空蝉-第二章-

 それは異様な光景だった。
 もちろん、鯖の塩焼きの匂いが充満し、炊飯器から漏れる炊きたてのごはんの蒸気が漂うこの空間で、互いに顔を合わせ立ち尽くしている、ということだけではない。この男が玄関先に立っている。それだけで十分だった。何しろ顔を合わせるのは久方ぶりのことで、数分前まで部屋に漂う煙たさを消す方法ばかり考えていたにとって、全く想像もしていなかったことである。この事態を飲み込めずに困惑するとは裏腹に、カカシは澄ました顔で預かり物だと言って、手にしていた藍色の封筒をこちらに差し出した。
 それを目にした瞬間、どうしたの?という疑問の言葉は消え失せたのだった。

「三代目から。に渡せば分かるって言ってたけど。一応、確認してくれる?」
「あ、うん」
 カカシに言われた通り封筒の紐を解くと、そこにはが想像していたものが入っていた。藍色の封筒と言えば、中身は大体決まっている。
「確かにお預かりします……」
 封筒の留め具にくるくると糸を巻着付け、封をしながらそれとなく外の様子を窺った。こちらに気を遣ったのか、の今晩の夕食を言い当てた少年は、廊下の端の方で暗くなった空を眺めていた。その背はトクマよりも小さく見えた。アカデミーの高学年といってもいいくらいだ。

「これから任務に?」
「まあね」
 カカシは小さく息をついた。ならば、カカシと同行しているあの少年も「ろ班」の一員ということになのだろうか。は再度その背を見つめた。それにしても、随分若い。

「ところで……、何してんの?」
 カカシは眉を下げ、訝しげな視線をこちらに向けた。思わずは答えを探すように視線を泳がせた。
 何をしているのか、とは。
 懸命に問いかけてみるが、一瞬にして真っ白になった思考ではどうにもならないようだ。
「窓、全開だったから」
「あっ、ごめんなさい、煙たかったよね?  換気扇が壊れたみたいで……」
「ああ、そういうこと。でも、さすがに開けっ放しはやめておいたほうがいいと思うけど」
「そうだね、書類もあるし、」
 は封筒の感触を確かめるように意識を向けた。もし、これを紛失したらカカシに迷惑がかかるかもしれない。今夜は念の為窓に結界の札を貼っておこう。用心して悪いことはないし、と、気を引き締めるように心の中で頷いた。
 ふと前を見れば、カカシが何とも言えない視線を向けていた。どこか躊躇うような、そんな雰囲気が感じられる。
「ほかにも何か……?」
「いや……」
 と、カカシは言うが、気になって仕方がなかった。言い渋る必要があるとするなら、きっとこれしかないだろうと、は手にした封筒に視線を落とした。
「あの、書類のことなら部屋に結界の札を貼るから大丈夫だと……」
「そういうことではなくて、」
「え?」
 ずいぶん間の抜けた返事だった。ぽかんとするを見て、カカシは小さくため息をついた。

「一応言っとくけど、……外から丸見えだから、部屋の中。」

 全開の窓。カーテンは開けっ放し。照明が点いたこの部屋は、さぞ、夜空に映えることだろう。特に、アパートの前の道路や少し離れたアパートの屋上からは。明々とした部屋で暑くもない季節に突然団扇で部屋中を仰いだかと思えば、押入れからこそこそ何か引っ張り出している。おそらく、カカシはその姿を見たのだ。そう思った瞬間、体の心がかっと熱くなった。それが頬に到達するまで、そう時間はかからなかった。それを隠すように、はとっさに自分の足元へ視線を落とした。
「…………」
「……それじゃ」
 用は済んだとばかりに背を向けるカカシを見て、は小さく息をついた。
 かと思えば、熱も冷めやらぬまま声を上げた。
「あ、…………あの!」
 夕方の出来事を思い出した。あの事は話した方がいいかもしれない、と。
 しかし、いきなりガイが暗部に入りたがっていたと言ったら、カカシはどう思うだろうか。何かいい案を教えてくれる可能性も、無いとはいえない。「ガイがね、」そう口にしようとした瞬間、ふと、我に返る。任務前にこんな事を言ってどうするんだ、と。やっぱり、黙っておこう。そう決めた途端、とっさに口走った一言は、彷徨うかのようにカカシとの間で行き場を失った。

「何?」
 引き止められたカカシの表情には疑問の色が浮かんでいた。ここで「やっぱり何でもない」と言ったら、逆に何かあると思われるだろう。すっかり中に浮いた言葉の宛先を考えていると、は重要なことを言っていないと気がついた。

