空蝉-第一章-

 その日の深夜、が帰宅すると玄関の郵便受けには一通の手紙が入っていた。見慣れない文字だ。何となく感じる違和感は何なのか。
—— 誰からだろう
 何気なく裏面を見たはそれを落としてしまいそうになった。

 デスクライトを点けるとは一番上の引き出しに手をつけた。ハサミを取り出し、二、三度ほど封筒の端を机の上で軽く叩く。封筒の端に刃先を向けたものの、これを開封するべきなのかと思う。送り主の名を目にした時から、それが喜ばしいものではないことくらいはわかるからだ。
 見てみたいという気持ちとそうでない気持ちが交互に打ち寄せ、手元をもたつかせた。もしも、これが今すぐ見なければならないものだったら。そう思いながらハサミを握るが、封筒に触れては離しを繰り返した。
 そして、意を決したように、ざっくりとハサミを入れたのだった。


 —— と始まったそれは、とても繊細な字をしていた。その内容は至って短いものだった。便箋の白い部分がやけに目立っている。

“ 娘が大変お世話になりました。
今までのご縁に感謝します。"

 そう、書きつづられていた。
 それだけだった。
 それだけだったのに、随分と気分を落ち込ませた。

 この余白に、沢山の思いが詰まっているのだろう。そう思うと、しばらくそれから目を離すことができなかった。という存在を誰から聞いたのか。わざわざ手紙を書いたのは、親心からなるものだろうか。筆圧の跡がデスクライトの光で浮かび上がる。目を凝らすと、『様』だけが重複しているように見えた。きっと、何度も書き直したに違いない。自分がどんな顔をして会うべきか悩んでいたのと同じように、きっと……。はそれを封筒にしまうと、ポケットのライターを重し代わりにし、そっと机の上に置いた。

 熱めのシャワーを浴びて、ベッドに寝転んだは天井を見つめた。不規則な木目はいつもと同じ模様をしている。その中に、一箇所だけ、濃いシミが残っていた。がこのアパートに入居する前から存在する雨漏りの跡だ。不思議なもので、それらの模様はいつもと変わらないはずなのに、時々違って見えた。人の顔が笑っているような気がしたかと思えば、泣いているようにも見える。
 今は、泣いているのか怒っているのか、なんとも言えない顔に見える。と言ってもこれはただのシミ。ころころと変わるのはおかしなことだ。
 机の上に視線を向け、は小さく息をついた。



 翌朝、は木ノ葉の街中から少し離れた場所に足を向けていた。左手には昨晩の白い封筒を手にして。
 いくつも並ぶ木造アパートは数年前に新しく建て直されたものだ。尾獣が、九尾が街を襲った事件の後である。ようやく戦争に区切りがつく、そんな時に起こったあの事件は数え切れないほどの爪痕を残した。木ノ葉の里に住まう者にとっては忘れたくても忘れられない事件である。
 その比較的新しいアパートを通り過ぎたその先。そこがこの封筒に記された住所であるようだった。それらしい建物を探すのに苦労していると、運良くアパートから一人の女性が出てきた。今から買い物に出かけるのか、竹編みの買い物籠を手にしていた。
「すみません、この住所はあちらで間違いないでしょうか」
 アパートに挟まれた細い脇道に視線を向けると、「あなた、やなださん家に、……」と言って、その女性は口を閉ざした。頭の先からつま先まで見られていた。まるで品定めでもしているかのような視線だ。
「そうだけど……私、忙しいのよ。もういいわよね」
「あ、はい。ありがとうございました」
 がそう言い終わるや否や、その女性はそそくさとの元を去っていった。
 おそらくずっと昔からある道なのだろう。アパートの前とそこでは土の感触が違っていた。アパートの間の地図にもない脇道。その奥が封筒に書かれていた住所だった。その道には雑草が生い茂っていたが、人が踏みしめた土の部分だけが固く平になっていて、少しだけ地面が顔を出していた。そこを一歩一歩踏みしめるように、はその先を目指した。

 外観はずいぶんと年季が入っていた。しかし、それ以上にもっと古びてみえる。屋根瓦の隙間からは草が生え、雨樋はひび割れ、留め具が垂れ下がっているところがあった。当然、チャイムはない。が玄関の戸を軽く叩くと、ガタッと木枠にガラスが当たる音がした。ガラスが外れるのではないかとはらはらした。

