するべきことだ。しかし、はそれができなかった。正直に話すべきなのか、それとも何か都合がいいことを言い訳にするべきなのか。どのように返事をするべきか考えていると、横からツヅリがやってきた。
の家、おじいちゃんが大変なんだ」
「そうなの?」
「……うん。だから、ごめんね」
「そうなんだ、じゃあ、また今度ね」
「うん、さよなら」
 この日ほどさよならと手を振るのが残念だったことはなかったかもしれない。「でも、今日は大丈夫だよ」そう言って、混ぜてもらいたい……そう思わないこともなかった。また今度、次は必ず—— 。そう思いながら、手を振った。

「ただいま」
 いつもの時間に家についたが玄関の戸を開けると、母親の返事はなかった。これはにとってごく普通のことだった。任務に出ているか、買い物に出ているかのどちらかである。その代りにドンドンと壁を叩く音がして、は耳を塞いだ。アカデミーから帰ると、その部屋の前を通り過ぎるこの瞬間が恐ろしかった。誰も居ないところで「オレが悪かった」とひたすら謝り続けていたかと思えば、「お前のせいでこうなったんだ!」と怒鳴りつけていたのを何度も目にしていたからだ。祖父が残像を追うようになったのは、数年前。戦争というものがそうさせたのだとの母親は言った。

 そんなこともあって、抜き足差し足忍び足とまるでまじないのように心の中で唱えながら、その前を通り過ぎるのが当たり前になっていた。しかし、どんなにゆっくりと歩いていても、なぜかすぐに気づかれてしまうのだ。そして、「……か?」と、障子の向こうから人影が近寄ってくる。どきどきする心臓を隠してしまえたらどんなにいいだろうかと何度も考えた。そして、小さく頷くと、ゆっくりと障子が開いた。
「じいちゃんと煎餅でも食わんか?」
 障子から顔を出した祖父は壁を叩いていた人とは別人のように柔らかい声をしていた。これもまた、にとっては普通だった。家に誰も居ない時、正気に戻った祖父は時々こうして部屋に入れたがった。母親には一人で祖父の部屋には入っては駄目だと言われていたが、駄目だと言われると興味を引くのが子供心である。恐怖心よりも好奇心が勝っていた。がゆっくりと敷居を跨ぐと、祖父は微笑んだ。
は醤油が好きだったな」
 が小ぶりのちゃぶ台の前に座ると、戸棚からお煎餅が入った紙袋を取り出す。
 そして、「昔々のはるか名もない国の話しをしよう……」そう言って、昔話を始めた。祖父もまた忍であった。その話の随所に若かりし頃の武勇伝が組み込まれている。その話というのがなかなか面白い。昔言葉を聞いていると別の世界を冒険しているような、物語に入り込んだような気分にさせてくれたものだ。実際にはもっと過酷で残酷であったのだろうと後になって思う。話の上手い祖父にすっかり魅了されたは、この時、初めて孫らしいこと—— 忍の孫らしい言葉を口にした。
「ねえ、あのね、おじいちゃん、後でちょっとだけ、ちょっとだけでいいの、おじいちゃんの手裏剣……教えてくれる?」
 恐る恐る言葉にした。初めての頼み事だった。
「お、ええぞ。じいちゃんの手裏剣なぁ」
と、祖父は気を悪くする風でもなく、少しだけ頬を緩めた。上機嫌だった。

