空蝉-第一章-

 が目覚めた時、そこに自来也の姿はなかった。木の側に立てかけていた荷物も消えている。いつ出立したのか、全くわからなかった。あの人物が伝説の三忍だったとしても、気配で目が覚めそうなものだ。そう思ったは溜息をついた。思えば、いつ寝たのか全く覚えていない。自来也にまんまとしてやられたのだ。しかも、自分と同じ手口で。きっとあの燻製に何か仕込んでいたに違いない。そんなことを考えながら、が身支度を整えていると、それを見計らったように人影が現れた。

「そろそろ行くけど」
 そう言って、カカシは横目でこちらの様子を窺った。準備は整っているし、とくに異論はない。例えあったとしても言えるはずがなかった。
「……了解」
 いつの間に監視下に置かれる忍になってしまったのだろう。そう思いながら、は地面をひと蹴りした。



 カカシはこの山を熟知しているらしく、迷うこと無く進んでいった。念の為、途中で地図を確認するということもない。しばらく走り続けていると、速度を緩めたカカシは、休憩にすると呟いた。それに頷きはしたものの、恥ずかしいことに、には今どの辺りにいて、里まであとどの位あるのか、正確に把握することができなかった。カカシが進む方へ黙って付いて行くと、ひたりと雫の落ちる音がした。山道の脇を見ると、ちょろちょろと山の斜面を伝い流れる物があった。湧き水だ。それから程なくして樹木を避けながら進むと、視界は水面を捉え、そこには神秘的な世界が広がっていた。昨晩、川が流れている、そう思ったのはどうやらこの池のことだったようだ。湧水で出来上がったその池は、驚くほど透き通っていた。陽の光で天色にも見えるそれに、は思わず目を奪われた。
「飲水はこっち」
「あ、うん。……ありがとう」
 我に返ったように、はカカシの言う場所へ足を向けた。誰が作ったのか、池のほとりの一角には給水場のような場所があった。古い竹管からは水が流れ、その下の木桶には休むこと無く波紋が浮かぶ。はさっそく竹管から流れるそれを手ですくい、そっと口に含んだ。喉を通り抜けるのが分かる程に冷えているが、口当たりは円やかで、ほんのり甘みを感じる。移動して温まった体にはちょうどよく、とても美味しかった。

「休憩しないの?」
 てっきりカカシも水を飲むものだと思いその場を離れたは、カカシがすぐに出発しようとしているのを見て驚いた。
「オレは慣れてるから」
「そうなんだ、ごめん。私だけ……」
 ぽつりと呟くと、カカシは一瞬不思議そうな表情を浮かべた。
 彼の様子を見ていると、暗部というところが日頃どのように過ごしているのか想像できる。その一方で、それに違和感を覚えた。

 いつだったか、上忍の先輩たちが様々な噂話に花を咲かせていた時のことだ。まるで本人がその場にいるかのように、こそこそとした様子が逆に目立っていた。そんな中、一人の男が言った。
『あいつ、本当に容赦ないよな』
 その口調は、僻みとともに恐れを感じているようでもあった。カカシの暗部での活躍はこのような形で耳にすることは度々あった。一体誰が言い出したのか。彼の名が出ると、必ずと言っていいほど皆同じことを口にした。あいつは、はたけカカシは目的のためならなんでもする冷血な奴だと——
 しかし、にはそうは思えなかった。カカシはこうしてペースを合わせてくれたり、時折、後ろを気に掛けるような視線を向けた。遅れないように、近過ぎないように、ずっと適度な距離を保っていた。苛立ち、先を急かすこともない。早くしろ、とは決して言わないのだ。
 カカシの背を追いながら、は思う。今まで本気で誰かのことを知ろうとしただろうか、と。ツヅリのこと、イトやナタネ、紅たちのこと。そして、カカシのことを。

 あの時、皆、口々に言った。
『悲しいは悲しいよ?』
『でも、仕方ないだろ』
『いつまでも悲しんでいられないじゃないか』

 死を見ること。
 それは忍なら仕方のないことだと、そう言った。

 家族、友達、師 —— 全部、目の前からなくなったら……?