「御免下さい」
 の声はその場所で虚しく響いた。何度か戸を叩くが、返事もなければ人の気配すらしなかった。留守にしているのか。そもそも、本当にここで合っているのだろうか。あの女性の雰囲気を思い出し、もしや、と考えた時だった。

「もしかして、うちに用か?」

 振り向くと、くわと手ぬぐいを手にした中年の男が立っていた。



「本当は解体しないといけないんだけど、どうにも手が回らないもんで」
 その男こそ、ツヅリの父だった。忍を辞めてからは、空いた土地で作物を作っているらしい。農家と言ってはおこがましいくらいだと控えめながらも笑みを見せた。何も無いのだけれど、と言いながら、突然やってきたに煎餅とお茶を出してもてなしてくれた。
 ツヅリの家はあの古い家ではなく、その裏の平屋だった。空き家はツヅリの祖父母の家だという。通りで生活感がないはずだ。
さんね、まさかこんな辺鄙な所まで来てもらえるなんてね」
と、しみじみと呟いた。
「遅くなって、すみません。それに、」
「いや、忍っていうのはそんなもの……」
 ハンカチかティッシュか、そんなことを呟きながら、ツヅリの父はおろおろと部屋の中を見回した。何もここで泣く必要はないと思うが、勝手に出てくるのだから止めようがない。怒鳴られた方がきっとまだ良かったかもしれない。こんなに優しくされるとは全く思いもしていなかったのだ。いい歳をしてみっともない姿を晒してしまったとは恥ずかしく思った。

「娘が、君のことをよく話してくれて……。そう言えば、この前の墓の団子とユリの花はさんが?」
「あ、お団子はそうですが、ユリは他の方が……」
 ツヅリの父は一瞬意外そうな顔をしたが、すぐにありがとうと呟いた。話を聞くと、戦争では足を悪くしたらしく、あの墓地に毎日というのはなかなか難しいらしい。
「色々、ツヅリから聞いていたんだよ。それで、手紙をね……」
 筆無精だからと言いつつ、窓辺に向けられた視線は悲しげなものに変わっていった。畑に行ったのも、体を動かしていないと妙な考えばかりが浮かぶのだという。
「俺だけ、残っちまったよ……」
 小さな庭の見える縁側を見つめたまま、幻影でも見ているかのようにぽつりと言った。本音を吐露したことにも気づいていないようだった。
 も一人だった。だが、それなりに順相応だった。一人だけ残ったという思いは理解できたとしても、先立たれた気持ちというのは一生理解できない。上辺だけなら言えるかもしれないが、本当の意味でかけるべき言葉はみつからないのだろう……。


「よかったら、持っていってくれないかな」
 玄関で靴を履いているにツヅリの父が差し出したのは忍具だった。
「でもこれ、新品じゃないですか?」
「錆びさせるのも職人さんに悪い気がして。あっても悪いもんじゃないだろう」
 もうこの家では使う者もいないからと少し寂しげに言った。
「……では、ありがたく頂戴します」
 はそれをバッグにしまった。見送りは遠慮すると言ったにもかかわらず、わざわざ玄関の外まで出てきてくれた。
「では、失礼します」
 一礼し、その場を後にする。しばらくすると、がらがらと玄関の戸音がしたのを耳にし、は歩き出した。


「ちょっと、あんた」
 その声には歩みを止めた。見知らぬ老人が服を引っ張っていたのだ。
「どうしました?」
「あんた、やなださんに言ってくれんかね。町内会費、払ってくれって」
「えっと、町内会費……ですか?」
「みんな払っておるのに、あそこだけ払っとらんのじゃ」
 町内会費と言われても、この辺りの事情など知りもしないは困った。
「ちなみに、おいくらですか?」
「五十両」
「五十両?」
 確か、この辺りは災害指定地区だ。火影の計らいで様々なことが免除されているという話を聞いていた。それなのに、町内会費くらいで五十両は高すぎるのではないだろうか。が住んでいるアパートでさえ十両だというのに。自分のところが安すぎるのだろうか。それに、あんなしっかりした人が町内会費を払わないというのもなんだか不自然である。だが、詳しい事はわからない上に、自分がツヅリの父にそんなことを言う立場にもない。
—— 仕方ない
 はポケットに手を入れた。