「任務、気をつけてね……」
「え、……ああ。」

 勢いで言うものではない。いつもそう思う。更に変な空気になったのは……気の所為ではないだろう。また余計なことを言ってしまったのだ、そう自覚すると、かっとなった芯部は急速に冷えていった。今度こそその場を後にしようと、ドアノブに手をかけたカカシは、ゆっくりとそれを離した。

 が徐々に閉まる玄関を見つめていると、いつの間にか消えていた少年の気配がした。「用事は済んだのですか?」という言葉と共に二つの影は細くなり、すっと見えなくなった。
 急に静かになったからか、ぽつりと聞こえた一言がいつまでも耳に残っていた。

 ありがとうね。——

 玄関が閉まる間際、確かにそう聞こえたのだ。





 翌朝、カカシから受け取った封筒の中身を処理するために目的地に向かっていると、いつものように演習場でトレーニングをしているガイを見かけた。暗部の件はどうなったのかと気になりはしたが、トレーニングを中断させるのも悪いような気がして、はそっとその場を通り過ぎた。だが、背後から「ちょっとまった!」と声をかけられる。てっきり気づいていないものだと思っていたが、そうではなかったようだ。

、挨拶は基本だぞ?」
「そうだよね、ごめん。ガイの言う通り」
 仕切り直すようにがおはようと言うと、ガイも同じように返した。そして、「休憩にするかな」と、息をついた。
「じゃあ、——
 またね、とは続かなかった。
 というのも、ガイが被さるように話かけたからだ。
「そろそろ休憩だな。」
「休憩、するんだよね?」
「そう、休憩なんだ」
 顎に滴る雫を拭いながら、今日はいい天気だ、今日は気持ちがいい朝だ、としきりに言う。確かに、今日はいい天気だ。綿あめのような積雲が壮大な青色のキャンバスにぽつりと浮かんでいる。
「うん、いい天気だね」
 意図がわからずオウム返しを繰り返していると、ついに、しびれを切らしたのか、ガイは言った。
「そうだ、いい天気だ。ベンチに腰掛けて一服すると最高だろうな、なぁ、?」
 そして、任務は夕方から一件入っているだけだと告げると、また、いい天気だと呟いた。そこでやっと“声をかけろ”と言っているのだと理解する。そうでなければ、いつまでも自分の側をウロウロするはずがないとは思った。
 何時間も過ごすわけでもないのだ、少しくらいなら平気だろう。

「そうだね、せっかくいい天気だし、どこか座る?」

 の言葉を聞くなり、ガイはくるっと回り、名案だとナイスポーズを決め、演習場の片隅にある洗い場へ向かった。そして、豪快に顔面を水で濡らすと、実に爽快だなと空を見上げた。

「悪いな、オレとしたことが女子に借り物をつくるとは」
 遠慮気味に淡い桃色のハンカチを受け取ると、ガイは手を拭った。肝心の顔はそのままだ。
「顔、拭かなくて大丈夫?」
「ああ。団子屋に着く頃にはちょうどよくなるからな」
と、ガイは笑みを浮かべた。
「団子屋?」
「嫌いじゃないだろ?」
「うん」
 てっきり、ベンチに座ってゆっくりするものだと思いこんでいた。そうと知ったら、本当にそのまま行くの? という密かな疑問は濃くなるばかりだ。
「ほんとにそのままでいいの?」
「こんなことで風邪を引いたりするもんか」
 意気揚々と隣を歩くガイ。その様子を見ているとそれ以上のことは言えず、はすれ違う人の視線を気にしないよう努めた。そして、団子屋ののれんが見え始めた時、隣を見て驚いた。ガイの言う通り、びしょ濡れだった顔も襟元もすっかり乾いていたのだ。の視線に気づいたのか、この服は速乾素材なんだ、とガイは自慢げに言った。


「こんにちは!」
「こんにちは」
 ガイに釣られるように、も挨拶をする。すると、はっとしたように店主のたまえは振り返った。
「あら、あんた! どうしたのかと思ってたよ、また来てくれて嬉しいよ」
 は驚いた。かれこれ一年以上顔を出していなかったというのに、どうして。その気持ちが顔に出ていたのか、店主は「私が常連客の顔を忘れるわけないだろう?」と言って、今日は久しぶりだからとヨモギ団子をサービスしてくれた。あんこが乗っていないヨモギ団子だ。店内では他の客が数人、団子に舌鼓を打っていた。いつもの光景だ。だが、は奇妙な物をみている気がしてならなかった。色褪せたメニュー表、年季の入ったテーブル。すべて、何一つ変わっていないというのに——


