空蝉-第一章-

 休憩後、記録係へと回ったは黙々と報告を巻物に書き込んでいた。出来上がった巻物に閲覧禁止や閲覧制限など指定の判を捺し、場合によっては封印の札を貼っていく。気がつくと、机の傍らには、何巻あるのかわからない程の巻物の山が出来上がりつつあった。書物しかしていないはずなのに、と思いつつも何度かやり過ごした空腹感はそろそろ限界が近いようだった。時計を見ると、とっくに夕食の時刻は過ぎていて更に空腹感が増した。すると、突然いのいちが作業の手を止めた。

「さすがに肩が凝るな……」
 思い切り背伸びをするいのいちへ期待するものは一つである。しかし、その期待も虚しく、「今夜は残業だ」と言う彼の言葉に皆わかりやすいほどにがっくりと肩を落とした。さすがにしびれを切らしたのか、作業を手伝っていた男が「いのいちさん、少し休憩しましょうよ」と声をかけた。それにつられたように、自分の意思とは関係なく腹の虫が鳴いた。とっさには俯くと、真っ新な巻物を見続けた。誰もこっちを見ていない、そう言い聞かせながら。
「人は空腹時に集中力が増すと言われている。今こそがチャンスだ」
 鬼軍曹。最近、解析班の周りでそう言われているのを彼は知っているだろうか。こんなことを言い出すのはこの男しか居ないだろうとは思った。
「そうか。オレも腹が減ったしな……、マワシ、お前居残ってくれるか?」
「えっ!」
 途端に困った顔をした彼を見て、冗談だといのいちは笑った。
「オレ以外は40分後に集合だ。見張りは暗部に任せる」
 だが、殆ど休憩もせずに作業に没頭していたのはいのいちも同じなのに、とマワシが口を挟んだ。
「いえ、いのいちさんこそ先に休憩を」
 上司を放ってのこのこ休憩をするわけにはいかないという。
「オレはあてがあるからな。気にするな」
 いつの間に届けられていたのだろうか。いのいちの作業台の片隅に、弁当らしき包があった。そして、その上にあるのは花を模した折り紙だ。愛妻弁当と愛娘の手紙—— それはきっと、その辺の兵糧丸なんかよりも効果覿面に違いないとは思った。




「オレ、かけ蕎麦大盛り。は?」
「私はかけ蕎麦の並を」
 時間が時間だ。空いている店は限られている。そんなこともあって、この立ち食い蕎麦屋は情報部の行きつけだった。他の忍が聞いたらなぜ立ち食い蕎麦なのかと思うかもしれないが、特にそこに意味はない。強いて言うなら、早くて安くて太りにくいとか、そんな所が好まれているのかもしれない。ちなみに、が情報部に配属され、始めて連れて行ってもらったのもこの場所だった。空いていたカウンターに入り込んだとマワシはそれぞれ好きなものを選んだ。偶然にも、その隣には先客であるランカがかき揚げを頬張っていた。このランカという男も解析班の一人だ。最近は任務に出ていることが多く、会うのは本当に久しぶりのことだった。彼はよりも二つ下で、来月からは検死担当になる予定で話が進んでいる。久しぶりに会った彼は顎先に髭を生やし、どことなくアスマに似ていた。神経質なマワシとは正反対な印象を受ける。
、元気にしてたか?」
「そこそこ……」
 正直に答えたつもりのだったが、相変わらずシャキッとしない返事だとランカに豪快に笑われた。彼は任務帰りにそのまま立ち寄ったらしく、足元には背嚢が置かれていた。一つ手を焼いている案件があると話すと、彼はたまにはそういうこともある、とあっけらかんとした口調で答えた。
「腹が減ったら集中なんてできないですもんね!」
「まあな……」
 平然と答えるマワシの方を見ると、白飯が運ばれてきた。確か、蕎麦は大盛りを注文していたはずだ。
「マワシさん、空腹時は集中力が増すんじゃないんですか?」
 左側に視線を向けると、メガネを整えながらいう。
「は、腹が減っては戦はできぬと言うだろうが」
 とマワシのやり取りをみたランカがポツリと言った。
「そうですね、鬼軍曹も腹が減ったらただの人ですよね」
「……鬼軍曹?」
「いや、それは何ていうかえーと、なあ?」
「さあ、私には何のことか……」
 火の粉が降りかかる前にと、はとっさに水で喉を潤した。緊張感がある現場を抜け出せば、和気あいあいとしているのが情報部だ。出来上がった蕎麦を啜っていると、酔っぱらいが店のすぐ後ろを通り過ぎていった。そんな酔っ払い達の会話にも聞き耳を立ててしまう。これもすっかり習慣になっていた。
「へー、中華屋のメイメイちゃん婚約するんだ」
 ランカはカウンター越しにおかわりの蕎麦を受け取ると、さっそくネギと天かすをトッピングした。
「あのーマワシ先輩、よく噛んで食べないと腹壊しますよ?」
 ランカのアドバイスはもっともだとは思った。いつも一口30回は噛むべきだと主張するこの男が休むこと無くひたすら蕎麦を食べること……、飲み込むことに専念する様は、若干の恐怖すら感じるほどだった。彼をそうさせてしまう感情、それは嫉妬なのか失恋なのかわからない。恋愛の縺れほどややこしいものはない。

