空蝉-第二章-

 時折波紋ができるその様は、人の記憶を見たときと少し似ている。
「だから、私は餌をやりにきたんじゃないんだってば……」
 これを見て。額当てもしてるし、印も結んでるでしょ?
 池の魚たちにはそう見えたかもしれないが、自分は餌やりのボランティアではないのだ。は波紋を見つめながら、無意識にため息を漏らした。


 が押し入れから参考書を引っ張り出したのは先週の休みのこと。端の折れた冊子を広げると、いたるところにマーカーで印がついていた。十年前の「」は思いの外熱心に術の習得に精進していたようだ。しかし、それもあるページでピタリと止まっている。すっかり薄汚れたページを目にし、は苦笑いをした。

 こんなことならわざわざここに来なくても良かったんじゃないか。そんな風に思えるのは、全く進歩がない自分に愕然としたからかもしれない。虎の印。それは間違っていないというのに、熱風すらでないのはどういうことか。無人の船着き場でどうしたものかと考える内に自然にその視線はきらりと光る水面に注がれた。ほとりにやってきたのはぼんやりと水面を眺めるためではないというのに。
 そんな感じで過ごすこと数分。成果を感じられない間に足元には魚たちが集まっていた。普通ならあっという間に安全な池のど真ん中へと逃げていくのだが、彼らには全くもってその素振りをみせない。この女は危険ではないと思っているようだ。しかし、そのように見えているのは彼らだけではなかった。


「ねえねえ、オレにも少しちょーだい!」
 気づけば見知らぬ少年が隣に立っていた。池を見て好奇心を募らせたのか。
「あ、ごめんね。私は……、うーん、ちょっとまってて」
 よく見れば近くに魚の餌の販売台がある。間違いは自分の方だったのだ。どうりで鯉が寄ってくるはずだ。
—— 仕方がない。
「はい、これ。私の代わりにあげてくれる?」
「えっ、いいの!?」
 嬉しそうな顔をする少年におもわずこちらまで頬が緩みそうになる。小袋だと思ったそれは、小さな手には溢れんばかりだった。
「うん。でも前のめりにならないようにね、池に落ちたら危ないし。それにこの池、大きなデンキナマズがいるから。じゃあね」
 
 まあいいか。そんな風に思えるのはその子供の幼気な表情に魅了されたからかもしれない。とりあえず場所を移動して、それからまた続きを、そう考えただったがそれもままならなかった。


「随分辺鄙なところに居るな」
 ふらりと目の前に現れたのはアスマだった。会うのは久しぶりのことだ。
「池なんか見て何か……、ああ、あの坊主か?」
「え……あ、うん。そんなところ」
 アスマの視線の先には向こう側の畔ではしゃぐ子供の姿があった。さっき、餌をやりたいと言い出したあの少年だ。
 安易に餌を買い与えたのはよくなかった、そう思ったのは餌袋を渡した直後のこと。池にドボンという音がしなかったかと気になって仕方がない。すっかり修行どころではなくなってしまったのは言うまでもなく、少なくともあの袋の中が空にならないことにはここから離れられそうにもない。

「何かあったの?」
 わざわざ探しにきた、そのように見受けられた。するとアスマは「ちょっとな」と口を濁し、視線を泳がせた。彼にしては珍しく歯切れの悪い返事だ。

「あっ、遅くなっちゃったけどおめでとう」
「ん?……ああ、ありがとな」

 守護忍十二士に選ばれたのがアスマだと知ったのは、あの招集から程なくしてのことだった。忍者登録証の差し替えをするために作業場に立ち寄った際、ランカが話かけてきた。情報部で既に話が伝わっていたらしく、知っているのは至極当然と言わんばかりだった。「さすが、当たり年だな!」と。その意味がわかるまでしばらくかかったのは言うまでもない。一昨年、彼と交代するまで「自分だけいつも蚊帳の外だ!まさか三代目様……オレも情報部だって忘れてない、よな……?」 と彼が嘆いていた理由がよくわからなかったが、最近はその意味がよく理解できる。里を出て、ほんの少し情報収集を怠っていると、それだけであっという間に忍の世間話についていけなくなることがあるのだ。状況は目まぐるしく変化している。