「今日は、いい天気だな」
「そうだね、いい天気」
 いつもの席には先客が居たこともあり、空いていたその隣に腰を下ろした。そのことに、は密かに安堵していた。肝心のガイはと言えば、せっかく店に来たというのにさっきからずっとこの調子だ。てっきり何か話したいことでもあるものだとは思っていたが、そういうことでもないのか、時間が経つにつれて気まずくなっていく。そろそろ何か話題を振らないと、とが当たり障りのないことを考えている時だった。

「実は、に一つ聞きたいことがあってな」
 団子を食べ終えたガイはの方を向き直った。珍しく真面目な顔をしていて、は団子を食べる手を止め、一つだけ残ったそれを皿に置いた。
「もしかして、暗部のこと? それなら、」
「いや、それはもういいんだ」
「……そっか」
 ならば、彼は何を聞こうとしているのだろうか。思い当たる節を探してみるが、これと言って見つからず、は手元の団子を見つめた。

「これは、オレの推測でしかないが……。は何か知ってるのか? カカシのことだ」

 予想もしていなかった言葉に、心音がうるさくなっていく。
 それはつまり、あの内容を……。ガイはそれを教えて欲しい、そう思っているのだろうか?

「なんで、そう思うの?」
「直感だ」
 まるで心の中を射抜くような視線を向けられ、思わず肩が跳ねそうになる。
「一年前、紅と一緒に居た時に商店街で会っただろう、覚えていないか。夜だったか、そうだ、あの二人もイトとナタネがいた時だ」
 紅が初めて食事に誘ってくれた日だ、忘れるわけがない。
「覚えてるけど……、それがどうかした?」
「自信なさげなのはいつものことだが、時々、はあの二人とはまた違う視線を向けているだろう?」
 何か誤解しているのではないかとは思ったが、ガイはすぐにそれを否定した。可能性ではなく、それは徐々に確信めいた口調に変わっていく。
「カカシはオレが認めるライバルだ。あの男が……、まあ、多少オレより、多少くノ一から見ると魅力的であることは認めよう。ライバルだからな」
 ガイは軽く咳払いをし、再び改まった表情でを見つめた。
「だが、くノ一があの二人のように熱い眼差しをヤツに向けるのは見たことがあっても、のような視線を向けるくノ一をオレは見たことがない。オレは時々、が同情めいた視線を向けているように思う」
「私は、……」
 いつ、そんな目を……。もちろん、そんなつもりはなかった。無自覚だ。
 はどう答えるべきか、考えを巡らせた。あれは見てはいけない巻物であり、それを他人に話す—— それが同期で、その者の友人で、信用のおける者。

「ガイ、知ってるでしょ? 私、アカデミーの時あんなだったし、話したことないってこと」
「そう言えば、そうだったか?」
「うん。それにね、私が知ってることなんて、みんな知ってると思う」
 これで納得するはずだとは思った。そもそも、ガイは聞く相手を間違えている。彼自身の方が自分の何倍もカカシについて詳しいはずなのに。
「んー、それはどうだろうな」
「え?」
「オレはカカシをライバルだと思う。だが、カカシがどう思ってるかは正直わからん。それで、はカカシのことをライバルと思っちゃいないし、カカシもそうは思ってないようで、そうではないかもしれない。」
「さすがに、ライバルはないと思う」
「ああ、そうだろうな。つまり、オレが言いたいのは……」
 腕組みをしたガイは真剣な顔をした。言葉を探しているのが手に取るようにわかった。
「つまり、オレはオレの知らないカカシを知りたいってことだ」
 そこに何かある気がしてならないのだと言った。その熱を帯びた言葉に、は口を噤んだ。ガイは、なにも巻物の事を知りたいわけではない。純粋にカカシのことが知りたい。その一心なのだ。

