空蝉-第一章-

 演習場で日課のトレーニングに精を出しているその男は額から大量の汗を流していた。幾度となく顎から雫が垂れ、地面に吸い込まれていく。これは今に始まったことではない。昔から体力づくりには余念がなく、努力と努力をかけ合わせたような、そんな人物だった。この原動力は一体どこからやってくるのだろうと考えながら、は邪魔をしないようにと隅の方でその様子を見ていた。
 それから、ちょうど300回目の腕立て伏せが終わる頃、の手のひらを見た男はようやく動きを止めたのだった。
 そして、
「それはアスマのじゃないか?」
 カカシがライターを持っているところなんて見たこと無いと不思議そうにそれを見つめた。


 あの後、ライターを返しそびれたは暗部まで行くしかない、何度もそう思ったが、どうにも足が向かなかった。そこで思い浮かんだのはガイだった。彼ならいつも会っているだろう。そう思って、こうして演習場までやってきたのだった。
 なのに、持ち主は全く別の人物だったのだ。知っていればその日の内に本当の持ち主に返していたのに。そういえば、最近タバコを吸い始めたと言っていたような気がする。きっと、ライターがないと困るに違いない。
「アスマ、今日は任務かな? どこに居るか知ってる?」
「アスマならおそらく団子屋に居るはずだ。行ってみるといい」
 が礼を言い終わる頃、ガイは次のトレーニングに取り掛かっていた。
 彼にとってカカシは永遠のライバルだと宣言したのはいつだったか。今でも暇さえあれば勝負を持ちかけていると聞く。その根性と精神力は感服ものである。彼を見ていると、自分の滑稽さがひどく目立つとは思った。何しろ、ライター一つ返すのにこんなにも遠回りしているのだから。
 
 さっそく行き先を変更し、は団子屋を目指した。子供たち御用達の駄菓子屋、アカデミーの前、そして、ちょうど金物屋を通り過ぎた時だった。目的地の団子屋を目前に、一組の男女がこちらに向かって歩いて来た。先に気づいたのは左側、くノ一の方だった。
、 心配したのよ」
「あの、ごめんね、ちょっと色々あって……あ、アスマ。これ、ありがとう」
 ないと困るだろうと思って、とそれを差し出すと、彼は笑いながらポケットから新しいライターを取り出した。予備を持っていたらしい。
「そのためにわざわざ走ってきたのか」
 何事かと思ったと笑うアスマの様子を紅が不思議そうに見つめた。
「それ、どうしてが持ってるの?」
「これはその、……」
 思わずが押し黙ると、「色々あるんだよ」と言いながらアスマはタバコに火をつけた。そして、ポケットに予備のそれをしまいながら、が持っているものを受け取ろうと手を伸ばす。しかし、何か思い立ったかのように急にその手を止め、何も手にすることなくポケットに突っ込んだ。
「悪いが、。そっちはカカシに返してくれ」
「え、どうして?」
「オレが借したのはカカシだからな。借りた本人が返しにこないのは変だろう?」
 借りた奴がどう使おうが知ったことではない、とアスマはいう。
「でも、……」
 持ち主を目の前に、は手のひらのライターを見つめた。カカシが普段どこに居るのか知りもしないはどうするべきか悩んだ。直接家に行ってみるべきだろうか。いや、もしかすると夜勤明けで寝ているかもしれない。寝ているところを他人に起こされるほど嫌なものはないだろう。それがアスマや、ガイであれば多少はマシかもしれないが。いきなり自分のようなほぼ初対面の女が来たら、玄関ののぞき穴を見た瞬間にため息が出るに違いない。またこいつか、そう思われるのではないかとは思った。それ以前に、カカシがどの辺りに住んでいるのかも知らなかった。もちろん、夜勤明けなのか、任務に出ているのか、それすらもわからない—— 知るはずのないことだった。