「よかったね。それで、いつ立つの?」
「明日の朝」
「えっ、そうなんだ……じゃあ、その準備のことで?」
 地図や資料でも揃えたいのだろう、そう思ったが、どうやらそれは違うらしい。
「それもなんだが、実は一つ頼みたいことが……」
 そんなに大したことではないと言いつつ、ちらりと辺りの様子を窺うアスマは、なんとなくそわそわとして落ち着きがないように見える。
「場所、変えようか?」
 子供の方を見れば、あと少しで餌をやり終えるところだった。
「いや、むしろここの方が助かるというか」
「そう……?」
 どうしたのだろうか。なかなか切り出せずにいるアスマを見ていると、なんだかとてもむず痒い。もしかすると、自分はいつもこんな風に話を待たせているのだろうか、とは思う。だとするなら、一刻も早く改善しなければならないだろう。まどろっこしくもたもたとされるのが、こんなにもやもやするとは……。ただし彼の場合、それは一時的なことだった。
「アイツ、ちょっと勝気というか、気が強いところがあるだろ? だから要するにそういうことだ」
 それは少々早口だったが、理解はできた。
 要するに、そういうことなのだ。
「……わかったけど、どうして私に? アドバイスならガイやゲンマくんの方がいいんじゃないかな?」
「女同士だし、の方が色々話しやすいだろ?」
「でもそれなら男の人の方がいいでしょ?」
「それだとややこしいだろ」
「そうかな?」
「そうかなって、お前な……」
 万が一ということも、アスマは考えているのだろうか。もしかすると、男同士でしかわからない部分があるのかもしれない。しかし、ガイやゲンマがアスマと張り合って紅争奪戦を繰り広げるとは到底思えないのだ。
「私は大丈夫だと思うんだけど、……」
「なあ、……。確認だが、今、何の話をしてる?」
「何って、悪い虫がつかないようにってこと……じゃないの?」
「なっ、いや、それはな、なんというか」
 アスマの両手は否定するようにひらひらと手を振った。もごもごと口は動くものの、その真意を語る気配はない。その様子を見たは他に何があるの?と言わんばかりにアスマを見つめた。
「オレはにアイツが無茶しないように言って欲しいと思っただけで、そういう意味じゃない、というか……」
 アスマ曰く、「男が言うと余計闘志が湧くだろ?女同士なら上手い具合に伝わりそうだと思ったんだ」とのことだが、果たしてそうだろうか。それだけだとしたら、彼の耳が真っ赤になる理由が思い当たらない。もちろんこれは内密にと念を押され、は何度も頷いた。
 その刹那、チリっと砂の音を耳にする。人の気配に、思わず二人の肩が同時に跳ねた。

「なんだ、カカシか」

 思わず飛び出したであろうアスマの呟きに、カカシは怪訝そうに視線を向けた。そんなカカシに対し、は打って変わって澄ました顔を見せた。いつもなら、わざわざ自ら要らぬ理由を語りだしてしまうところだが、今回はその必要はなかった。今回はアスマが居る。それに今しがた約束をしたばかりだということもあって、早々にボロを出すわけにはいかなかった。澄ましていればカカシは何も言わなかった。いつもそうしていれば余計なことが付随したりしなかったのではないだろうか……。そんなの心境を知る由もない彼らはごく普通に話を進めている。池の方を見れば、少年は餌やりを終えたのか、こちらに向かって手を降った。も振り返すと、その小さな背は街の方へ駆け出して行った。

「お前までこんなところに来て、どうしたんだ?」
「どうって、何も。……そういえば、紅が探してたようだけど」
 カカシが気づいたかどうかはわからない。アスマの指がぴくりとしたのをは見逃さなかった。
「ああ、それでわざわざこっちに来たってわけか?」
「いや、たまたま通っただけ」
 と言うより、通らざるを得なかったのだろう。散歩帰りにアスマを見かけてついでに声を掛けたまで、という事のようだ。
「なるほど、そうか……」
 何を考えていたのか。カカシの言い分を聞いたアスマは一人頷いた。
「なに?」
「別になんでもない。気にするな」
「あ、そう。でも、アスマこそ珍しいじゃない」
 それこそこんな場所に用なんてないでしょ、というカカシにアスマは返答を濁した。しかも困ったことに、「ん、ちょっとな」とアスマはちらりとこちらを見つめてくる。そして、「少しばかりに火遁の練習をだな……」とありそうなことを捏ち上げた。しかも、アスマの口はそれだけにとどまらなかった。

「そうだ、カカシ。に教えてやったらどうだ」
 いえ、結構です。そもそも私は—— と、思わず口を出しそうになったは口元がヒクリとしたのがわかった。しかし、アスマが妙なことを言いだしたことで、慌てたのはだけではなかった。
「いや、だからオレはここを通過したいだけだってさっき、」
「通りがかりだろうがなんだっていいだろ、困ってるヤツがいるんだから」
 その感じだと今日は絶対に非番だ、とアスマは畳み掛けるようにカカシに言った。
「だからって、オレじゃなくても他に……」
「じゃ、またなカカシ」
「ちょっ、アス……」
 カカシが伸ばした手は虚しく空を切った。その気持ちがにも痛いほどわかった。言いたいことを言い終えたアスマはあっという間に、逃げるようにドロンしてしまったのだ。澄まし顔で黙りを決め込んだものの、こうなるとの心境も少々変化せざるを得ない。澄まし顔がどこまで効力があるのか不明だが、現時点では効果を発揮しているようだ。

