空蝉-第二章-

 湿気を帯びた空気が変わったのは、ある扉の前にたどり着いた時だった。鍵を差し、それが噛み合うと、薄暗い廊下に錆びた蝶番の音がじわりと響いた。



 息を切らして作業場にやって来たを見て、マワシは何事だと驚いた。だが、理由を知るなりいつものお説教に早変わり。「走ってくるとただ事じゃないと思うだろうが」と、何度も言うのには参った。はただいつものようにすみませんと言うばかりだったが、ランカはしょっちゅう走っていたのに、とも思う。

 マワシは藍色の封筒から書類を数枚取り出すと、壁一面、碁盤の目のように連なる引き出しを慣れた手つきで迷うこと無く開けていった。
「確か、今回で三回目だったか?」
「はい」
「写真と必要事項の確認が済んだら、ここにある判を捺す——
 写真に刻印を捺しながら、次々と手続きの工程を済ませていく。メモを取れないと知ったは必死にそれを目で追った。更新日はあっているか。階級に間違いがないか。火影の印鑑が捺されているか、などと確認には余念がない。
「最後に登録番号を見て、保管箱に入れる。これだけだ。慣れれば簡単だ」
「……」
 入り口から三列目の10番目と、5列目の14番目と、6列目の1番目と……、刻印は刻印は28列目の、……。

 今のにマワシの言葉を聞く余裕はなかった。何しろ、次からは一人でやるようにと三代目に言われていた。ここで間違えたら大変な事になる。何がなんでも覚えなければならない。それはわかっているが、最後の刻印はどこだったか。はその事で頭がいっぱいになった。そして、こんなにも必死になるのには理由があった。忍者登録証が間違っている、なんてことは絶対にあってはならないからだ。眉を寄せるにマワシは丁寧に順を追って分かるまで説明した。さっきもそうだが、作業場ではガミガミと説教ばかりの印象が強い。だが、物を教えることに関してこの人物は非常に長けているとは感じていた。わからないと言えば、「まったく、仕方ないな……」と、メガネを整えながらこれ見よがしに教えにかかる。どうやら、こういう類は彼の中で“かなり好きな部類”に入るようだ。

「少ないな」
 マワシは空になった封筒を見て呟いた。今回は四枚の書類が入っていた。そのうち三枚は新規登録で残り一枚は指示書だった。つまり、今回の試験で下忍になれたのは三名だけだったということだ。
「でも、こればっかりは補充できればいいって話でもないか。」
 マワシはぽつりと言って、保管箱から一枚の書類を取り出した。歳は26。痩せ型の面長の男で階級は上忍とある。
「こいつ、オレの同期だったんだ」
 あまりにも平然としていた。何事もなかったかのように印を捺していたこともあり、一瞬なんのことかと考えたほどだった。言葉に詰まったにマワシは続けた。
「ときにはこんな仕事も回ってくる……。だが、たまはいいこともある」
 今度は別の保管箱から書類を取り出した。丸顔の優しい顔をしたくノ一だった。
「この方は?」
「中忍の頃、一緒に班を組んだヤツだ。それで、先月結婚した」
 僅かに頬を緩ませたマワシは休職の印を捺した。
 
「件数が多い時は二、三人でやることもあるから安心しろ。分からなければオレかランカに聞けばいい」
「わかりました。ありがとうございます」
 二、三度鍵を触り施錠を確認するとマワシはポケットにそれをしまった。
 建物を出る頃にはとっくに昼食時を過ぎていた。
「マワシさん、お昼はどうします?」
「ああ、悪い。今日は弁当があるんだ」
「そうなんですね、わかりました」
「じゃあ、また」
「はい。お疲れ様です」




 マワシと別れたは昼食をどうするか考えていた。そば、うどん、定食屋はまだやっているだろうか。食べ終わったら、換気扇の修理を依頼しよう、そう思いながら商店街を歩いていた。
「よっ! 久しぶりだな」
 声をかけてきたのはライドウだった。その少し後ろを歩いていた人物に会釈すると、ライドウの相棒、ゲンマも軽く手を上げた。二人は任務帰りなのか、服に泥汚れがついていた。
「今日は非番じゃないのか?」
「ちょっと別件で作業を」
 しかし、なぜ彼が非番であることを知っているのだろう。と思えば、その理由はすぐにわかった。
「さっき、アオバに会ったんだが、……」
 と、ライドウは言い淀んだ。そんな彼を見かねたのか、ゲンマが言った。
「お前らなんか変なことになってんじゃねーか?」
「変なこと?」
 まさかと思いながら知らぬふりをしてみただったが、彼には通用しないようだ。
「何もなけりゃ、アイツが『リーダの素質について』とか胡散臭い本なんか読むわけないからな」
 ゲンマ曰く、本屋でたまたま見かけたらしいのだが、随分熱心に目を通していたというのだ。
「相談なら乗ると言いはしたんだが……」
 聞いていたのかはわからないとライドウはいう。
「アオバはそんな感じで何でもないって言い張るし、トクマは道場に入り浸ってるようだったし。に聞くしかねーなって話してたところだったんだ」
 大したことではないと言ったところで二人は納得しないだろう。そう思いつつも、理由を知ればそんなことでと呆れるのではないかとは躊躇した。
「って、まあなんだ。こんなところで立ち話してもな。どうせお前も、昼飯食ってねーんだろ?」
「ご飯ならちょっと前に、」
と、言った側から腹の虫が鳴く。どうしてこうも自分の胃袋は正直なんだろう、とは思った。



