空蝉-第二章- (注)

 卯の刻にあうんの門。

 一昨日、アオバはそう言った。しかし、指定時刻になっても二人は姿を現さなかった。15分前には集合する、という暗黙のルールもなかったことになっているようだ。

「遅いっすね」 
 研修中の暇をした門番が、一人待ちぼうけているを見てぽつりと言った。幸いなことに天気に恵まれ、森の方から小鳥のさえずりがよく聞こえた。近寄ってきた小鳥たちに無意識に視線を落とすと、三羽がの足元をちろちろと歩き回った。
「さすがにまずいですよ」
 もうひとりの門番も心配そうにする。
 この任務はスリーマンセルだ。そのうち一人が来れない、というのは稀にある話だが、二人が来ないというのも稀な話だった。
 一人で行くことがまずいのか、それとも、二人が来ないことがまずいのか。
 がぐるぐると不毛な議論をしていると、石畳に人影が映り込んだ。


「遅くなってすまなかったな!」
 と言ったのは、アオバ。その隣でげんなりとした表情を隠そうともせず、「すみません」と言ったトクマはどこか疲れているようにも見えた。
「私は大丈夫だけど、ちょっと急がないとね」
 日暮れまでにはどうにかB地点まで進んでおきたい、そう考えていたのはだけではないようだ。急げば日暮れには着きそうだとトクマがいう。二人を見ていたアオバは、徐に背嚢の肩紐を整え、向き直った。

「よーし! 二人とも、しっかりオレについて来い!」

 突然の掛け声に目をしばたたく。
 何かおかしい。
 そう思っているのはだけではないようだ。がトクマに視線を向けると、彼は承知と言わんばかりに小さく頷いた。よく見れば、斜めが定位置の額当ては正しく平行に付けられ、サングラスも何となくお硬いものに変わっている。今日はトクマのためにも絶対に任務を完了しよう、そうは考えていた。しかし、あれではここ最近で最も最悪な任務になってしまうのではないかとは思う。

「ねえ、どうしちゃったのかな?」
 はトクマの方へ歩み寄ると、耳打ちをした。今までは忍具の確認後、「じゃあ、そろそろ行くか。」と落ち着いたアオバの呟きに従うように歩みを進める、というのがいつもの行動パターンだった。
「たぶんオレのせいですね」
 颯爽と前を歩くアオバの背を見つめながら、トクマはまるでこの世で一番恐ろしい物を見たかのようにごくりと息を呑んだ。あれから頭を冷やしたのだと、トクマは前を向いて呟いた。
「私もごめんね」
さんは何もしてませんよ」
「うーうん、私ね……」
 その声は木々が揺れる音でかき消された。バサバサと勢いよく羽音を立て、野鳥が空に羽ばたいていく。だが、の言葉を遮ったのはそれだけではなかった。「さあ、二人とも!元気よく行くぞ!」と、脳天を突くような声が響き渡る。
「……」
 トクマは頭を冷やしたと言った。しかしながら、今一番頭を冷やさなければならない者が目の前にいるのではないか、と思わずにはいられなかった。はてっきり毒キノコでも誤食したのかと思い、背嚢から野草のハンドブックを取り出そうとしたが、そうではないという。

「本?」
「ええ。あれは相当ヤバイ本を読んでますね」
 しかも、品性のかけらもない物だ、とトクマは酷評する。
「トクマくんもその本のこと知ってるの?」
「さっきオレにも勧めてきたんですよ」
 だから話す度に立ち止まらなければならず遅れてしまったのだ、と。いつもは少々強めだと感じるトクマの意見にも今回ばかりは同感だった。は昨日の二人の言葉を思い出した。注視しようと思ってはいた。しかし、たった一日でこんなおかしなことになっているとは思いもしない。
「どうにかしないと……。でも、どうしよう……」
 いつものアオバさんに戻ってほしいと言ったところで今の彼が聞く耳を持つか、疑問である。
「あれ、ほとんど洗脳ですよ」
「洗脳……」
 洗脳というのは説得したところでどうにかなる話ではない。むしろ相手を逆上させることだってある。失敗すれば今より更に崇拝を深める可能性もある。洗脳を解く方法はいくつかあるが、そのうち一つはいのいちしかできない。そしてもう一方も里に戻らなければ難しい。今ここでできる方法は一つしか残されていない。ある意味で賭けだ。少々手荒ではあるが、致し方ない。
「私に一つ考えがあるんだけど……、協力してくれる?」
「ええ、もちろん。アレを止められるならなんだって」
 でないと、何か御札でも貼らない限り正気になりそうではないですから、とトクマは言った。