 『何も知らないのはお互い様か』
 その言葉が、今頃になって心に沁み入ってくる。
 あのこは優秀だから、この人は特別だからと、勝手に決めつけて……。
 アカデミーのあの時のまま留まっているのは、何もイトやナタネだけではないのだ。



 あうんの門が見え始めたのは、が想像していたより随分早かった。人の声、あたたかい空気—— 木ノ葉の里だ。こうして無事戻りはしたが、今更ながらとんでもないことをしたのだという実感と、これからどうなるのかという恐怖が襲ってきた。何度も自業自得なのだからと言い聞かせ、はあうんの門を見つめた。そして、カカシに掛ける言葉を考える。礼を言うのもおかしな気がするし、かと言って無言で去ってしまうのも違う気がする。何か言わなければ、と、が声をかけようとした時だった。一筋、影が走ったかと思うと、それはカカシの目の前でピタリと静止した。

「先輩、どこに行ってたんですか? というか、どこまで行ってたんですかと言うべきですかね」
 格好から、はその忍が暗部の者であるということをすぐに理解した。だが、声色、背丈。見たことのない、知らない忍であった。
「僕はすぐ戻るもんだと思って、言い訳をするのに随分苦労しましたよ」
 おかげでカカシの装備は殆ど修理に出したことになっているのだとその忍は言った。どことなく、疲れているようにも見える。そんな様子を見たカカシはあまり気にした風でもなかった。それはにとって意外だった。というのも、カカシの態度がほんの少し、いつもと違って見えたからだ。
「大体、ちょっとって言うのはですね、」
と、面をした忍はそこでぴたりと話を止め、の顔を見つめた。
「あなたは……そうか、情報部」
 まさか話かけられるとは思いもしていない。おそらく、失踪したくノ一であるということを覚えているのだろう。あの時は違いますと言えた。しかし……。早く何か、何と言えばいいだろうか。

「色々ご面倒おかけして、お騒がせして、すみませんでした」
 きっとこれが正しいだろう、そう思っただったが、二人の表情を見てすぐに失敗したと思った。唖然とする二人の視線を感じ、軽く一礼すると、は足早にあうんの門をくぐった。



 ここはが生まれ育った場所、故郷だ。なのに、まるで他里に居る時のように落ち着かなかった。いつもなら何とも思わない通りすがりの人々が自分を見ているような気がしてくる。もちろん、気の所為だ。それはわかっているのに、なんだかとても居心地が悪い。行き先は……まずは、火影室だろう。もしかしたら、忍をクビになるかもしれない。むしろ、もうクビになっているかもしれない。そしたら、里から追い出されるのだろうか。ここで紅たちにあったら、どんな顔をしたらいいのだろう……。はただ、一歩先の地面を見つめながら木ノ葉の町を歩いた。
 すると、目の前に二人の男が立ちはだかる。それはの見知った人物だった。

「はー、これでやっと火影室にいける」
「待ちくたびれましたよ」
 アオバとトクマはそう言うと、平然との前を歩き始めた。
「あの、」
 その声に、二人は同時に振り向く。
「これから火影室に行くのは、私だけでいいんじゃないの……?」
 二人はとっくに里に着いていたのだから一度は顔を出しているはずだ。なぜ、二人が火影室に。勝手な行動をし、迷惑をかけたのは自分だけだというのに。そう思っていると、絶妙なタイミングでアオバが言った。
「前に言っただろう、連帯責任ってやつだ」
「まって、本当にこれは私の責任で、二人は関係ないことでしょ? 私が勝手に、独断で一人で追っていったんだから」
 連帯責任だなんてとんでもない。本当にこの二人は何も悪くないのだ。それなのに、もし何か処罰が下って、彼らの経歴に傷が付きでもしたら……。はさっと血の気が引くのを感じた。しかし、それは少し違うとトクマはいう。
「追っていったっていうか、“追われた”の間違いじゃないですか?」
 しっかり者のトクマまで訳のわからないことを言い出したのには驚いた。あの菓子の件で相当腹を立てているようだ。
「あれは、ごめんね。もとは私が食べる予定だったもので、あんなことをするつもりじゃなくて、アオバさんの言う通り、初めから三人一緒にD地点へ行くべきだった。全部私が悪くて。男たちが、……気になることを話していたからついて行ったら全部わかるかもとかバカなこと考えて、だから二人は関係ないの、ごめんなさい」
 気がつくと、二人はぽかんとした顔をしていた。何か的外れなことを言っただろうか。もしかしたら、怒りを通り越して呆れている、その可能性もあるとは思った。するとアオバはサングラスを整えると一つ咳払いをした。初めからその勢いで全部話してくれたらな……と、ため息をつくと、かしこまった口調で続けた。