 黙り込んだに気を遣ったのだろうか。アスマは「こんなところで立ち話するよりいいだろう。一緒にどうだ?」と、団子屋に視線を向けながら言った。それにつられるように、は壁側のメニュー表に視線を向けた。何度も目にしていたはずのそれが急に懐かしく思えてくる。無意識に彼女の特等席に目を向けてしまう。そんなに気づいたのは紅だった。「アスマ、」と紅がアスマの肩を小突くと、はっとした顔をすると視線を泳がせた。

「ありがとう。……でも今日は持って帰ろうかな。寄りたいところがあるから」
「……そうか」

 カウンターへ向かったは店主に言った。
「すみません、あん団子と三色団子二本ずつください」


 アスマと紅と分かれたが向かったのは慰霊碑のある墓地だった。ツヅリの墓には真新しいユリの花があった。そして、それはもう一箇所、同じものが供えられていた。
 はその墓が誰のものかを知っていた。彼女の死も早すぎるもので、当時の衝撃は未だに忘れられないものだった。それと同時に、様々な噂が纏わり付いていたのを思い出す。イトとナタネが忍を辞めたのはちょうどこの頃だ。親が辞めさせたがっていたと聞いたが、果たして本当にそれだけの理由であったのか、わからない。の家族は忍だったこともある。仕事を通じて訃報を知った母親は「大変だったわね」と呟くだけに留まった。そして、私達の世界はそういう場所なのよと囁いた。忍を辞める選択肢など初めから用意されてはいなかった。それに、自分自身辞めようと思うこともなかった。それ以外の選択肢があること自体、思い浮かばなかったのだ。世の中には忍以外で飲食店や商店、病院など様々な仕事があるのにまったく考えもしていなかった。

 その墓石は綺麗に磨かれていて、まだ水で濡れていた。きっと彼女の家族が来たのだろう。完全に入れ違いに来てしまったらしく、墓地には人の気配がまるで感じられなかった。
 は墓石の前にそれを供えた。一方にはあん団子を。そして、もう一方には三色団子を。もしもあの世で二人が合っていたならば、などと想像をしながら。
「あのね、」
と、呟いて口をつぐんだ。
 誰もいない墓地はあまりにも殺風景だった。
 最後に母親の眠る墓に手を合わせると、はその場を後にした。



 情報部の建物はいつもと変わりないものだった。巻物の整理をしたり、記録を取ったり、任務に出ていた忍が持ち帰った情報を精査し、他のそれと照らし合わせる。そんな日々だ。彼らにとって、一人のくノ一の死というのは昨日の一案件に過ぎないのだと改めて思い知る。

「おはようございます」
 はいつも通り、作業場の忍達に挨拶をした。
「早いじゃないか。今日は午後からだろ?」
 こちらに気がついたいのいちが声をかけてきた。時刻は正午前。極端に早すぎるというわけではない。
「用事があったので。何かお手伝いできることはありませんか?」
 の申し出にいのいちは、それならばと巻物を保管している倉庫に視線を向けた。どうやら、今日は巻物整理をする番らしく、倉庫の出入り口にはいくつもの巻物が手付かずのまま転がっていた。
「すまんな。昨日色々引っ張り出したせいであの有様だ」
「承知しました」
 淡々と答えると、いのいちから何とも言えない視線を感じたは黙って続きの言葉を待っていた。しかし、思うように考えがまとまらなかったのか、「何かあったらすぐに言うんだぞ」といつも通りの言葉が投げかけられ、はそれに頷き、返事をするのみだった。

 が巻物整理に取り掛かる寸前、作業場に一人の男が入ってきた。それを見て、はそちらへ足を向けた。いつもは作業をしながら「お疲れ様です」とぼそっと言うくらいなもので、世間話をするどころか挨拶すらまともにすることはない。しかし、今日ばかりは無視できなかった。声をかけなければならない理由がある。ポケットに入っている物を忘れたわけではない。

