空蝉-第一章-

 非番のその日、暇を持て余すようにベッドに寝転がっていると、珍しく家の呼び鈴が鳴った。慌てて起き上がったものの、いつもの客人が来ることはないのだと思うと、急にどうでも良くなり鍵を開けるのをためらった。このアパートに誰かが来るというのは、任務か連絡事項のみだ。またマワシが心配してやってきたのだろうか、とも思ったが、彼は今作業場に居ることになっている。電気代も水道代もすべて先週支払ったばかり。思い当たる節はなく、来客を予想するのは困難だった。久しぶりにのぞき穴を見つめると、埃がついているのか曇っていてぼんやりとした姿しか見えなかった。そうこうしているうちに、また呼び鈴がなり、はゆっくりと鍵を開けた。
 恐る恐るドアを開けると、少し癖のある長い髪が目に留まった。

「こんばんは。居るなら返事くらいしてくれてもいいじゃない」
 玄関先に立っていたのは紅だった。彼女がここに来るのは初めてだった。驚きと戸惑いの入り混じった眼差しを向けると、「上がらせてもらってもいいかしら」と紅は言った。もちろん、そう言いかけて、は自分の格好を思い出す。紅はいつも身奇麗にしていて、とても女性らしかった。元々美人なこともあり、リップを塗っているだけで華やかに見える。は部屋着のまま玄関先に立ったことを少しだけ後悔した。

「この場所、誰から聞いたの?」
 いつもなら、適当に座ってと言いながら紅茶を出すのだが、今日は違う。もしもの客人用として買っていた少し良いコーヒーを戸棚から取り出し、慣れた手付きでドリップポットを火にかけた。
「いつだったか、ツヅリから聞いたのを思い出したの」
「そうだったんだ……」
 この部屋にはベッドと机、小さなテーブル、カーテンも無地で、窓辺にも可愛らしい物は何一つ無かった。そんな殺風景な部屋には勿体無いくらいのコーヒー豆のいい香りが漂っている。小さなテーブルには滅多に使わないコーヒーカップといつものマグカップが並んだ。まさか、紅がこの部屋に来るとは思いもしていなかった。彼女とはそこそこ話をするが、それは外で会った時や上忍待機室でタイミングよく出会った時。と言っても、が上忍になったのは一年ほど前。紅は大抵アスマ達と行動を共にしているようだったし、で別の交友関係を持っていた。と言っても数えられる程だが……。最近は色々な人と会い、色々な人がやってくる……。

「もしかして、何かあったの?」
 彼女がわざわざここにやってくるのだから。はそう考えていた。
「特に何も無いわよ。どうしてるのかと思って」
 最近、団子屋でも見かけないから、と紅はコーヒーを口にした。は曖昧に返事をし、マグカップを手にとった。あの日以降、あの場所には足が遠退いていた。いや、遠退いていたのではなく、避けていたと言ったほうが正しい。
はコーヒーが好きなの?」
「そういうことでもないけど、どうして?」
「だって、ドリップポットなんて珍しいと思って」
 それもそうか、とは心の中で呟いた。ツヅリは紅茶を好んで飲んでいた。そのため、彼女が来た時はいつも紅茶を出していた。誰かの前でそのポットを使う事はなかった。言われてみれば、飲まない人は全く必要のないものだ。一人暮らしなら尚の事、普通のポットで十分だと思うはずだ。
「これ、母親が使ってたものなの」
「そうだったの、お母様がね……」
 紅はどこか懐かしむように、年季の入ったそれを見つめた。


「そうそう、最近、商店街に美味しいご飯屋ができたんですって」
 知らなかったとは言いながら、またひと口コーヒーを口にした。大抵この手の話はツヅリが持ってきていた。どこそこに定食屋ができた、新しい忍服が可愛い、そんな類のことを、会う度に話していた気がする。とても楽しそうにしていた。

 あの日から、数日しか経っていないような気がするが、実際には二週間以上経っていた。彼女の実家を訪れてから、いつもと変わらない日々を淡々とこなしていた。相変わらず解析班の担当は決まらず、最近は書物ばかりしている。というより、それしかさせてもらえない。以前よりも作業に単調さが増したと感じるのはきっと気の所為ではない。余計な情報に触れさせないかのようにしている、そう感じることがある。