「ガイは、昔からそうだよね」
「何のことだ?」
「友達思いで、何にでも一生懸命」
 —— 私も、そんな風だったらよかったのかな。
 思わず心の中で問いかける。

だってそうだろ」
「私はそうでもないよ」
「そんなことはないさ。ツヅリの葬式の時だって本当は朝までずっと調べてたんだろ?」
「それ……、なんで知ってるの?」
 思いがけない言葉に無意識に語尾が大きくなった。
「カカシが言ったんだ」
「カカシくんが?」
 と、はっとしては息を呑んだ。だが、ガイは特に何も思わなかったのか、変わらずこちらを見ていた。
「あの、……でも、どうして」
「暗部にはその手の情報は回ってくるのかもしれないな」
 そう言えば、とは思い返す。以前、あの一件は「ろ班」がどうとかと言っていた。休憩室、マワシとベテランの忍と一緒だった時だ。ならば、カカシもあの報告書を……。あるいは、誰かから聞いた—— 森乃イビキから、そうも考えられる。
「どうして何も言わない。誤解だって、ちゃんと話せばあいつらだってあんな態度を取ったりしないだろうに」
 後ろめたいことは何一つないじゃないか、とガイは言う。
 あの時、検死に立ち会ったから遅くなったのだと言えば、……。はすぐにそれを打ち消した。友人の死を目の前に仕事を続行することを、彼女たちがどう思うのか聞かなくてもわかる。理解してくれる、わかってもらおうなんて……。どちらにしても、いい気はしないはずだ。
「仲直りは済んだのか?」
「それは、……でも、もういいの。」
「もういいって、そんなことあるもんか」
「それに私、ツヅリの事何にもわかってなかった。それでずっと友達と思ってたんだから。だから……」
 弁解する資格もないのだとは呟いた。そんなに、ガイは「何を」とは言わなかった。口を閉ざすと、辺りが急に静かになった気がした。

「それを言うなら、オレだって似たようなもんだ」
「ガイが?」
「ライバルと言いながら、結局何もわかってないんじゃないかと思うこともある」
 そう言って、ガイは湯呑に手を付け、視線を下げた。その様子を見て、は自分を恥じた。危うく、カカシに余計なことを言う所だったのだ。
「それで、暗部に入ろうとしてたんだね……」
「だが、それも失敗だ。火影曰く、オレは暗部に向かんらしい」
と言って、ガイは深いため息をついた。
「火影? もしかして直談判したの?」
「ああ。他に方法がなさそうだったからな」
 だからって、—— そう言いかけて、は口を噤んだ。
 できないと諦めたり、自分には無理だと勝手に決めつけた所から始める、きっと彼にはそんなスタートはないのだろう。

「私も、ガイを見習わないと……」
 それは思わず呟いた一言だった。すると、突然ガイは声を弾ませ、意気込んだ。その様子は体の内に眠っていたエネルギーを呼び起こしたかのようだった。
「そうか! だが、誰にでも適材適所というものがある。もちろん、体力アップはくノ一も必要なことだろう。だが、無理に腹筋500回など目指さなくてもいいんだ」
 体力アップ。どこからそんな言葉が降ってきたのか疑問に思う。そんなふうに言ったつもりはなかったんだけど、と、内心は困惑した。しかし、あの一言で彼の思考はすっかり方向転換しまったようだ。
「あのねガイ、私は、」
「ああ、分かっている。300回も厳しいだろうな。だがはくノ一だ。はじめは腹筋100回いや、50回でもいい。そこから目指してみたらどうだろうか」
 正面から真剣な眼差しを受け、どれだけの者が「違う」と言えるだろう。もしかしたら、紅なら「あのね、ガイ。そういうことじゃないのよ」とビシッと言ってみせたかもしれないとは思った。
 ガイは燃えていた。さっきまで項垂れていたのは嘘のようだ。イキイキとした姿を見ていると、水を差すようなことはできなかった。

「そうだね、まずは50回から目指すね、そうする」
「それがいいだろうな!」
「うん。ありがとう、ガイ」
「あ、ああ……」
 は小さく笑みをこぼした。それに拍子抜けしたのか、ガイの返事は突如口から転げ落ちたような、なんとも気の抜けたものだった。

 結局、話は脱線したまま進み、はトレーニングの話に耳を傾けることになった。
 トクマのことを相談してみようと思い立ったのは、それからしばらくしてのこと。ガイなら男の子の気持ちを理解してくれるかもしれないのに、どうしてこの話を早くしなかったのだろう、そう思いながら、「あのね、ガイ。ちょっと相談があるんだけど、」「大したことじゃないんだけど、少し相談があって」などと、話の切り出し方を考えていると、不意に名を呼ばれは顔を上げた。
「どうしたの?」
 もしかしたら話を聞き逃してしまったのかも、と、が一人焦っていると、ガイは不思議そうな顔をして言った。

「ずっと気になってたんだが、その封筒はなんだ?」
「封筒……?」

 それを見た途端、の椅子はガタンと派手な音を立て、テーブルの湯呑を揺らした。

二、「竹馬の友」

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