「イビキさん」
 まさか話しかけてくるとは思いもしなかったらしく、彼はが見てわかるほどの疑問を浮かべていた。
「用があるなら早くしてくれ」
 そうは言っても、ただでさえ強面の男が眉間に皺を寄せながら「なんだ」と言えば、誰だって萎縮するものではないだろうか。
「カ、カカシさんの、任務予定……知りませんか?」
 この時、は一大決心でもしたかのような心境だった。いきなり他人の所在を聞くなど失礼かもしれない。だが、知っていそうな人物が他に思い当たらなかった。暗部のことは暗部の者に聞くのが確実だ。
「カカシか」
 イビキはそう呟くとさらり言った。
「知らんな」
「え、」
「さすがに他の隊、しかも個人的なことを知るわけがないだろう。知っていても余程のことでなければ答えられん」
「そんな……」
「因みにだが、他の者に聞いたとしても答えは変わらん。どうしてもと言うのなら、火影に直接聞いてみることだな」
 そう言い残すと、イビキはいのいちの元へ向かっていった。イビキの言い方だと、一昨日の夜、玄関先でカカシの所在を教えてくれたのは運が良かっただけであり、その忍がたまたま親切にしてくれただけということになる。

 はため息をつき、保管庫の扉を開けると出しっぱなしになっていた巻物を全て中に入れ始めた。考えてもどうにもならないことばかり考える。そんな時、巻物整理は好都合だった。一人無心になれるからだ。は巻物を肩幅程に開き、日付と書き出しを確認し、一つ一つ分類箱に戻していく。時折防虫剤の薬草の匂いがする物もあった。ずいぶんと古いものだった。こんなものを引っ張りだして、一体いのいちは何を調べようとしていたのだろう。そう思いはしたが、考えるべきことではないと言い聞かせた。
 その作業も、半分ほどが終わった時だ。一つの巻物に目を奪われた。とても丁寧な文字で書かれている。記入者は知らない忍だった。判は四代目火影とある。四代目火影の判がある巻物は少なく、期間は限られている。それが五、六年前のものと知り、少なからず興味を抱いたのは確かだ。だが——

『のはらリン』

 この文字を見なければ、きっとこの巻物をすべて広げてみることはなかっただろう。




、オレも加勢するぞ」
 マワシの声では慌ててその巻物に封をして、分類棚に戻した。
「私一人でも大丈夫ですよ」
「先輩の申し出は素直に受けるもんだ」
 そう言いながら、マワシはの隣に付いた。いつもはこんなことをするようなタイプではない。辛いことでも一人でやってこそ一人前だと思っているような人だ。
「もしかして……、暇なんですか?」
 思わずそう呟くと、あのな〜といつもの口調で続けた。
「せっかくオレが……まあ、いいか」
と、ため息をついて巻物を広げ始める。さすがに二人で始めると早いもので、巻物の山はみるみる減っていく。最後に残った大きな巻物を転がしている時だった。不意にマワシが口を開いたのは。
「いのいちさんはに甘いって言ったけど……、あれは間違いだったな」
と、ぼそっと呟いたのだ。
 手を止めてマワシの方をみると、すぐになんでもないと言って腕いっぱいに巻物を抱え込んだ。
「そういえば、あの検死担当のくノ一がのことを医療班に引き抜きたがっていたが……」
 突然の話には思い切り巻物を取り落とした。ころころと床を転がる巻物を中腰で追いかけながら、は冷静なふりをした。
「どうしてそんなことを……?」
「さあな。いのいちさんは即刻断っていたけどな。どこもかしこも人手不足ってことだろう」
 さっき会った時はそんなこと全く言っていなかったのに、とは思った。きっと、そのことを聞いて気持ちが揺らいだら困ると思ったのかもしれない。
「ってか、医療忍者目指してたらはじめからここに来るわけないよな?」
「……そうですよ。マワシさんの言うとおりです」
 マワシは一瞬の方を見つめた。
 そして、そうだよな、と珍しく笑みをみせた。

五、知らないこと

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