「アオバ隊長」
 は出来る限り朗らかな口調で声をかけた。
「お、どうした?」
 振り返ったアオバの声は弾んでいた。“隊長”という響きに気を良くしたのか、オレになんでも話してみろと言わんばかりだ。
「聞きましたよ、何か素敵な本を持ってるそうですね」
「ああ、昨日本屋で見つけてな」
「それ、私にも見せてくれませんか? とてもためになる気がしてならないんです」
「ああ、いいぞ、ちょっと待っててくれ!」
と、足を止めたアオバは意気揚々と背嚢から一冊の本を取り出した。
「ありがとうございます。お借りしますね……」
 アオバから本を半ば奪い取るように手にする。題名は『リーダーの素質について』。ゲンマが言っていた通りだ。表紙にはギラギラとした赤と金色の奇妙な模様が描かれていた。気味が悪いのに開いて見たくなる不思議な模様をしている。困っている時に思わず手にしてしまうというのもは分かるような気がした。試しに開いてみようか、そんな気がしてくるのだ。
さん?」
「あっ、うん」
 じっと無言でそれを見たは、それに思い切りクナイを突き刺した。そして、二度と触れないよう起爆札を貼りつける。それに気づいたアオバは「あっ、オレのバイブルが!」とたちが聞いたことないような悲鳴じみた声を上げた。その様はまさに奇怪の一言に尽きる。

、お前なんてことを!」
「ごめんなさい。でも、アオバさんはこんな本読まなくても大丈夫だから」
「代金ならオレたちが弁償しますよ」
こんな本ってなんだ?! それに金の問題じゃないんだよ、これは!……オレにはソレがないと……」
 それを聞いたトクマは一気に青ざめた。だが、それで決意が固まったようだ。
「……失礼仕ります」
 思わずは息を呑んだ。洗脳には洗脳を超える刺激が一番だと聞いたことがあった。しかも、真面目な人ほど深みにはまるのだと……。トクマの華麗な柔拳にが密かに感動を覚えた時。はっとしたようにアオバはこちらを見つめた。今回は効果覿面だったのか、起爆札で木っ端微塵になった本の燃えカスを見ても、アオバは何か気味の悪いものをみたようにサングラスを整えただけだった。そして、額当ての位置も変だと言いながら急いで付け直していた。いつもの位置じゃないと落ち着かないらしい。初めこそどうなのかと思っただったが、それは直ぐ様撤回しようと決めた。このスタイルのほうが、何倍も安心できる。すっかり落ち着きを取り戻した彼に二人は思わずほっと息をついた。
「なんだ? 二人して妙な顔して。もしかして……オレは敵にやられたのか?」
 体の節々が痛むような気がする、とアオバは首を傾げた。そんなアオバに対し、「気の所為では?」と、トクマは何事もなかったかのように、いつものように澄ました顔で呟いた。


 出だしはどうなることかと思ったが、なんとか滞りなく進められている。あんな本を読まなければならない程アオバは追い詰められていたのかとは複雑だった。それはトクマも同じだったのか、言葉通り些細なことで癇癪玉が破裂すような事態も見受けられない。任務はこれまでにないほど円滑に進んでいた。いつも以上にアオバが頼もしく見えるのはあの事があったからだけではないだろう。すべてがいつもどおりに戻ったのだ、はそう感じていた。