「ご馳走さま」
「あれ、先輩もう戻るんですか?」
 ランカは蕎麦をすすりながら素早く席を立ったマワシを視線で追った。が見た時にはどんぶりはすっかり空になっていた。「ちょっと野暮用だ」と言うマワシの行き先は聞かずともわかる。果たしてこんな時間に彼女が玄関先まで顔を出してくれるのかは……、微妙なところだ。
「中華屋ってこの時間も開いてんのかな?」
 はランカの素朴な疑問に曖昧な返事をし、伸びないうちにと蕎麦を頬張った。二人だけになったカウンター席で先に口を開いたのはランカだった。
「そういえば、昔もっとよく効く自白剤あったよな。あれ使えば早いんじゃないかな」
 突拍子もないことを言い出す彼に、は呆れたように言った。
「それ、随分前から使用禁止だよ?」
「あ、そうだったっけ」
 そんな話をしていると、誰かが蕎麦屋の外を走っていく気配を感じ、は箸の手を止めた。彼もそれに気がついたらしく、外の様子を窺いに出た。警笛は聞こえなかったが、妙だ。
「何かあったのか?」
「さあ……」
 はポケットから小銭入れを取り出した。
「おじさん、ご馳走様でした」
「丁度だな、毎度あり」
 店主がそれを確認するのを見て、はのれんをくぐった。「あ、待て、オレも行く……げっ、こんな時に小銭が」という声が聞こえたが、彼を待っている暇はない。どうせすぐに追い付かれるのだからと先を急いだ。



 情報部へたどり着くまでに数人の忍とすれ違った。皆、医療班だ。
 が作業場へ戻ると、いつもとは違う空気が漂っていた。
「お疲れ様です。何かあったのですか?」
「ああ、……」
 途中で行き先を変更したのだろう。いつの間に戻っていたのか、先に気づいたのはマワシだった。その声で、いのいちはが戻ったことに気づいたらしい。「また、例の件でちょっとな」と言って、いのいちは顎に手をやった。
 ちょっと。本当にちょっとなのだろうか。
 それが本当であれば、この重苦しい空気は何だというのだろう。どうにも腑に落ちないと思いながら、はランカが居ないことに気がついた。途中で呼び出されたのだろうか。だとしたら、行き先はおそらくあそこしかない。そう思ったは出入り口の方を向いた。
「待て、。あっちは、行かないほうがいい」
 マワシの言葉には眉をひそめた。引き止められるようなことをした覚えはなかった。
「あのな、……」
 そう切り出したマワシをいのいちが止めた。「オレが話そう」と言ういのいちの表情はこれまでにない程厳しいものだった。良くない話だとすぐにわかる。だから、ある程度の心構えはしていた。そのつもりだった。

「何、言ってるんですか……」

 いのいちの言葉を聞いたはそう呟いていた。いつの間にか、口の中がからからに乾いていた。いのいちという真面目な人物が冗談でこんなことを言うとは勿論思っていなかった。だが、どうしても納得できない。
 今日の昼、甘ったるいあん団子を頬張る姿を見たではないか。じゃあまたね、と言う言葉もきちんと聞いていた。アカデミーの時から手裏剣を投げるのも得意で術だって覚えるのは早かった。リンと肩を並べる程、くノ一クラスでは輝いていた。それに、休憩室で言っていたではないか。彼女もいわゆる当たり年の忍。しかも、自分と違って優秀な部類だ。その辺の男たちよりも気が強く、少々のことでは弱音を吐くようなくノ一ではなかった。そして、彼女は医療忍者だ。きちんと怪我も治癒できる、医療忍者。なんでも器用にこなす彼女には向いていると思っていた。そんな彼女が、殉職しただなんて、にはとても信じがたく、すぐに受け入れることができなかった。

、おそらく例の事件と関連性があるはずだ。そこで、この件に関しては……——

 ずっしりと重くのしかかるのは、責任か、不甲斐無さか。
 重たく冷たい何かが喉を通り、胃の中へとじわりと流れ込んだ。

 休憩など後回しにしていれば、彼女が里に帰ることができたのだろう。自分がもっと優秀ならば彼女は……。
『じゃ、またね』
 その言葉が、何度もの脳裏で繰り返される。さらりと交わした言葉が、重いものに変わっていく。
 もちろん、にとって人の死は初めてではない。今までにも何人もの仲間を、友達を家族を亡くしてきた。ここにいる全員が経験していることだ。だが、今回ばかりは少し違っていた。家族を亡くした時とはまた違う気持ちだった。
 —— 私にはツヅリがいるから大丈夫。
 そんな曖昧な安心感を勝手に抱いていたのだと気づく。
 永遠につづくことなどない。それを知っているはずなのに……。

、聞いてるのか?」
 ああそうだ、ここは……。
 気がつくと、マワシはどこか心配そうな顔をしていた。他の忍達は目が合わないようにと気を配っているようだった。すみません、と呟くと、思いもよらない言葉を耳にすることになる。

は今から検死の記録を取れ」

 もう、忍者になりたての子供ではないのだ、一々傷心している場合ではない。そう言われているようだった。泣いている暇も無ければ一人で落ち込んでいる時間もないのだと。
「死んだ者にしてやれることは少ない。だが、何もないわけじゃない。今、自分にできることを考えるんだ」
 そう言い切ったいのいちに対し、口を挟んだのはマワシだった。
「しかし、何もでなくとも……なんならオレが、」
「それでは意味がないと言ってるんだ。わかるだろう」
「それは……」
 いのいちは正論を言っている。マワシもそう理解したらしく、口を噤んだ。
 あの厳しい先輩が、自分のことを気にかけてくれている。それだけで、もう十分だとは思った。
 いつかは通る道だと、ここに来た時に告げられていた。数年前の初日、そうか、この部署はそういうところだもんね。と、なんとなく納得してしまったことを後悔する。

三、誰かの他人事

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