「オレたちは今回の件で学んだことがある」
 トクマはそれに深く頷いた。そして二人揃って、こちらをまじまじと見る。
「オレたちは学習した。のような女でも油断してはならないということを。我の強いくノ一ばかり見てきたオレたちは安堵しきっていた。それが今回の気の緩みだったんだ。そうだ、どんなに大人しそうなくノ一でも油断するべからず……」
「それだけにあらず、オレは安易に手作りの菓子を食うというあるまじき失態を……」
と、トクマは言った側から絶望的な表情をした。もし、日向家の者にそれが知れたら、オレは日向の名を捨てなければならない、と本気の目をして言うのだ。
 今度はがぽかんとする番だった。一晩で彼らはどうなってしまったのだろうか。怒りを通り越すと精神が乱れるのだろう、きっとそうだ。彼らの精神を安定させるためには、まずは木ノ葉病院へ連れて行って、適切な処方をお願いすべきだろうか。などと、が真剣に考え始めると、「あー、つまりだな」と、いつもの口調でアオバが言った。あまり大きな声で言えないが……と、珍しくアオバが耳打ちをしてきた。それを聞いたは言葉に詰まった。適切な言葉を探すのに苦労した。自来也が『—— 野蛮な奴にくノ一が狙われておるとかなんとか 』と言っていたのは冗談ではなかったのだ。
「だから、連帯責任だって言ったろう?」
 アオバはそう言うと、トクマと共に、の前を歩いていった。


 きっと三人の表情は引きつっていただろう。三代目火影はいつものように煙管をふかし、手にしていた書類から視線をあげた。そして、「ごくろうだったの」と呟いた。この一言が、どれだけ重いことか。は固唾を呑み、次の言葉を待っていた。その刹那、全身に緊張が走った。三代目がこちらを見たような気がしたのだ。

「色々と予定外な事が起きたようだが……、任務には想定外のことはつきものじゃ。無事帰って来ただけよしとするべきか……」
 巻物に目を通した三代目は、資料の内容を見比べた。C地点では四名の殉職者が出てしまったこともある。今後は配置や人数などを見直すことになっているらしい。

「さて、あとは報告書で確認するとして、以外は戻ってよろしい」
 一瞬、アオバが何か言いたそうに口を開いた。だが、言葉を飲み込むように口を閉ざしたのだった。
 アオバとトクマが火影室を後にし、二人だけとなった火影室には不思議な空気が流れていた。
「三代目様、申し訳ございませんでした」
 三代目は全て知っていると言うように、ゆっくりと頷いた。
「人は、生涯選択して生きていく生き物。……だが、時には誤り、取り返しのつかぬこともあるかもしれん。やなだツヅリはお主の前で、友であった。そして、父の前では娘であった。それだけの話じゃ。どちらも大切であることは同じであったはず……」
 三代目は思い馳せるかのように、瞳を閉じた。そして、煙管をふかし、ひと息つく。
「しかし、勝手な行動は時には仲間を危険にさらすこともある。それは忘れてはならんことだ」
「……はい」
「さて、今回の件だが、——
 覚悟はできていた。ここに額当てを置いて帰りなさい。そう告げられても取り乱すことはないだろう。煙管からゆらゆらと立ち昇る煙が時間の経過を曖昧にさせた。それは、にとって長い沈黙だった。
「特に、これといって処分が思いつかなんだ。それで、と言ってはなんじゃが、あの話は口外無用とする。不穏な動きをしておる。あの辺りはむやみに近寄らぬべき、か」
 これは予想外だった。黙っていればお咎め無し、とはどういうことか。そんなことがあるはずが……、がそう思っていると、三代目火影は「何か、不満かの?」と言ってこちらを見据えた。不満だなんてとんでもない。は慌てて頭を横に振って否定したい気持ちになった。
「三代目様……、私はそのような御慈悲を受ける立場ではございません。周りに、色々な人に迷惑をかけてしまいました」
よ」
「はい」
「わしはこの歳になっても学ぶことが多々あってな。不思議なことに、ある時、はたと気づくのじゃ……」
 そう言うと、三代目は書物に視線を落としたのだった。