「よかったら一緒に行ってみない?」
「え?」
 一瞬、ツヅリが言ったかのように錯覚した。彼女もよく言っていた。たった今紅が言ったように、誘ってくれていたからだ。紅はそれを知っているのかもしれないとは思った。
「たまには、息抜きも必要でしょう?」
 赤い瞳にじっと見つめられると、行かないとは言えず、は諦めたようにそうかもねと呟いた。


 身支度を整え、アパートを出る頃にはそこそこいい時間になっていた。
 住宅街を歩いていると、醤油やガーリック、揚げ物の香ばしい匂いが漂っていた。台所では一生懸命ご飯を作る人影が見える。「ご飯よ」と子供に声をかける母親の声、遅くなったと焦った様子で走っていく子どもたち。カチャカチャと食器を取り出す音。団らんの中の笑い声。この時間は人々の日常がよくわかる時間でもあった。

は普段どこに食べに行くの?」
「私は立ち食い蕎麦」
「そうなの? ちょっと意外ね」
 情報部はいつもそうで、行きつけの店があるのだと教えると、初めて知ったと紅は楽しそうだった。彼女には立ち食い蕎麦は似合わないとなんとなく思っていたが、の印象とは裏腹に、紅はいきいきとした目をして、今度そこに連れて行ってほしいという。
「まって、立ち食いだよ? 普通のお蕎麦屋さんじゃなくて」
 こんな美人が立ち食いそばだなんて、と言いかけたのをなんとか抑えた。
「ええ。もちろん知ってるわ」
 は立ち食い蕎麦屋を想像した。出汁の香りと麺を茹でる湯気が立ち込めるカウンターで蕎麦をすする常連客の姿を思い浮かべた。無愛想な店主、がたいのいい男たち、飲みのシメなのか酒の匂いを漂わせ、ガハハと下品に笑う男たちの姿が浮かぶ。
「本当に行ってみたい? おじさんとむさ苦しい男たちしかいないのに」
「むさ苦しいのはいつものことじゃない」
と、紅はくすくす笑った。



 戦争が長引いたことで、里の商店街は一時期閑散としてしまったことがあった。里の外は治安が悪く、仕入れも慎重にならざる得なかったからだ。それに加えて戦争で忍が出払っていたのをいいことに、金目の物や大事な商売道具を盗む者まで現れた。そんなごたごたに耐えきれなくなり、なくなく閉店する店舗も少なくなかった。それから数年。ようやく里が落ち着き始めたからか、最近は新しく店を構えようとする人々が増え始めていた。
 この辺りの人たちは忍に対してとてもよくしてくれる。忍が店にうろうろしていると、いくらか防犯に役立つと言っていた。それに、一番は金を落としていく大事な客でもある。
 だから、ツヅリが住んでいたあの町の人たちの言動がには信じられなかった。