「私は大丈夫だから」
 アスマの言ったことは気にしないで。自分でどうにかするから。
 と、スマートにカカシから背を向けることだって容易かった。しかしそれは、「……熱風も出ないのに?」と、言われる前の話だ。煩い心音には封をしていたはずが、今頃酷く耳につく。

「なっ、なんで」
 誰から聞いたのか。まさか、中忍時代にお世話になった先輩がペラペラ言いふらしているのだろうか。極めて低い可能性の中でが悶々としているとは誰も思いもしないだろう。
「多分だけど、ズレてる」
「ズレて……?」
「チャクラの出しどころ。もしくは、溜め方が足りないか、溜め過ぎか。」
「……そう、なの?」
 そういうものなのか。それがアドバイスということはわかったが、知ったところでどうすればいいのかわからない。アオバは案外するっとなんて言ったが、想像通り、むしろそれ以上に程遠いものだった。頭で分かっても出来ないのが術の難点である。やはり術はセンスが無いとなかなか難しい。あるのは鍛錬のみということだ。
「でも、コツさえわかれば……」
 私だって何てことない—— とは言えなかった。本音を言えば、カカシの前でこんな風にぽろりとこぼしてしまう程に途方にくれていたのだ。

「ところで、あの人たちは?」
「あの人……、男の子?」
 そんなはずはない。さっきの少年ならとっくに帰ってしまったのに、とはもう一度池の畔を見つめた。やはりその姿はどこにもなかった。それに、少年は一人だったはずだ。

「いや、あっち。」

と、カカシが視線を向けたのは、池の畔とは正反対の場所だった。思わずうわっと声が漏れそうになった。
 耳をすませば微かに茂みの奥から覚えのある声が聞こえてくる。カカシは問うようにこちらを見つめた。思わずごくりと喉が鳴りそうになる。しかし、いくら見られてもその理由はにもわからなかった。今日は夕刻まで休暇である。この日の休みを彼らが何に費やしていたのか、知るはずがない。こちらを見るカカシの視線が妙に痛かった。そしてカカシの呆れたような表情には見覚えがある。「君の連れは何をしてるんだ?」と言われているような気がしてならない。やはり彼らに声を掛けるのは自分だろう、はそう思った。だが、先に口を開いたのはカカシの方だった。

「……コツなら、オレなんかよりあの二人から教わる方がよっぽど効率いいでしょ」
 
 すると、急に足音が止まった。ピクリとも動こうとしなかった。しかし今更そんなことをしても無意味だと彼らも気づいている筈だ。
 すると二人は平然とした様子で茂みから顔を出した。
 そして、

「やあ。オレたちも魚に餌をやりにきたんだ」

などと、言い出したのだ。ご丁寧にも髪の毛に落ち葉をくっ付けて。その言葉にカカシはじっとこちらを見つめ、「……魚の餌、ね」とぽつりと言った。
—— そうだったっけ?
 そんな風に聞こえるのは、考えすぎなのだろうか。異様な空気を感じ取ったのか、傍らでアオバがトクマに囁いた。「ほら、お前もなんか言ったらどうだ」などと、こそこそ言うのには訳があった。というのも、いつもなら「こんにちは。」「はじめまして」など当たり障りのない挨拶から始まり、雄弁術でも持っているのかと思うほどにぺらぺらと話すことだってある話上手のトクマが、ここに来て全く一言も話していないのだ。ようやく口を開いたかと思えば、「どうも。」と一言述べるだけ。そんな彼を見て、カカシも急に話し出すことはなかった。ちらりと見たかと思うと、カカシはふいと顔を逸らした。すると、

「じゃあ、そういうことだから」

 そう言い残し、カカシはアスマと同じようにたちの前から消え去ったのだった。




「黙り込むくらいなら初めから行こうなんて言うなよ……」
 あのまま隠れてやり過ごせばどうってことなかったのに。おかげで変な汗をかいたとアオバは息をつきながらトクマに小言を言った。その間トクマは、「何かと言われても、そんなに話すことないですし。」と、すっかりいつもの調子に戻っていた。
「それによく考えたら初めてだったんですよ、ちゃんと顔を合わせたの。」
 カカシには興味はあったが実際に会ってみると特に用があるわけでもない。かといって、根掘り葉掘りと聞けるような空気でもない。その結果、アレだったのだとトクマは言った。