 礼を述べ、が部屋を後にしようとすると「おっと、これを忘れてはいかんな」と三代目は慌てて一枚の書類を手渡した。それを目にした瞬間、は視線を上げた。だが、目の前の御仁は何食わぬ顔を装った。
 そして、
「時にして、嘘というのは、人を守るものでもある……。そう、わしは思っておる」
と、独り言のように呟いた。三代目は頼んだぞとでも言うかのように頷くと、新たに巻物を広げた。そして、ほんのり笑みを浮かべたのを目にしたはもう一度礼を述べると、そっと扉を閉めたのだった。




 火影室を出たがアカデミーの正門に向かっていると、アオバとトクマがこちらに近寄ってきた。
「どういうことだ。は額当てをしている……」
「つまり、クビではないということですね、おかしいですね」
 さっきとは大違いの二人には戸惑いながら、忘れてはいけないと、三代目から受け取った書類を取り出した。
「二人とも、これ、三代目からなんだけど……」
 が広げた書類を見た二人は、また妙なことを言いだした。
「おかしい。オレはもう一生この女とは任務に出たくないと三代目に言ったはずだが」
「オレも同じようなことを三代目に申し上げたばかり、それなのに」
 そんなことを言いながら、その書類をまじまじと見つめ渋い顔をした。
 悄然と肩を落とすを目にし、二人は困った表情を浮かべた。だが、直ぐにが手にしている物と同じ書類を広げて見せ、冗談に決まってるだろ? とにやりとした。そして、やや大きな声でアオバが腹が減ったなと呟けば、食事はどこにしましょうかとトクマがいう。もちろん、これは三人で決行することであり、今回に拒否権はないのだと告げた。今日は焼き肉にすると勝手に決めたかと思えば、一時間後にここに集合だと言って、彼らは逆方向へと散り散りになった。その去り際、隊長命令だからなとアオバは念を押すことを忘れなかった。
 その後ろ姿を見て、は思う。ランカの言うとおりだった。彼の言葉を借りるなら、二人はとても“いい奴”だ。自分にはもったいないくらいのいい人たちだった。


 墓地へ向かうと、が供えた花は綺麗な部分だけ残され、新たな花が供えられていた。
 ここに来る前、は情報部に立ち寄っていた。作業場に入るなり、マワシが「あれだけ用心しろと言ったのに、」とぶつぶつと小言を言った。そんな彼を見たいのいちは、「無事でよかったじゃないか。こうして戻ってこれたんだから」と苦笑いをした。激怒されないのは、ここでは「野蛮な奴らに後を付けられ逃げ回っていたところ、あの三忍に助けられたのだ」という話になっているからだ。はいたたまれなくなって、目的を果たすと早々にその場を後にした。

 報告書に書かれていたこと。それは、自来也の予想と同じだった。そして、検死報告書にはやなだツヅリの死因は毒死であると書かれていた。「B欄は空けておいてね」という意味を知っていれば、とは思ったが、ツヅリの父に会ったことを考えると、それも意味はなかっただろうと思い直す。あの男たちはツヅリの弱みを握り、自白剤を作ってある人物へ見せるつもりでいた。そして、それを彼女は作り、飲んだのだ。本当に効果があるのか確かめるために。
 その書類の内容は事実だろう。自来也が捉えた男たちの証言と記憶はすべて一致している。
 しかし、それを目にしたは悶々としていた。
 事実を捉えたとき、パズルが完成したようにピタッとした感覚がするものだといのいちは言っていた。それなのに……。

 は墓石の文字を見つめた。
 その時思い浮かんだのは、三代目の言葉だった。

十三、嘘と偽りに潜むもの

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