「反抗期?」
 の言葉を聞いたライドウは思わず声を上げ、付け合せのインゲンが箸からぽろりとこぼれ落ちた。
「そんなわけないだろ、しかも、トクマに限って。あいつはよっぽどのことがないとカッとなるようなヤツじゃないからな」
 任務前なら肉を食え。と、半ば強制的に焼肉定食になったは鉄板の上でジュージューと香ばしい音を立てるそれに箸をつけた。ライドウが言うように、トクマがあんな事を言いだしたのはやはり余程のことがあったのだとは思う。
「まあ、アイツも色々あるだろうからな、特に最近は……」
 そう言って、ゲンマは辺りの様子を窺った。
「一ヶ月前だったか、うちはの奴が暗部に入ったろ。そういうのもきっと関係してるんだろう。まあ、お家のことなんてオレたちにはわかりっこない話ではあるけどな」
 だから暇さえあれば道場にこもりっきりになるし、些細なミスだって許せない。完璧に任務をこなしたい。家に帰れば「日向家とは」と言われる。しかも、日向家のご令嬢の相手をするとなるとレベルをぐんと下げた稽古をしなければならない。そんなのが連日続けば、イライラするのは当たり前かもしれない、とゲンマは言った。
 確かに、も日向家のお家事情については残念ながらからきしだった。だが、暗部の件は少し違った。あの時カカシと居たのは、あの少年は——
「うちは……」
「なんだ、。まさか知らなかったとか言わねーよな、お前情報部だろ?」
 呆れた視線を受け、は押し黙った。その様子を見たライドウがそういう言い方は良くないと割って入ると、ゲンマは小さくため息をついた。
「いくら里の外にでてるって言ってもな、噂くらい聞いとけよ」
「そうだね……」
 アオバが反抗期だと言ったのは、あの場をやり過ごす為だったのかもしれないとは思った。そうでなければ、理由を知った自分はきっとトクマをなだめようと余計なことを言っただろう。「そんなの、気にしなくていいよ、トクマくんはトクマくんでしょ?」と。
 安っぽい慰めを求めているわけでないのに——

「どんな事情であれ、和解は早いほうがいい。後悔したときは手遅れだ」
「おい、縁起でもないこというなよ」
 ライドウはちらりとゲンマの方に視線を向けた。
「事実そうだろ。は自分の隊のこと、考えたことあるか?」
「それは、もちろん」
「ああ、言っとくが、“今”じゃないぜ?」
 そう言って、ゲンマはを見据えた。
「正直なところ、オレはお前の隊にトクマがいるのはもったいないと思ってる。ってのも、アイツは探索部隊向きだ。本来なら巻物なんか回収してる場合じゃねーんだ。アオバも同じようなもんだけど」
「でも、あの隊は三代目様がお決めになったことだから」
「問題はそこだな」
「どういう意味?」
「これ以上は言わねーよ」
 余計な世話になるからな、と、それきりゲンマは口を閉ざし、その話題に触れることはなかった。ライドウはゲンマの言葉を黙って聞いていた。意味深なことを言われたはすっかり箸が止まっていた。
 先のこと。トクマの件がなくても、いずれあの隊は解散する—— ということなのか。それとも、もっと他に何か……。
「でもまあ、今回の件はそんなに考え込まなくてもそのうち良くなるだろう。相性が悪いようにも見えないしな。ただ、アオバにはあの変な本を読むなって言ったほうがいいかもな」
「そうだな、余計ややこしくなりそうだ」
 そう言って二人はお茶をすすった。
、早く食わないと肉が固くなっちまうぞ?」
「あ……、ほんとですね」
 ライドウに答えるように、は再び鉄板に箸を伸ばした。



