空蝉-第二章-

 アオバに促され川までやって来たはそっと手を入れた。そして、腕や顔の汚れを洗い流す。芯から熱を奪うような川の水は身にこたえた。

「これが限界かな」
 後ろを振り返ったはつま先から胸元まで視線を巡らせた。いくら替えの服があると言っても、ベストやズボンはどうしようもない。
「あ、さっきより全然いいですよ。匂いはちょっとありますけど、薬草で誤魔化せるでしょうし」
 少なくとも会った時よりだいぶマシになったとトクマは言った。


「トクマくんは、見たことあるの……?」
 それは唐突だったに違いない。
 振り返ったトクマはじっとの方を見つめると、ぽつりと言った。
「ああ、……前に何度か」
「そうなんだ……」
「と言っても、オレの場合は遠目で見ただけで、彼らが気づいたかはわかりませんけどね」
 合流地点でを見たトクマは一瞬固まったように動かなくなった。何があったのかと問い詰められたものの、すぐに事情を説明すると彼の答えはあっさりとしたものに変わった。その様子が気になっていた。まるで以前も同じことがあったかのように感じたのだ。

「まあ、驚きますよね、暗部はいつも謎だし。人から聞くのと実際に見るのとじゃ大違いだ」
「……トクマくんも、暗部に入りたいと思ったことある?」
 背嚢から手ぬぐいをひっぱり出そうとしていたトクマははたとその手を止めた。
「オレが? どうしたんです、急に」
「あ、ほら、暗部と言えばみんな一度は憧れるものかなと思って」
 あのうちは一族だっているのだ。もしかしたら……。はそう思っていた。
「それは声がかかってみないとなんとも。さん、暗部に興味があるんですか?」
「うーうん、そういうわけじゃないけど……」
 これっぽっちも思ったことがない。などと、仮にも年上の自分がそんなことを言って良いものかとは思う。
「でも、誰しも憧れるわけじゃないと思いますよ?」
 そう言い残し、トクマは自分も顔を洗うと入れ替わるように川辺に向かった。


 たちが待機場所へ戻り、真っ先に視線を向けたのは焚き火だった。
「冷えたんじゃないか? こっちに来いよ」
 一番暖かい場所だとアオバは自分の向かい側を指さした。
「ありがとうございます。あの、アオバさん、このお魚は?」
 どういう風の吹き回しだろうか。は思わずアオバの顔を見つめた。火の回りを串に刺さった川魚が囲っている。
「美味そうだろ? 久しぶりだったが結構上手くいったからな」
 川に行っていた時間はそう長くなかったはずなのに、魚は人数分を満たしていた。しかも、どれも程よく肥えている。アオバの口ぶりから、きっとそれは普段イメージするような釣りとは違うのだろう。ぱちぱちと音を立て始めたそれを見て、アオバは上機嫌に口元を緩めた。そんな彼を目にし、トクマはいう。

「それ、川下で獲ってないですよね?」

 は恐る恐る二人の様子を窺った。また喧嘩になったらどうしよう、そう思っただったが、今回ばかりはその心配は無用だった。

「そんなことするわけないだろ?」
「念の為ですよ」
 アオバがため息をつくと、トクマは続けた。
「でも、これはありがたいです。任務中に食うのはいつぶりかな」
 焼けるのが待ち遠しいと言いながら、トクマは目元を緩めた。獲れたては格別だと。
「そうだな、ランカが居た時に一度あったか」
「あの時は途中で熊が現れて一苦労した覚えが……」
「あれはオレたちの鱒狙いだよな」
「あー、今思えばそうかもしれないな。あれは何で釣ったんでしたっけ?——

 そんな調子で二人は何事もなかったかのように普段通りに思い出話に花を咲かせた。不思議と疎外感はない。彼らの話に耳を傾けているのは、にとって心地のよいものだった。




 結局、里に戻ったのは予備日の最終日だった。火影室に向かう足取りが止まったのは、ガラス戸に写った姿を目にした時だ。
 日が落ちたとは言え、人目は避けたいというのがの心境だった。何か大きなことをしたかのようで少々居心地が悪い。