 
 しばらくすると、玄関の戸を叩く音がしては慌てて立ち上がった。時々、母親の友人や近所の人が訪ねて来た。きっと母親が心配して様子を見てくれるようにお願いしていたに違いない。
「どちらさんかね……」
「いいよ、私が行ってくる。おじいちゃんはここに居て、絶対だよ!」
 小走りで玄関まで駆けていくと、玄関には母親の友人でもなく、町内会のおばさんでもなく、隣の植木屋の老人でもなかった。の見知らぬ人物が立っていた。
「こんにちは。お母さんはお出かけかな?」
「は、はい」
「そうか」
 そう言って、少し困った顔をしたその人物はふとの後ろに視線を移した。
「ああ、こんにちは。お久しぶりです」
 がはっとして後ろを振り向くと、祖父が立っていた。
「もう少し顔を出せばいいものを」
「すみません、ちょっと立て込んでまして。そういえばうちの子もアカデミーに、」
「あの!」
「え?」
「えっと、私は……」
 とっさに声を張り上げたものの、次の言葉がなかなか浮かばなかった。額に脂汗が滲む。客人の話を遮るのは悪い、そう思ったが、どうしてもその話を続けられなかった。は祖父に言っていなかった。母親も言わなかったと記憶している。壁に向かって「忍者になんかなるもんじゃない!」と怒鳴りつけているのを目にすれば、言えるはずもなかった。あの時のような剣幕でこの客人に怒鳴り始めたら……。そう思うと、どうしたらいいのかにはわからなかった。
 しかし、祖父の言葉は意外なものだった。
「ああ。は立派な医療忍者になるぞ。娘によく似とる」
 祖父はそう言って、の頭を二度撫でた。大きくて手の皮が分厚くて、ごつごつした手だ。
「そうですね、楽しみですよ」
 客人はの顔をみて、微笑んだ。
 とても優しそうな人だった。は父親という存在を知らずに育った。ぼんやりと、こんな人が父親だったら、などと自分の理想を貼り付けそうになっていた時だ。
「あら、」
 その声で誰が来たのかすぐに気づく。いつの間にか、買い物袋を下げた母親が立っていた。
 慌てて後ろを振り返ると既に祖父の姿はなく、部屋の障子が小さく音を立てて閉まった。


「おじいちゃん、また何か変なこと言ってなかった?」
 帰宅後のいつもの一言だ。
 母親は台所に立つと買い物袋から牛乳と豆腐を取り出し、冷蔵庫にそれをしまう。
「うーうん。ふつうだよ」
「そう……」
 そうしていると、またドンドンと壁を叩く音がした。
「まただわ。もう、いい加減にしてよ……」
 ひどく疲れた顔をしていた。そんな母親の顔を見上げるとおやつの催促だと思ったのか、「お煎餅買ってきたから」と居間のテーブルに紙袋を置いた。
、ザラメが好きだったわよね」
 耐油袋に醤油とザラメが三枚ずつ、中身はいつも決まっていた。




 あの当時、こんな日常が当たり前のようにありつづけると思っていた。それらが崩れて、初めて本当の意味を理解する。教科書の例題のように、A地点から敵が襲ってきたら、B地点に速やかに逃げる、という事はできない。それにはB地点に敵の罠があったなどとは書いていない。クナイが無くなったら、負傷したら……。教科書の締めくくりには『想定外な事を予測する能力が必要不可欠である』とあるが、予測することさえもままならない時だってある。

 現実は思うようにいかないことのほうが多いのかもしれない。
 祖父の期待を見事に裏切り、医療忍者とは程遠い所にいる。それが現状だ。あの時はコーヒーなんてまずいものは一生飲むものかと思っていたはずだ。しかし、今は毎日のように口にしている。

 あの忍だって、木ノ葉の暗部に捕まるなんてことは、きっと想定していなかっただろう。
 あの膨大な情報量から見つけることができるのだろうか。他人の過去から本人が隠ぺいしたい過去を引っ張りだすなんてどうかしているとさえ思えてくる。どうかしているのはそもそも自分がここでこんなことをしていることかもしれない—— 。いよいよ煮詰まってきたのか、考えがおかしな方向へ向き始めたようだと感じたは奮起させるように頬を軽く叩いた。


、休憩終わりだ。続きやるぞ」
「はい」
 気がつけばあの忍は持ち場に戻っていて、休憩室は先輩との二人だけになっていた。わずかにたばこの匂いが服に染み付いてしまったらしく、動く度に鼻につく。
 そして、その匂いが母親からもしていたことを、ふとこの瞬間に思い出す。家では仕事の話はしないと決めていたのか、母親が医療忍者であることしかは知らなかった。たばこは害でしかないと言っていた母親からなぜそんな匂いがするのかと勘ぐったこともあった。
 もしかすると、こんな風に息抜きをしながら誰かと話をしていたこともあったのかもしれない。

二、むかし、むかしの話をするならば

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