「この分だと、予備日は必要ないな」
 日が落ちない内にと、アオバは上機嫌で地図を広げ印を打っていく。物資もすべて予定通り届け、巻物も数は揃っている。黄昏時を前にC地点に近づいてるのは良いペースだ。
「今日はさんの妙な菓子を食っても問題なさそうですね」
「確かに。三つ食っても良いかも知れないな」
 と、二人はにやりとする。
「あ、食べます? ちょうど新作を試したいと思ってたところで、」
 どこに入れたかと独り言を言いながら、は背嚢を探った。
「いや、さっきのは嘘。わかるだろ……?」
 はそういうところがあるからな、と、アオバは乾いた笑みを浮かべた。
「それは残念……。新作があればの話だけどね」
と、冗談を言う余裕もあるほどだった。一人笑みを浮かべれば、一方も口元が綻ぶ。ここに鬼軍曹が居たら任務中だ! と、一喝するに違いないとは思った。


 いつものように山の中腹で休憩を取ることになり、腹ごしらえをすることになった。これは初日ならではの楽しみでもある。というのも、任務中、唯一各自好きな物を食べられる日であるからだ。任務中はどうしてもその辺で取れたものか、乾パンや兵糧丸になってしまうこともあり、米の存在は重要だった。そんなこともあって、涼しい時期は酢飯のおにぎりを持参する者もいる。トクマもそのうちの一人だった。その傍ら、大人二人は無言でいつもの乾パンを頬張った。美味い不味いの問題ではない。わざわざおにぎりを作ろうと思えなくなるのは一人暮らしということもあるかもしれない。その様子を見かねたのだろうか。
「どうぞ。オレが作ったわけじゃないですけど」
 トクマは竹の皮に包まったそれを差し出した。
「あ、私たちのことは気にしないでいいからね?」
「いえ、オレの分は別にあるので」
 その様子を見ていたアオバはさっそく手を伸ばした。
「ならば、いただくとするか」
 少しくらい遠慮したらどうだという視線を送ると、こそこそとアオバは言った。
。これは日向家の握り飯だ。ただの握り飯と侮るな……」
と、アオバは包に手を付ける。言い方から、彼はこれを食べるのは初めてではないようだ。それにしても、少し大げさではないだろうか。おにぎりはおにぎりでしょ?と思うのは言い訳だろうか。
さんも遠慮しないでください」
「美味いから食っとけよ」
 アオバはさっそく包みを解き、ぱくりと一口頬張った。ポソポソの乾パンはいつでも嫌と言うほど食べられるが、こんな機会は滅多にない。どちらを取るかなんてわかりきったことだ、と畳み掛けるようにいう。
「じゃあ、お言葉に甘えて一ついただこうかな……。ありがとう、トクマくん」
 一つ手に取り、包の結びを解く。ほんのりとお酢の香りがするそれに口をつけた。
「な、美味いだろ?」
「……はい」
 隣でトクマが「大げさだな、握り飯ですよ?」と言ったこともある。黙って食べるを見て、アオバは反応が薄いとつまらなそうにした。内心はアオバに同調したい気持ちでいっぱいだった。具の問題か、米の炊き方か、おにぎりがおにぎりじゃなかった……。そう思っているとは全く気づいていないようだ。

 すっかり胃袋も落ち着いてきた頃。余力がある内にもう少し先に進んでおくということで意見がまとまった、はずだった。
「……どうも間が悪いヤツが居るようだな」
 ため息まじりに呟くアオバに、一瞬、はどきりとした。その様子に気づくこともなく、休憩は終わりだとアオバとトクマは背嚢を背負った。も同じように背嚢を背負う。遠くの方で耳を刺すような音がすると、一同は顔を見合わせた。