「この格好、さすがにちょっと失礼かな?」
「大丈夫だろ、誰も気にしちゃいないさ」
 特別な来客、例えば火の国の大名。彼らなら、の格好にぎょっとするかもしれないが、今の所その予定はない。何の問題もないはずだとアオバは言った。
「しかし……今だから言いますけど、ゾンビが歩いてるみたいでしたよ? あ、今はマシですから」
「そう? それならいいんだけど……」
 ぎこちない笑みになったのは、それがいつもの冗談なのか、青年の素直な言葉だったのか判断しかねたからかもしれない。その様子を見たアオバが口を挟む。
「……が言わないからオレが言うぞ。も先輩だからな? しかもカカシさんと同期だ」
「あっ、」
 最後は関係ないんじゃない? というの気持ちは発せられることはなく、トクマによって遮られた。
「へー、はたけカカシさん……」
 と、珍しく驚くトクマにどう言えばいいのか、どう思っているのかと、の胸中は騒がしくなる。
「でもねトクマくん、同期って言っても何もないよ? だから相談のお願いとか、言伝とかはちょっと難しいというか……、あっ、アオバさんの方が近いんじゃないかな?卒業試験とか」
 助けを求めるかのごとく、ちらりと隣を見やると視線がかち合った。
「卒業試験か。懐かしいな……」
 思い馳せるアオバを見て、トクマは考えるように指折り数えた。そして、「やっぱり凄いな、あの人」と呟いたのをは耳にした。



 火影室に向かう途中、時々視線を感じたものの、アオバが言うように驚いて飛び退くような者はいなかった。ぱっと視線が合った時、「何かあったんですか?」と顔見知りの忍が声をかけた程度だ。ベストに濃いシミを作って帰って来ても驚きはしない。三代目も事情を把握しているのか、特に理由を求めることもなく、いつものように「ご苦労」と労いの言葉をかけるに留まった。

 ただ、アパートの住人は別だ。の住むアパートは女子専用ではあるが、忍専用ではない。 誰にも気付かれないように、こっそり階段を上がっていると、カンカンとヒールの音が勢いよくこちらに近づいてくる。が慌てて振り返ると、そこには隣の住人が立っていた。
「こ、こんばんは」
「やっぱりちゃんだ、久しぶり! ……って、これはまた……、珍しく派手にやったね」
 目をぱちくりさせるだけに留まった彼女に、は内心驚いた。悲鳴を聞いた大家さんが駆けつけるということも十分にあり得ると考えていたのだ。
「あ、悪い意味ではなくてね? そういうのって洗濯が大変だろうなーって思ったの」
と、あっけらかんとしている彼女の彼氏は第一線で活躍する忍だということをすっかり失念していた。他の住人ならこうはいかないだろう。

「そうだ、ちゃん。この前友達が来たみたいだったよ」
「え、それって男の人?」
「うーうん。たまたまここで鉢合わせたんだけどね、すぐ帰っちゃった。髪の長い女の子なんだけど、知ってる?」
 髪の長い子、と言えば思い当たる節はある。
「そうなんだ、わかった。ありがとう」
「じゃあね」
「う……ん」
 唸るを見て、彼女は笑いながら「もし開かなかったらうちにおいでね」と言いながら部屋に入っていった。鍵をしまうのは背嚢の内ポケット。何かが引っかかっているのか、キーホルダーを握っても肝心の部屋の鍵が顔を出さなかった。もたもたしながらやっとのことで引っ張り出すと、ぽろりと血痕のついた布切れが飛び出したのだった。


 脱衣所で改めて鏡を見たは絶句した。隣人の反応があの程度で済んだのは奇跡だと言っていいだろう。忍であるが見てもひどいものだと思う。あちこちに血痕が付着し、ズボンを脱ぐとバリバリと音を立てそうな程に固まっていた。まるで戦場に飛び出したかのようだ。洗っても落ちはしないだろうと、濃紺のシャツとズボンをゴミ袋に突っ込んだ。そして思い出すのは、血まみれの自分やごろんと横たわった遺体だ。急所を一突き—— それを意図も簡単にやってのける。それがどういうことかわからない程腑抜けではない。自分たちとはまた違った、彼らの日常を目にしたのだ。恐ろしさや哀しさなど色々なものが混ざり合う胸の内は何とも言い難いものに変わっていく。その感情は苦しさと似ていたかもしれない。
 熱めのシャワーをこれでもかというほどに浴びると、浅黒いものが渦を巻いて排水溝へと流れていった。この時何故か、いつかの母親の言葉がぽっと浮かんだ。忘れかけた呪縛を思い出すかのように。
 私達の世界はそういう場所なのよ——