 慌てて食べたからなのか、肉料理を食べたからなのか。胃もたれの一歩手前の満腹感に息をつく。は結構な量だと思ったが、二人の胃袋は満足できなかったらしく、中華まんを買って帰ることで意気投合していた。
 店をでてしばらく歩いていると、遠くの方からバタバタと慌ただしい音が聞こえた。その音にいち早く反応したのはライドウだった。「なんだ?」と呟くと、ゲンマはピンと来たのか眉をひそめた。
「アイツだな」
 もその方向を見て、すぐにわかった。ひゃっという小さな悲鳴は一般人だ。
「おお、探したぞ!」
 そう言ったのは、ガイだ。数時間前に会ったばかりのはずなのに、探したとはどういうことか。
「お前、任務じゃなかったのか?」
 ゲンマの一言に、だから急いで来たのだとガイは言った。相当走り回ったのか、肩で息をしている。
「任務に出る前に、どうしても渡しておかなければと思ってな!」
 家に行っても居なかったからと、風呂敷を渡す相手を見て、ゲンマとライドウは驚いた。もちろん、差し出された本人も驚いたのは言うまでもない。とりあえず受け取ろうとそれを手にしたものの、想像外の重量にぐっと肩が下がりそうになるのをなんとか耐える。
「っ……これって?」
「ダンベルだ!」
「ダンベル……」
「互いに里を空けるかもしれんからな、早めに渡しておいて悪いことはないだろう」
 と、ガイは言うが、こんな頼みごとをした覚えはない。だが、「トレーニングは基礎が大事だ」と、数時間前に話していたような気もする。
「あ、ありがとう……?」
「じゃあな!」
 任務がんばってねという言葉も聞こえているのかわからない程のスピードで、「遅刻する!」と言いながらガイは走り去った。少し遠くの方からまたしてもひゃっと若い悲鳴が聞こえた。
「お前……、まさかトクマの柔拳に対抗する気だったのか? はっきり言うが、そりゃ無謀すぎる」
 ゲンマは引きつった顔で風呂敷を見つめた。
「さすがにそれは……」
「だよな。というか、なんでわざわざ持ってきたんだ、アイツ。普通、家に行った時置いてくるだろ」
 確かにそうだ。この重い物を家まで持ちかえらなければならないと考えるとは少し憂鬱だった。ガイはこれもトレーニングのうちだと見越して持ってきたのだろうか?そもそも、腹筋100回もままならないのに、と、の疑問は尽きなかった。
 その様子を見ていたライドウが不意に声を上げた。
「あ、そうか! 、綱引き大会に出るんだな? 気合入ってるな」
 ライドウはははっと笑った。辺りをみると、店先のポスターが目に入る。町内会のイベントのポスターだった。もちろん、トクマの柔拳に対抗して拳で分かり合うとも思っていなければ、綱引き大会に参加する予定もない。それなのに、の意に反して話はどんどん進んでいく。
「優勝は賞金二百両。四人で参加したとしても……まあ、悪くはねーか。綱引きだしな」
 意外なことに、ポスターを見たゲンマは乗り気だった。
、お前誰と出るんだ?」
 ゲンマとライドウとガイ、そして。この四名でエントリーする気でいるようだ。それを察したはその意向には沿えない、里に居ないかもしれないのだと告げると、二人の視線は再び一点に集中した。
「じゃあ、そのダンベルは?」
 ライドウの疑問にも頷ける。それはが一番聞きたいことでもあるからだ。
「あの、ライドウさん」
「どうした?」
「腹筋に、ダンベルは必要でしょうか?」
 そんな間抜けな質問が飛び出したのは、きっと考えすぎて疲れているからだ、そう思いたかった。だが、こんなことにもきちんと答えてくれるのが、ライドウという男だった。
「多分、今のには必要ないだろうな……」
 困惑を隠しきれないまま、ライドウは風呂敷を見つめていた。



 その後、一旦家に戻り換気扇の修理の依頼に向かっただったが、店に出たのは店主の妻だった。運の悪いことに店主は年数回の行商に出ており、しばらく留守だという。明日からまた任務出ると決まっていたこともあり、後日改めることになった。そして、が向かったのはいつもの場所。
 そこに向かう時は決まっていた。任務が終わり里に帰り、また里を出る時。その直前には必ず山中花店へ足を運ぶ。これをこの一年で幾度となく繰り返した。その一角には、また一つ真新しい名が彫られ、たくさんの花が供えられていた。はそこに近寄ると、束から分けておいたそれを、そっと添えた。墓石の名を見て、何とも言えない気持ちになった。歳は26。痩せ型の面長の男で、階級は上忍。会ったこともないのに顔が思い浮かぶのはどうしようもなかった。

?」

 振り返るとマワシが立っていた。一瞬、どうしてお前がと言いたげな視線をよこしたが、すぐに納得したものへと変化した。
「わざわざありがとな」
「いえ、……」
「いつも来てるのか?」
「任務前と、その後に。最近はあまり顔を出せてないですけど」
 マワシが灯したそれは、やがて一筋の線を描きだした。ゆらりゆらりとこの世を彷徨うように、空へと立ち上っては消えていく。
「それだけでも十分だろ。律儀というかなんというか……」
 墓石を見つめたまま、マワシはすっと立ち上がると、それを見下ろした。
「どれだけ悲しんでも否応無しに日常に戻っていくし、そしてそれは次の日常になる。ここに来るとそれを実感させられる……。来るなとは言わないが、勧めはしないな」


 彼の人は、マワシが言うそれを、次の日常を見つけたのだろうか。
 そう思ったのは、枯れかかった花を目にしたからかもしれない。

 気づけば、そこにマワシの姿はなかった。
 揺らめく糸を見届けると、もその場を後にした。

三、張りぼての日常

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