 それはもうすぐ目当ての場所にたどり着く、そんな時だった。店から出てきた二人組を目にし、は思わず足を止めた。
「どうしたの?」
「あ、うん、……」
 紅はあの時の事を知らない。どうしたものかとは思案した。店から出てきたのはイトとナタネだったのだ。は彼女たちがこちらに気づかずに反対に足を進めてくれないだろうかと願った。まだこちらに気づいていないのか、「美味しかったね」と楽しそうに感想を言い合っていた。だが、そう都合よく事は運ばず、の予想した展開がまっていた。先に気づいたのはナタネの方だった。ねぇ、ちょっと、と隣の友人にヒソヒソと耳打ちをした。一瞬、ちらりとこちらを見られた気がした。
「紅、久しぶり! この前ぶりだね」
「え、ああ、そうね」
 の方を見ることもなく、イトは明るく話しかけてきた。一言二言、世間話をしていた。特に何か話そうとも思えず、彼女たちの気がすむまで待っていようとは決めた。すると、わざとらしい声でイトがいう。
「あ、は来なかったもんね」
 彼女は眼の前のくノ一には返す言葉もないということをきちんと理解している。
「紅も忙しそうだね、この前あうんの門で見かけたんだよ?」
「そうだったの? 知らなかったわ」
 普通に受け答えをする紅をみていると、なんだか惨めな気持ちになってきた。だが、それは彼女たちの目論見であると理解している手前、はむっとすることもショックを受けた顔もできず、すました顔を演じなければならなかった。
は里の中に居るんだっけ?」
 そんなの心中を察しているのか、イトはこれ見よがしにそう言った。
「……うん」
「そっかー、じゃあ、は紅程じゃないよね」
と言ってけらけらと笑った。
 さすがに紅も妙だと思い始めたらしく、少しだけ眉をひそめた。だが、二人は切り上げるのも早かった。
「じゃあ、紅、またね」
 二人はひらひらと手を振った。最後の最後まで、彼女たちがこちらを見ることはなかった。紅はひそひそと話している二人の後ろ姿を視界の片隅に捉えたまま、感じが悪くなったわね、あの子達と囁く。
「ひょっとして、あの二人と何かあったの?」
「特に何も……」
「でもあの感じ、」
 すると、紅の言葉を遮るように、ぱっと華やいだ声が聞こえた。前を見ると、どういう巡りあわせなのか、赤い欄干の橋の上と同じように、あの二人がこちらに向かって来ていた。
「カカシくん、久しぶり!」
と、さっきとはまるで違う態度で二人はカカシに話しかけた。今、自分たちは何をしていて、今からどこに行くのかなどとそんな風な内容を話しているようだった。カカシは黙って二人の話に耳を傾けていて、その一歩後ろでガイが何か言いたそうにタイミングを見ているようだった。そんな二人を見て、紅は何かを察したようにうんざりした顔をする。

 彼女たちを見ていると、アカデミー時代、グラウンドに集まっていた時の事を思い出す。遠目で見ていたあの時とは違って、今はああして話しかけるタイミングだってある。何をしても自由だ。彼女たちは下忍になって間もなく忍を辞めた。だから、きっと数年前の噂すら知らないのだろうとは思った。あのガイでさえ、一時期は彼と距離があった事実も。だってすべてを知っていたわけではないが、それくらいは知っていた。だからこそ、安易に話しかけようと思えないのかもしれない。随分と雰囲気が違うことも、彼女たちは落ち着いているかっこいい人と思っているのかもしれない。だが、これはあくまでも想像……。そんなことを考えていると、一緒にお茶でもしないかと話しているのが聞こえてくる。やりとりを耳にし、何とも言えない気持ちがこみ上げてくる。自分には関係の無いことだから、と言い聞かせた。それでも、なんとなくその様子が気になって、つい、盗み見てしまった。

「オレたちと一緒にね……」
「もちろん、無理ならいいの!」
 たまたまここで会ったのも何かの縁っていうか、と、彼女たちは熱っぽい視線を向けていた。そんな二人をカカシはただじっと見ていて、ふーん、と呟く。それだけでも彼女たちの気持ちを高ぶらせているようだった。「でも、」と言うカカシの言葉にすら気づいたのかわからない。
「前、言ってなかったけ」
「前に?」
 ナタネは私、カカシくんになにか言ったかなと照れくさそうにした。
 だが、次の言葉を聞いた瞬間、彼女の表情は一変する。
「オレたち忍とは“感覚が違う”って」
「それは、……そういうことじゃなくて、ほら、あの子! ったら友達の葬式にも顔を出さなかったのよ」
と、はっきりとこちらを見つめた。「どうかしてるわよね、同期なのに」とナタネの言葉に付け加えるかのように、イトが言った。カカシは彼女の言葉をすでに聞いていないようだった。「何も知らないのはお互い様か」とぽつりと言い残し、カカシは表情を変えることなくこちらに向かってきた。それが誰に、何に対して向けられたものなのか、には想像がつかなかった。一体、どうしたのだろうと唖然としているのはだけではなかった。「まて、カカシ」と遅れてガイが追って来たが、カカシはこちらに気を止める様子もなく、あっという間に通りすぎて行く。ガイはこちらに声をかけるべきなのか、カカシを追うべきなのかちらちらと見比べると「すまない! また今度!」と、カカシの方を追って行った。

 彼らの様子を見て、紅は訝しげに見つめた。
「カカシと何かあったの?」
「え? うーうん……」
「そう。でも、ちょっと変じゃなかった?」
 いつもなら、あの二人のことも見向きもしないで通り過ぎてるわよ、と紅は腑に落ちない様子だった。

七、不揃いな時間

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