 長いシャワーを済ませ、冷蔵庫を見たはがっかりした。何一つ腹を満たせそうなものがなかったのだ。今度は日持ちするようなものを買っておこう。そう思いながら財布を掴んだ。
 夜道を歩きながら、先日の事を思い出しては度々ため息を吐いた。情報部を馬鹿にされたこと、自分の不甲斐なさ。一瞬、諦めたこと。そして、最後のあれは完全に実力不足である。自分にできることはこれだけだと思ったものの、あの様だ。今更考えても無意味であり、終わったことだ。ガイを見習う、そう思ったばかりなのに—— 。意識して顔を上げなければ、いつまでも足元を見つめていただろう。
 しゃんとしなきゃ。
 そう考えたはずが、それはあっという間に無かったことになった。数メートル先の後ろ姿を目にした途端、忍び足になる。特に声をかけることもない。そのうちどこかで分かれるにきまってるよね、そう思いながら、はその背を見つめた。

 次を右に曲がるかもしれない。次を直進するかも。
 何度そう思ったことか。
 困ったことに、その背は全く道をそれようとしなかった。それどころか、が進もうとする先へどんどん進んでいくのだ。そしてようやくまずいことになっていると気づく。これって—— がそう思った時、その足はぴたりと静止した。
 
 振り返ったカカシに思わずも足を止めた。先日の出来事が瞬時に思い出される。
「こんばんは……」
 と、言いはしたものの、それだけでは気まずさを消すことは出来なかった。カカシが何も言わないのを良いことに、の口は勝手に喋りだす。
「違うの、私はただ、そこの蕎麦屋に行こうと思ってただけで……」
 決して後をつけた訳ではないのだと、はのれんを見つめた。『そば処』と書かれているそれからは、茹で汁や天ぷらの匂いが漂っている。ああ、まただ——、そう思ったのは言うまでもない。一人で勝手に何を言っているのだろうと肩を落とした。
 すると、店の外観をじっと見ていたカカシがぽつりと言った。
「……この店、立食いだけど?」



 
 いつものようにのれんをくぐると、無愛想な店主がこちらを見つめた。軽く会釈し、開いている場所を探しているとちょうどスペースが空いた。

「どうぞ」
 店主の渋い声。は促されるようにその場所へ身を埋める。店内ではいつものむさ苦しい男たちが豪快に蕎麦や揚げたての天ぷらを頬張っていた。
「お前さんはいつものでいいかい?」
「えっ?」
「かけ蕎麦の並、だろ?」
「あ、はい!」
 思いがけない言葉には思わず声を張り上げた。
「で、そこの兄さんは?」
「かけ蕎麦の並」
「はいよ」
 店主が厨房の作業に戻ると、は店内を見渡した。どこも変わらない、ここはいつもの立食い蕎麦屋。それなのに、ちっとも落ち着かない。里を空けている間に常連客へ昇格していたこともあるが、カカシが自分の隣にいる。それが最大の理由だとは自覚していた。なぜこんなことになっているのか。もちろん、「せっかくだから、一緒にお蕎麦でもどう?」と気さくに声をかけたからではない。たまたまカカシもこの店に行こうとしていた、それだけのことだった。

「ここ、よく来るの?」
「うん……」
 情報部の行きつけなの—— と言うつもりが、一旦息を吐いたからか、喉に蓋をしたように続かなかった。今日はやけに蕎麦が遅い。何かあったのかとカウンターの先を見つめるが、店主の手付きはいつもと変わりないように見える。アルバイトの男性もいつもと同じ青年だ。しばし続く沈黙を紛らわすように、は店内の時計の針を見つめた。
「換気扇は直った?」
「……あ、この前はご主人がいらっしゃらなくて。明日また行ってみようと思ってる……」
 そう言いながら、実のところ、連日のごたごたで換気扇のことなどすっかり忘れていた。カカシが換気扇のことを覚えているのも驚きだが、こうして鉢合わせになったのはそのせいだと言っていい。明日こそ、今度こそ予約をして修理をしなければ。それにしても、今日はどうして蕎麦が来ないんだろう?—— と、考えていたは、またしても黙り込んでしまったことに気づくのが遅れた。今度こそカカシが口を開くことはなかった。周りの話し声と厨房から聞こえる音が店内で混ざり合う。騒がしい店内。それにもかかわらず、カカシとの周りだけまるで一枚板で隔てているかのように沈黙が漂っていた。

