空蝉-第一章-

 は一人、あの二人の後を追っていた。ここに来るまでに影分身を二回使った。何かあったら、などと考えている余裕はなかった。体力的にももう影分身を使うのは無理だ。あとは、なるようにしかならない。


「はー、やっと木ノ葉から抜けられるぜ……」
「うわっ、……なあ、あれ見たか?」
「うるせなー、ミミズだろ?……一々くっつくなよ気色悪い」
 二人の男は終始このような会話を繰り返していた。

 せめて、どこの忍か分かれば……。そしたら、すぐに知らせに戻るのに。
 今は、この二人が自国の話をするのを待つ他無かった。暗闇の中の尾行はとても神経を使う。いつ罠を仕掛けられるかわからないし、ほんの少しのミスで墓穴を掘ることになりかねない。幼少の頃、祖父の部屋の前で鍛えられたこともある。幸いにも、は“こっそりと何かをする”というのには自信があった。とりあえず、今はばれなければいい。情報を持ち帰ればいいのだ。できることなら、戦闘は日が昇ってからにしてほしいとはあてもなく願っていた。
 トクマが目を覚ましたら、さぞ立腹することだろう。本当ならば彼を連れていきたい気持ちもあった。だが、こんなことで巻き添えを食うようなことがあってはならない。こうしている間にも、敵二人とは着々と火の国の外へと向かっている。暗くて周りの様子が分かりづらいが、川の音が近づいている。それがどういうことなのか、理解しているつもりだ。白眼はかつて霧隠れの忍に狙われ、雷の国にも狙われた。遠くを透視できるそれを、他国は競って手に入れようとしていた時があった。今でもそんな輩がいるとも限らない。そんなところに彼を連れて行くわけにはいかなかった。はここに来るまでにいくつも掟破りをしていた。隊を乱し、勝手な行動をし、挙げ句には任務を放棄している。里に帰ったら、まずいことになる—— 帰れたら、と言うべきか……。
 緊張感を紛らわそうと、飢渇丸を一つ口に放り込んだ。口の中に苦い味が広がる。やはり、この味に慣れそうにはない。


 彼らが本格的に足を止めたのは日付も変わった頃だった。
「そろそろ、一休みするか」
「そうだな、湯の国にはあと数時間だ」
 そう言って、彼らが地面に寝そべるような音がした。
 —— 湯の国。
はトクマを置いてきたことは正解だったと思った。湯の国を超えれば、その先は霜の国。小規模ではあるが、隠れ里も存在する。そしてその先は雷の国。湯隠れの里の隣は無法地帯。野蛮極まりない場所だった。はできる限り男たちに近付こうとしたが、断念した。罠が仕掛けられていた。一つはワイヤーを張り巡らせたもの、もう一つは地面に起爆札を埋め込んだような跡があった。もうすぐ木ノ葉を脱するからなのか、随分と雑な仕上がりをしていた。こういう場合大抵三つは罠を仕掛けているのだが、もう一つが見つからなかった。三つ目は仕掛けていないという可能性もあるが、用心にこしたことはない。
 身を潜め、男たちが目を覚ますのをひたすら待つ。
 長い、長い夜だった。



 ははっとして男たちの方を見た。いつの間にか、目を閉じてしまっていたらしい。目を凝らすと、男達が荷造りの準備をしていた。朝日が顔を出したのは知っている。どうやらうとうとしたのはほんの少しだったようだ。幸いにも、男たちはこちらに気づいておらず、朝食変わりと思われる兵糧丸を口にしていた。敵の一人が自分たちが仕掛けた罠をとき始めた。一つはワイヤー、もう一つは起爆札だった。ワイヤーは外していたが、ここに放置していくようだ。そして、もう一つ。それを見て、は彼らの寝込みを襲わなかったことを後悔した。もう一つの罠はなんと、枝にくくりつけたただの鈴だったのだ。どうせ誰も居ないと高をくくったのだろう。
 彼らが動く気配を感じ、も一歩足を踏み出した。
 鳥の鳴き声が頻繁に響いていた。人の気配が感じられない山深い場所をひたすら移動していく。やがて、木々の間からは柔らかな陽の光が指した。そして目の前には、国境の証である川が現れた。谷間に響く流水音。その流れは早く、一歩間違えば滝壺に飲み込まれてしまう程だったが、男たちはその様子に動じることはなかった。
 
 男たちに遅れないように、必死にもその後を走る。足がもつれそうになり、息が乱れた。しばらくすると、彼らは国境の橋を通らず、二人がやっと通れるほどの細い地下道のような場所に入っていった。そこを渡れば他国の領土に入ってしまう。
 男たちが話しながら地下道に入っていくのを目にし、もその後に続こうと足を踏み出した。
 一瞬、考えて踏みとどまった。
 勝手に国境を抜けたらどうなるのだろうか……。
 だが、今更後戻りしたところでどうにもならない。すべてが水の泡になるだけだ。





 背筋に冷たい物が走った。
 はっとした時にはすでに腕を掴まれていて、思わず悲鳴が出かかった口元は覚えのない手のひらに覆われた。こうしている間に彼らの姿は小さくなっていく。掴まれた腕を振りほどこうとするが、びくともしない。それどころか、さっきよりも強く握られ、痛いくらいだ。そして、口元からその手が離れると、代わりに何とも言えない視線を向けられた。

「こんな所で何をしてる」
 その声を耳にし、は息を呑んだ。そして、何度も心の中でその理由を考えていた。
「私はただ、追跡を……」
「国境を超えたら駄目だってことぐらい、知ってるだろ。他の二人はどうした」
「二人は、D地点に……」