「……二、三? いや、六だ」

 いつの間にか遠方を見ていたトクマが呟くように言った。
「六? 六人か」
「はい。六ですね、あ、抜けたので五です」
 トクマは淡々と述べる。何が起こっているのかとも辺りを見回すが、人の気配を感じるのがやっとだった。
「トクマくん、抜けたっていうのは、……」
「ええ。……そんなことよりこっちに来ます」
 トクマはクナイポーチに手をかけた。
「敵か、味方か?」
「それは何とも」
「勘弁してくれよ……。トクマはそのまま、、オレの後ろに付け」
 アオバもクナイを手にとった。もクナイポーチに手をかけた。木々の揺れる音が耳についた。少し奥では土埃が舞っているのか、靄がかかったようにぼんやりと影が見える。僅かに湿った土の匂いがする。火の国は連日晴天だった。ということは、これは土遁か水遁、またはその両方か。すると風の雰囲気が変わったのをは感じた。急に静かになったことで胸の高鳴りがうるさく耳につく。
「止まった」
 トクマは遠くの方に視線を向けた。
「よし。警戒しながら、今のうちに退避する。逸れるなよ」
 はアオバに頷くと、太い木の枝に飛び乗った。







 西の空に煌々とする一番星。
 本当であれば、今日はそれを見ている余裕もあっただろう。しかし、今はそれに目を奪われている暇はなかった。退避は間違いではなかったはすだ。息を吸えば僅かに鉄の匂いがする。はそれが生き血の匂いだと瞬時に悟った。まさか、誰か怪我をしたのだろうか。左右に視線を向け、二人の姿を探した。
—— ……!
 ひらりと落ちた黒い羽には息を呑んだ。カラスの群れがたちの目の前を通り過ぎていく。思わず腕で顔を覆うと、自分の術だとアオバが言った。
「目くらましだ。もうちょっと後ろに下がってくれ」
 後方から聞こえる靄がかかったような声に呼応するように、は一歩、二歩退いた。トクマはアオバより後方に居るのか、の視界で捉えることはできなかった。
「おそらくアレは取りこぼしだな」
「え?」
「厄介な感じだな。こういう時は、どうするかわかるな?」
「でも、……」
「余計なことは考えるなよ」
 四の五の言う暇などないのはわかりきったことだった。アオバの言葉には、渋々了解の意を呟いた。






 急に晴れた視界に戸惑う暇もなかった。の視線の先では、肩で息をしている男がこちらを見ていた。急所を外したのか、この男がかわしたのか。男の左手はいつから使い物にならなくなったのだろう。鮮血を流しながら添え物のようにぶら下がっていた手先から、一つ、二つと滴が落ちる。は胸元で握りしめていたクナイを投げつけた。しかし、投げても投げても弾き飛ばされる。は手裏剣を数枚手にした。
—— 当たった!
 空を切るように飛んだそれは、手応えと共に男の呻くような声がした。しかし、変わらず男の勢いは衰える様子はない。武器を絶やせないのは、術を出されれば不利だと理解しているからだろう。ギンっと鈍い音が交差する。雑草を巻き込みながら徐々に滑り始めた足下。クナイを防ぐ手もだんだんとしびれを感じるようになってきた。チャクラを溜めて踏ん張っていなければあっという間に倒れてしまうだろう。

「このっ……」
「油断って言葉、知ってるか?」

 にやりとした男はふっと気を抜いたように弱めたかと思えば、倍の力でクナイを突きつけてきた。
「あっ!」
 ドンっと背中に衝撃が走る。背嚢があったのは不幸中の幸いか。思わずうめき声を漏らすと、男はくつくつと喉を鳴らした。交差したクナイの先が喉元に迫ってくる。
 目の前の刃先。それが首元を……、そう思うと途端に恐ろしくなる。
『ただ死ぬなんていうのは、下手な忍のすることだ。生きた時のことを考えろ』
 が情報部に入った時、耳にタコができそうなほど言われた言葉だ。それがなぜか、今になって強く思いだされる。
 手負いの敵に殺されるなんて、情けない。
 ただ逃げるなんて、みっともない。

 はふと、ぎらりとした男の目つきが気になった。死期を悟り生にしがみつくのとはまた違う、そんな気がした。
 アオバの言葉が脳裏に浮かんだ。その瞬間、は可笑しく思った。それならいつもの事じゃないか、と。
 は自分のクナイを離し、相手の手首を掴んだ。そして、開いた方の手のひらで男の頭上を押し上げる。幸いにも男は印を結んだことに気づいていないようだった。悟られずにどこまでいけるのか、ハラハラする。男と同じように、脈が早くなる——は小さく息をつき、一点に集中した。