「……この前は、」
 
 ことん、というテーブルの鈍い音と共に、の目の前に湯気が漂う。

「並、おまち!」
 蕎麦の出来上りに、密かにはため息を漏らす。つい数秒前まで首を長くして待っていたはずなのに……。店主に礼を言いながらカウンター越しに差し出されたそれを手に取ると、はやっと蕎麦屋にいると実感した。ふーふー冷ましつつ箸をつける手つきはいつもよりもゆっくりとしていたかもしれない。
「猫舌?」
「え? うん……」
 何か話しかけた方がいいのか、それとも黙々と食べるべきか。頭の中で再び話題探しに奮闘し、一つ思いついた頃には蕎麦も程よい熱さになっていた。むしろ、すこし伸びてしまったかもしれない。隣からすっと伸びた手が七味を手に取ったのを見て、思い切って切り出した。

「そう言えばね、ゲンマくんたち綱引き大会に出るんだって」
 しかし、思うような返事はなかった。いきなりのことで意味がわからないのかもしれない。カカシは忙しい身だ、なんのことだと疑問に思っていてもおかしくはない。
「綱引きは町内会主催で、一等は賞金が二百両でるらしくて、綱引きなら楽勝かなって。ガイも誘うって言ってたよ」
「それで張り切ってるのか」
「ガイはそういうの好きだよね」
 密かには胸を弾ませた。やっぱり仲がいい人の話は気になるのかな、ガイが知ったらどんな反応をするだろう。そんなことを考えながら、は再び箸を伸ばした。

「それで、この前ガイにダンベルをもらったんだけど、」
「それはお嬢ちゃんも参加するの?」
「うーうん。私なんかが参加したら……」

 慌てて隣を見てはっとした。話したこともない知らない男が立っていたのだ。そしてその人物がいつもの常連客の一人だと気づく。カカシくんは? という疑問を見透かしたように、店主が言った。
「兄さんならさっき出ていっちまったよ」
「そう、ですか……」
 いつ入れ替わったのか、考える間もなかった。恥ずかしくてたまらなかった。だが、話しかけられた本人は勘違いの人違いとは思ってはいなかったようだ。「お嬢ちゃんにはちと難しいかもしれないが、俺ならいけそうだ」と、意欲をみせる。聞けば職業は大工をしているという。腕力なら自信があると自慢の腕っ節をに見せつけた。
「弟子を二人誘えばそこそこ良いところまで行けそうだ、そう思わないか?」
「そうですね、優勝、しちゃうかもしれないですね」
 お世辞と言いたいところだが、本当にやりかねないのではないかとは思った。確かに自信があるだけはある。ゲンマたちの優勝が危ぶまれる腕をしていた。
「それに綱引きって言ったら、腕より足腰だろ。優勝したらお嬢ちゃんの蕎麦代おごってやるよ。女の子の常連なんて滅多にいねーもんなぁ」
 そう言われて確認しないわけにもいかず足元に視線を向けると、その男の太ももはパンパンだった。角材を担いで俺に任せとけと意気揚々と仕事をする姿が目に浮かぶ。こんな大柄な男が隣に居るのに気づきもしないなんて。この大工がカカシに化けていたのでは?
そんな考えが過った。そのほうがよっぽど現実的だと思うのだ。

—— ご馳走さまでした。」

 常連の大工にエールを送り、店主に代金を支払い、すっかり満腹になったはほっと息をついた。どうしていつもいつも……。ため息を吐きながらのれんをくぐってぎょっとした。

「あ、……待ち合わせ?」
「ちょっと、話したいことがあって」
 話したいことと言うのなら、相手は暗部の人だろうか。カカシも自分から誰かを誘うことがあるんだな、そう思いながらは自宅の方へ向き直った。しかし、一歩踏み出した足はその場で踏みとどまる。何時かと同じように腕を掴まれたはゆっくりと背後に視線を向けた。

「あのさ、オレの話聞いてたよね?」
「え、…………私?」
「ほかに誰がいるの……」

 その声は今までに聞いたことがないくらい、ひどく呆れていた。





 一歩先を歩くカカシを見つめながら、思い出すのは一年前のことだった。あうんの門で別れ、特に会うこともなければ話すこともなかった。そして久ぶりに会話をしたのが、この前の夜。そして、今に至るわけだが、カカシが話をしたいとはどういうことだろうか。まさか、一年前のことを蒸し返すつもりなのか、それとも先日の任務のことか。もっと詳しく聞きたいと言われたら、と密かに不安を募らせた。あれからもう一度思い出そうと粘ってみたが、真っ黒になった記憶に再び色が戻ることはなかった。完璧に無になってしまったのだ。カカシが何を考えているのか分からず、はただ黙ってその様子を見つめるばかりだった。