 すると、ほんの少し腕を掴む手の力が弱まったような気がした。
 まさか、この長い道のりをずっと走ってきたのだろうか……。ここまで相当急いで来たのか、僅かに息を乱していたのに気がついた。こんな姿を見るのは初めてだった。カカシはを見据え、どうせこれ以上追っても無駄だと、あの二人は他国の領土に入ってしまったのだからと言った。
 せっかくここまで来たのに……。お前程度の忍ではどうにもならない、そういう事だろうか。
 —— 私だって、
 そう言いかけて、は口を噤んだ。

 急に大人しくなったのをどう思ったのかはわからない。カカシはの腕を握ったまま言った。
「こんなところでウロウロしていたら別の奴に目をつけられる。早く森の方に、」
 すると、突然——の真横を数枚の手裏剣が飛んだ。
 誰かが来る気配がしたのは、その数秒後のこと。それは、カカシが投げた手裏剣だったのだ。



「挨拶にしては、ちと手荒すぎんか?」
と、一人の男が引きつった笑みを浮かべ、男たちが入って行ったはずの地下道から出てきた。そして、カカシとの方を見て、「ほぉ、」と呟いたかと思うと、ふと閃いたように言った。

「こんな国境で若い男女が一組、……さては、駆け落ちかのぉ?」
 
 中年の男はこちらに近づいてきた。男の風貌はとても目立っていた。足元は下駄、長い白髪、しかも、両脇にはがついさっきまで追っていた忍が抱えられていた。完全に伸び切っている。
 それに、この男は今なんと言っただろうか。
 が慌てて腕を振り払おうとすると、カカシは手を放し、もう一度掴もうとはしなかった。

「自来也様がどうしてここに?」
 カカシはとても冷静だった。すでに面識があるのか、ごく普通に話をしている。そんなカカシの様子を見て、中年の男—— 自来也は、相変わらずからかい甲斐の無い奴だ、とへそを曲げたようにぽつり呟いた。

「新作のネタを探しておったら、三代目から連絡があってな。野蛮な奴にくノ一が狙われておるとかなんとか……。全然大したことはなかったが」
「そうでしたか」
「せっかく良いところだったのにの〜、取材が全部無駄になった……次はあのレベルにはお目にかかれんだろうなぁ……」
 カカシが居るなら来なかったと言って、自来也はやや大げさにため息をついたのだった。

 そんな二人のやり取りを耳にしながら、は唖然とした表情を浮かべていた。
 —— 新作、三代目、取材?
 それに、あんなに苦労して尾行した男たちがこうもあっさりと胡散臭い中年の男に抱えられて……。いきなり現れたカカシ、自来也という男……。は混乱しっぱなしだった。
 それに、『自来也』と言えば木ノ葉の伝説の三忍、内の一人の名だ。本当にこの男がそうなのだろうか……。
 が疑わしい視線を向けたのを知ってか知らずか、ところで、と、自来也はの方へ視線を向けた。
「お主、名はなんと言う?」
 どこかで見たような、そうでもないような、と自来也は独り言を呟く。
です……」
 特にそれ以上は話そうと思えなかった。まだ状況を理解できていないこともあるが、何よりもこの忍の空気が違っていたからだ。結局、自来也の思い違いだったのか、息をつくように「そうか」とぽつりと言った。

「……話は歩きながらするとしよう。ワシも里に用があるしの。その前にこいつらが邪魔か」
 そう言うや否や、自来也は印を結んだ。
 初めて見るそれにがあっけにとられていると、ガマガエルの長い舌は二人を巻き取りながら、ごくりと飲み込んだ。死ぬんじゃないか、と言うの不安を読み取ったかのように、口を開いたのはそのカエルだ。「これくらいで死にゃせんぞ」と言って消えていった。口寄せの術の動物が人語を話せることは知っていたが、実際に目の前にすると摩訶不思議な光景である。



 が通った道とは反対方向を通りながら、とカカシ、自来也は山道を歩いた。完全に日が登り、一同を木漏れ日が照らした。
「やなだツヅリという女だが、何か悩み事でもあったのかの?」
 突然の言葉にはただ驚いた。
「悩み事でなくとも、例えば……誰かに頼み込んでも叶えたい事、とか」
 ツヅリはいつも明るいくノ一だった。悩み事なんて殆ど聞いたことはない。だから、何も知らなかった。彼女の実家を訪れるまで。きっと手紙を読んで、あの場に行かなければ、何もなかったと答えただろう……。
「彼女の父は戦争で足を悪くして、それが原因で忍を辞めたんだそうです」
「なるほど」
 自来也はそう言ったっきり、黙り込んだ。は先頭を歩く自来也を後ろから観察するように見つめた。なぜ自来也がツヅリのことをと考えたが、きっと三代目が話したのかもしれないと思い直した。その時、ふと影分身の記憶が流れ込んできた。アオバは相当怒っていたし、トクマは怒るというよりもショックを受けているようだった。に騙されて睡眠薬入りの菓子を食べてしまった。それが、彼のプライドを傷つけてしまったらしい。まさか、仲間に裏切られるとは思ったことはないだろう。可哀想なことをしてしまった。そして、アオバの予測は正しかったと知る。C地点からD地点に向かっていたのは鷹使いだったらしく、彼が知らせを飛ばすのが視界に入った。


「どうした」
 俯いたを見て、カカシが声をかけた。
 この人—— カカシも、迷惑をかけた一人だ。少し早く着いて、あのまま地下道へ入っていたら……。
「いえ、何も……」
 はそちらを振り向くことなく、ただ地面を見つめた。

十一、からまわり

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