 黙り込みやがって……ビビってるのか?
 まあ、喚く女よりマシかうるせーのは頭に響く
 問題は、この女をどうするかだ
 この女なら片腕だってなんとかなるか……
 まてよ……こいつ、なんでさっきから ——



 突如、ぐらりと視界が揺れ、目が眩む。

「うっ……」
「お前、——

 その言葉は続かなかった。
 誰か来る——
 その刹那、青白い一閃が筋を描いた。男の鋭い眼光に驚きや苦痛が混ざり合う。そして、どこを見ることもなくどさりと横たわった。

「油断したな」
 ぽつりと言ったのは、面をした男。血で塗れた短刀を一振りし、それ鞘に収める頃には数人の忍が集まっていた。三人すべて、木ノ葉の暗部だ。
 どこかで見たことが、どこで見たのか……。が考え込んでいると、途端にその男は焦りだした。そうは見えなかったものだから、と。どうやら黙り込んだのは怪我をしたからだと思ったようだ。
「あ、私は大丈夫です」
 その男の手を借りながら、どっしりとした男の重圧から開放されゆっくりと立ち上がると、目の前の男はほっとしたように息をついた。
「そうですか、それはよかった。いや、よくはないか、……」
 これはまずいなと、のつま先から頭のてっぺんまでまじまじと見つめる。
「すみません」
 ちょっと手元が狂ったのだと言って、その男はバツが悪そうに頭をかいた。
「いえ……」
 そんなことより早くアオバとトクマを探さなければ。がポーチから小さな巻き物を取り出した時だった。
「謝ることなんてないわよ」
 やや高めの声色。暗部のくノ一が木の上からこちらを見下ろしていた。
「アンタ、情報部でしょ?」
「はい」
 の返事を聞くや否や、ため息をつく。
「アンタたちがどんくさいから私達の仕事が増えるのよ」
 不機嫌そうに呟くくノ一に、別の男が賛同するように頷いた。
「元はと言えば、アンタたちがしっかりやってくれたらこんなに追いかける羽目にはなってないんだから」
「え……?」
「見た感じ、アンタもどんくさそうだしね?」
 荒々しいものがじわりと腹の底からにじみ出してくるのをは感じた。
 みんなは違う、私とは違う—— 、今にも叫んでしまいそうだ。



「勝手なことを言うなよ」

 その声に、女は鋭い視線を向けた。
「アオバさん、」
「無事だったか。悪い、ちょっと手こずった。予想外だったとはいえ、」
 を見たアオバは眉を寄せた。直ぐ側に横たわっている男をみて大体の想像がついたのか、小さく息をついた。
「怪我は?」
「いえ。アオバさん、トクマくんは」
 気配もなければ姿も見当たらない。表情を曇らせたにアオバは言った。
「安心しろ、トクマも無事だ。もうすぐ来る。それより……」
 再びくノ一の方を見据えた。
「忘れてるようだから教えておくが、こっちだっていい迷惑してるんだ。せっかく計画通りに進んでたっていうのに」
「あら、私はアンタのことも言ってんのよ? いつもと同じペースでいてくれたらこの女も巻き添え食うこともなかったのに」
 いつもはまだ後ろじゃない、と鼻で笑う。だが、アオバはその嘲る様子を見ても冷然としていた。
「そういう大口叩く暇があったら任務を全うしたらどうだ」
「は? いきなり何よ、偉そうに」
「お前はくだらない挑発に乗ってすぐカッとなる……」
「何が言いたいのよ」
「こいつもその悪いクセで取り逃がしたんじゃないのか?」
 図星なのか、くノ一はじろりと睨んだ。アオバは面の女が誰かわかっているようだ。何か因縁でもあるのか、二人の間には見えない火花が散っていた。
「あー、こんな所で喧嘩はやめてくださいよ。一応、任務は続行中なんですよ? ただでさえややこしいのに、こんな事が先輩に知れたら——
 と、男の言葉はそこでピタリと止んだ。さっと影が動く。すると、女も借りてきた猫のように大人しく口を閉ざし黙り込んだ。