「テンゾウ、」
 ぽつりとこぼし、カカシは口を噤んだ。
 『テンゾウ』—— には聞き覚えのない名だったが、真っ先に面をした男が思い浮かんだ。カカシのことを「先輩」と呼ぶあの男のことだ。
「……その人が、どうかしたの?」
「服を汚したから悪かったって。あと、色々言った奴がいたみたいだったから、それも」
「あれは仕方ないよ……、それにこっちだって色々言ったし、お互い様」
 全く気にしていないか、というと嘘になる。だが、それをカカシに言ってもどうしようもないことだ。それにしても、制服一つ気にするなんて、そのテンゾウという男もずいぶん義理堅いとは思う。どんなに非があろうと、絶対に謝らない忍だって居るというのに。

「もしかして、それでわざわざ声をかけてくれたの?」
「まあ、そんなところ」
 すこし意外だった。例えそれがたまたま居合わせたついでであったとしても。それにカカシは後で来たのだからほとんど関係ないと言ってもいい。そこまで気にする必要はないはずだ。

「あと、あの人は誰ですか?ってオレに聞くもんだから、適当に答えておいたから」
 思いがけない言葉にはどきりとした。
「適当って言うと?」
「情報部の人」
 なんだ、そんなことか。
 ほっとしたものの、ふと思う。
「……それで、その人は納得したの?」
「しなかったから、ちょっとつけ加えておいたけど。」
 カカシは平然としているが、は気が気でなかった。付け足すと言ったら、その人物のイメージしかない。カカシがどんなイメージを持っているかなんてわかりきったことだ。自分で言うのは実に滑稽かもしれない。
「それって、……例えば、気の弱い女、とか?」
 冗談でも嫌味でもなく本気でそう思っていた。しかし、なぜかカカシは呆れたように、それでいて少しおかしそうに目元を緩めた。思わずがカカシの顔を覗き込むと、カカシはポケットに手を入れながら「確かに、それもありだったかもね」と、ぽつりと言って口を噤んだ。

 すっかり本当の事を聞き損なってしまったはもくもくとその後を追った。黙って歩き続くこと数分。あれっと、思った時にはすでに家の前。もしカカシの家が逆方向だったら……、そうでないと思いたい。何も考えずに歩いてしまったのを後悔した。「それじゃあ、」と、がカカシの方を向き直った時だった。

「出かける前に約束でもしてた?」
「うーうん、約束なんてないけど……、どうしたの?」
「……いや、なんでもない」

 カカシが玄関先を見つめていたような気がして、それとなく視線を向けただったが、特に変わった様子は見受けられなかった。

「あと、この前のことだけど」

 話はここからだ。そう言われた気がしてずんと胃が重くなった。すっかり気を抜いていた心臓は途端に煩くなる。はだんだんと自分の表情が曇っていくのを感じた。特別聞くつもりはなかった。にはカカシたちの任務が何であったのか、なんとなく想像がついたこともある。

「二人にも黙っておくように言っておいてほしいんだけど」

 それはの想像どおりの言葉だった。
「……わかった、伝えとく」
 ごく当たり前のことを言われているにもかかわらず、胸のあたりがちくりと傷んだ。あの二人は言いふらしたりするような人じゃないのに……。無意識に足元を見つめたにカカシが言った。

「誤解してるとまずいから言うけど、こういうことは立場上言っておかないとってだけの話ね」
「えっと、……」
 顔に出ていたのか、見透かされたようできまりの悪さを感じた。思い返せば、カカシは暗部の者に何度も『隊長』と呼ばれていた。責任を負うのが、隊長の役目。きっと、そういうことなのだろう。
「その、ごめん、私……」
 俯くと、カカシは小さくため息を吐いた。

「前も思ったけど、そういうのって別に謝ることでもないんじゃない? それとも、大人しくしなきゃいけない理由でもあるの?」


 この時、は理解できずにいた。困惑した。カカシが立ち去った後もその場に立ち尽くした。それってどういう意味 ? 何が言いたいの? 次々と疑問が溢れでる。仮にカカシがその場に居たとしても、それに答えることはなかっただろう。良くても一言、「さあね」と呟くくらいのものだ。わかっているのに、疑問の渦は消えることなくの思考に留まり続けた。

五、暗々裏

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