「おばあさん。町内会費って、月に何回も集金するもんなんですか?」
 優しげに語りかける男の言葉には思わず呟いた。
「何回も?」
 すると老婆はふてくされたような顔をしてアパートの中に入っていった。がここについた時といい、この辺りは少々妙な雰囲気をしている。
「どうやら嫌われ者らしいな、オレ達は」
 ライドウは辺りの様子を見回した。同じようにも様子を窺うと、とあるアパートの一室のカーテンが揺れた。
「オレも同じこと言われたんだよ」
 因みに彼の時は三十両と言われたらしい。この小娘ならきっと出すと思ったようだ。
「ライドウさんも、ツヅリの実家に?」
 まあな、という声は寂しげだった。昔、ツヅリの父にお世話になったらしく、この町には任務の帰りに様子を見に立ち寄ったのだという。あの老婆に話しかけられている所を見られたのは偶然のようだった。
「ここはな、元はのどかな町だったんだ。小さいながらも商店があったりしてな。里の外へも近い、出稼ぎに出ていた者もいたようだ。数年前の事件で、家も商売道具も全部無くなって、家族も」
「でもそれは、……」
「ああ。大勢の人が死んだ。だが、一般人と忍じゃ違う。大事な稼ぎ頭を失った家も多い。あんなものが無ければってところだろう」
 ライドウはため息をついた。
「やなださんのところは、昔はそれは慕われてたらしい。この辺じゃ珍しい忍家系だからな。だが今は……」
 運がいいのか、悪いのか。あの家だけ被害に免れたことを、忍だからなにか特別なことをしていたんだと思い込んでいるのだという。
「そんなこと、私には一言も、」
「おじさんが引っ越さないのは、責任感かもな」
 ライドウはそう言って口を閉ざした。
 里の中心部に向かうべくその町を歩いていると、眼の前を過ったと思った人影はすっと目の前に立ちはだかった。暗部の忍だ。
「よお、お疲れ。どうした?」
 ライドウがその忍に声を掛けると、の方を見て、早く戻れと呟いた。は訳がわからず、その忍を見つめた。しかし、そうしたところで面に隠されたその表情は読み取ることはできず、ライドウと同じように疑問を投げかけるしかなかった。
「捜索願が出ている」
 ライドウが誰だと問うと、その忍は無言でこちらを見つめたのだった。


 が慌てて火影室に向かうと、すみませんと頭を下げているいのいちとマワシの姿があった。
 事の発端はの家にマワシが出向いたこと。別件でのアパートまでやってきたマワシはがいないことに気がついたらしい。どうせ団子屋まで出かけているのだろう、そう思ったようだ。しかし、団子屋の店主も見かけていないという。仕方なく、今度は紅に聞いたようだが彼女も知らないという。そもそも昨日から全く見ていないというものだから、マワシは焦った。何しろ、一昨日の今日である。ただ、早とちりというのが彼だけならばまだよかったのだが、心配していたのは彼だけではなかった。もしかしてがおそらくに変わり、きっとそうだと考える。人間の思い込みは些細なことから始まる。

「まったく、心配性じゃな」
 三代目火影はやや呆れた視線を彼らに向け、ふーとため息をつくように息を吐いた。三代目が煙管の先を灰吹きに向け、燃え尽きたそれを落とす様を、は無意識に見つめた。心配性と言うより、ただ生真面目なだけなのではないだろうか。
 失踪なんてするわけないのに……。
 が二人の様子を盗み見ると、ただただ苦笑いを浮かべていた。

「しかし、なにも暗部に言う必要はなかったのではないでしょうか?」
 こんな事くらいで大げさだと言うと、いのいちは何のことだと言いたげな表情を浮かべた。
「いや、さすがに暗部には言っていない……、」
 いのいちの言葉はそこで途切れ、咳払いをした。思った以上に噂になってしまったのだと悟ったようだった。
 がため息を漏らすと、二人はひそひそと話し始めた。どうやら怒ったと思っているようだ。上忍全員に“が失踪した可能性がある”という情報を流してしまったらそう思うのは無理もない。訂正を流したところで、噂前に戻れるのかと言えば微妙なところである。世間は狭いものだ。あっという間に広まったそれは尾ひれがついているに違いないとは思った。


 それよりも、気になるのはあの町民の様子だった。あの事を火影は知っているのだろうか。
 彼女は、あんな事になっていることを知っていたのだろうか……。
 そんな疑問がの中で渦巻いていた。

六、思うこと

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