「遅いと思ったら、何の騒ぎだ」
 
 がらりと空気が一変する。
 面をした男。それがカカシであるとはすぐにわかった。さっと周囲を見渡した視線はすぐに喧嘩を仲裁しようとした忍に定まった。
「これは?」
「すみません、少し手違いが。」
 それに続くように、アオバに文句を言っていたくノ一が「すみません」と言うのを耳にする。
「先輩、あっちはありました?」
「いや、それらしい物はないな」
 そのやり取りを呆然と見ていたはふと妙な感覚がして、頬に手をやった。べっとりとした感触に手のひらを見る。ごろんと横たわった男の首元には血溜まりができ、ピクリともしない。たった一振りで……。息を吸うと、嫌な匂いが鼻につく。辺りはついさっきまで小競り合いをしていたとは思えないほどに静かだった。

 突如、何かが肩に触れ、思わずびくりと肩を揺らす。気がつけば、アオバが心配そうにこちらを見ていた。その傍ら、近寄る人影に気づきつつも、は顔を上げられなかった。

「ほんとに?」
「はい」

 面の下から窺う視線に答えるように、は深く頷いた。それを見ると、カカシはアオバの方へ向き直った。何の話をしているのか、アオバの返事はどれも短いものばかりだった。
—— では、そういう事で。……、そろそろ行くぞ」
「でも、いいんですか?」
「ああ。この件はオレたちはもう関係ない、というか、関われないからな。トクマが少し先で待機してるらしい。早く行ってやらないと。水場にも寄らなきゃな」
「わかりました……」
 アオバに続こうと向き直っただったが、次の言葉に身を強張らせた。

「隊長、この男はどうしましょうか」

 は思わず足を止めた。それに気づいたのはカカシだった。
「どうかした?」
「あの、」
 確かめるように、ちらりとアオバを見ると一瞬驚いたような表情を浮かべ、眉をひそめた。
「この男の胸ポケットの左……」
 ぴりっとしびれたこめかみに手を添える。なかなか先輩のように上手くいかないなとは思う。何をしているんだという疑問の視線を感じる中、事情を理解したであろうアオバは口を挟むことはなかった。
「ポケットの裏」
 —— 早くしなきゃ。
 焦れば焦るほど色のあるそれは波紋を描きながら滲んでいく。慌てなければうまくいく—— そう言い聞かせるように、ゆっくりと呼吸を整えると再びそれは色を取り戻した。
「内側。内側の布の間に何か、……」
 男の脈拍を思い出す。緊張、焦り、不安。おそらく、ただの紙切れではない。手紙でなく、考えられるもの。たとえば、密書 —— 。その瞬間、男の記憶は大きく波紋を描きながら闇へと沈んだ。にはどうすることも出来なかった。すべて消えてしまったのだ。

「……ごめんなさい。やっぱり、今のは忘れて」
「え?」
「不確かだから」
「もう一度試してみたら?」
「それは、できない……。もう見れないから」
 最後は消え入るような声だった。情けないし、恥ずかしい。ふんっと鼻を鳴らす女に言い返すこともできず、はただ俯いた。

「なら、こっちで確かめたらいい」
 その言葉に納得がいかなかったのか、恰幅の良い男が反論する。
「隊長。この女がいい加減なことを言ってるかもしれないのに信じるんですか?」
 時間の無駄だと睨まれる。は何も言えないまま立ち尽くすしかなかった。カカシは無言で横たわった屍に視線を向けた。その視線を受けた男は小さく息をつく。カカシのことを“先輩”と呼んでいた男だ。
「了解……。でも、無いのは事実ですからね」
と、その男は胸ポケットを探り、クナイで布を切り裂さいた。そこまで見届けると、とアオバはその場を後にした。

四、夕凪に見ゆ

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