「二人とも本当は何してたの?」
 先程からずっと『はたけカカシ』について語るアオバたちだが、にとってはこちらのほうが問題だった。彼らは本当にたまたま通りかかっただけなのか。ならば、なぜあんな場所に来る必要があったのだろうか。が居た場所、そこは木ノ葉の里の端にある大池だった。そこへ行くには一本道の遊歩道を通るほかない。あとは、里の中心部から直線距離で森を突っ切ってくる方法があるが、ほぼ無いに等しい。本当に森を突っ切ってくる者を見たことがなかった。何しろ森の中は害虫の宝庫。修行するにしても、里には演習場という立派な場所があるのにわざわざそこで修行を試みる必要はない。となれば、答えは簡単だ。
「こそこそつけてくるなんて、……」
「いや、それは誤解だ」
 アオバが焦った様子で言った。ならどうしてと怪訝そうに見やると、二人は口を揃えた。
「探してたんですよ、さんを。ちょっといい事を思いついたもんだから試してみようって」
「もちろん邪魔しようなんて思ってないぞ? 話が済んだら声を掛けようかと……」
 先にカカシに気づかれたのは誤算だった、とアオバは大きくため息をついた。

「そう言えばさん。さっきの“そういうこと”ってなんですか?」
「えっ、……アレはその、……」
 すっかりいつもの調子に戻ったのはトクマだけではなかった。
 アオバからの勧めを鵜呑みにし火遁の練習をしていると思われるのがちょっと癪だということではない。虎の印で熱風すら出ないのを知られるのが恥ずかしくてたまらなかった。アオバと違って自分はセンスの欠片もないのだ、と言っているようなものだ。
「か、—— かなりココの池の魚、食いしん坊みたいで、餌をやりすぎたら駄目なんだって。デンキナマズもいるし」
 火遁とは言い出せなかった。きょろきょろと視線を泳がせたことがまずかったのか。返答を耳にしたトクマは少し困ったように眉根を寄せ、「まあ、それでもいいですけど」とぽつりとこぼした。
「トクマくんこそ、いいことを思いついたっていうのは?」
 さっきの話は本当かと疑いの目を向けていたにトクマは思い出したように言った。
「あ、そうだった。さん、オレたちと火遁の練習しません?」
「えっ」
 彼らは知らないからそんなことが言えるのだ。いくら練習と言ってもあの調子では後から絶対に手を焼くに決まっている。言い出したのを後悔する。はそう思った。そんなを見て、アオバが口を挟んだ。
「そう心配するな。簡単にコツをつかめるとっておきの方法があるから。」
と、にやりと口元を緩めた。まるで虎の印を結んで首をかしげている様子をずっと見ていたかのようだ。
「ねえ、まさか……」
 そよ風に揺られた木々からひらりと木の葉が舞う。二人はそのつぶやきは聞かなかったことにしたようだ。あらぬ方向を向いて今日は絶好の修行日和だな、と呟いた。




 夕刻の任務まで時間がある。せっかくだ、少しだけ修行をしてみようじゃないか。
 そうなったのは珍しく彼らがやる気に満ちていたからだろう。チームの底上げになるし良いこと尽くめだと、さっそくたちは『とっておきの方法』で試すことになった。

さーん、いいですよ!」
 トクマの合図でチャクラを練り上げる。さすがに三つ目の性質変化となれば今までとは雲泥の差。チャクラの量もほんの僅かの差でガラリと変わってしまう。そこでコツを掴むまでトクマがチャクラの流れをチェックし、(白眼の練習には丁度いいらしい。)アオバは新術の練習をしながらにアドバイスを送る、ということになった。火遁を使える忍がいるが日向一族の居る班は少ない。まさかにとっておきの練習法だった。
、溜めすぎ。まとまったら一瞬で出さないと」
「んー、アオバさんと比べるとちょっと波がありすぎますね。チャクラは均一に。偏らないのがポイントのようです」
 そんな感じでアドバイスを受けつつ、なんとかまずは熱風をと踏ん張った。少しずつ気の中に混ぜるように、一瞬だけ均等に溜めることをくりかえした。こんな感じかな、とが感じ取ったのは気の所為だったのかもしれない。それは1秒にも満たなかった。池に一つ波紋が浮かんだ。

 突如、ばっと視界は人影で遮られ、目の前がぐらりと揺れた。自分の身に何が起こっているのかなど考えることも出来なかった。身に覚えのない浮遊感。まるで海中を漂っているようだ。
 はふわふわする意識の中、遠くの方でアオバの声が聞こえたような気がした。

七、目撃者

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