空蝉-第二章-

 呼吸と共に感じた匂いは湿気を帯び、僅かにカビ臭さが混じっていた。頬に当たる質感はコンクリートだろうか。
 
—— 冷たい。拉致か。ここは?
 不自由を強いられた両手が煩わしい。ぐっと腹に力を入れたものの上手く立ち上がることもできず、情けなく身を捩らせただけだった。身体もすっかり冷えてしまっていた。
 朦朧とする意識の中、は人影に視線を向けた。


「起きたか」
「…………ラ、」
 
 声の先に見えたのは、後輩で同僚、情報部解析班のランカだった。もちろん彼は木ノ葉の忍。まさか、どこかの国でスパイ——そんなわけがあるものか。ならば誰かが……と考えたが、彼のチャクラは覚えがあるものだった。額当ても木ノ葉マークのままだ。一筋の刃物傷も無い。夢でも見ているのかと思ったが、生々しい空気が身体を触りそれを否定した。

「こ……ど、こなの?」
 どれくらい経っているのか、喉が張り付きそうな程に渇いていた。上手く声を出せずやっとのことで言葉にすると、ランカと思われる男は一瞬きょとんとした。がまだ混乱の中に居ることに彼は気づいていないようだった。「いつもの場所だけど……」と困惑した声色は間違いなくランカのもの。
「いつも……」
 そこでやっとは状況把握に努めた。壁はむき出しのコンクリートひび割れに修復の跡がある。部屋は二畳程の広さ。かろうじて外の気配を感じる小窓には十字の柵。そして、目の前は鉄格子。しかもこの鉄格子、どこかで—— というよりも、この部屋の間取り、材質、空気、全て見覚えがある。だが、そんなはずがない。まさか、そんなはずが。もう一度周囲を窺ったが、どう考えてもそうとしか思えない。一度冷静になろうと息を吸う。しかし、その答えは変わらぬままだった。
 つまりここは、

「もしかして、留置所……?」

 ここは情報部がよく出入りする、木ノ葉隠れの里の留置所だというのか。これは一体どういうことなのか。は顔から血の気が引いていくのがわかった。

「わ、私何したの?!」

 その言葉にランカは明らかに困った顔をした。
「それが、オレにもさっぱりで……」
 聞きたいのはこっちの方だと、ランカは途方に暮れたように眉を潜めた。「こんな容疑がかかっている、らしいんだが……」とちらりと見せられた紙切れに目眩がした。罪がずらりと書き連なっている。立入禁止の部屋に入った事の侵入罪、書類改ざんの罪、それから極秘情報盗視の罪……。どれもこれも全くもって覚えがないということではないが、勝手に実行したわけではない。どういうことだ、何が起きている?は答えを探そうと必死になったが混乱は益々酷くなる一方だった。

「私は全部三代目様の指示で、…………そうだ、三代目様は?」
「それが今里の外にいらっしゃるらしく、帰ってくるのは早くても三日後とのことだ」
「三日後……」
 声に出してみたが現実味を帯びない。早くて三日。留置所の期限は一週間程ではなかっただろうか。と、そこで重要なことに気づく。

「それは誰が?」
「それが、……」
 そう言って、ちらりと見たその視線の先には面をつけた忍が立っていた。知らない面の忍だ。その空気はどことなく冷たい。
「もういいだろ、出て行け」
 暗部の言葉を耳にし、は彼が善意でここにいてくれたのだと知った。「またあとで」と、彼は言ったが、それがどういう意味だったのか考える余裕もなかった。彼が居なくなったことで留置所はとても静かだった。「反省しろ」と看守に言われたが、何を反省すればいいのだろうか。立派な誤認逮捕だ、と主張してもよかったのかもしれない。そうしなかったのは、あの罪の中に一つだけ心あたりがあったからか。まだ現実を受け止めきれていないからなのか。
 コンクリートの分厚い壁には脱獄防止に特殊な札が入っていた。部屋は極めて殺風景だ。もちろん時計もない。今が昼か夜か判別するのは小さな小窓だけ。は雑居房のほうがいいといい出す者の気持ちが少しだけわかった気がした。ここにぽつんと居続けるのは、たとえ勝手を知っていたとしても心細くてたまらなくなるのだ……。




 何とか身を起こし、両手を動かすと紐が緩いことに気がついた。普通は緩んでいないか二度は確認するものだ。おそらく縛ったのは知人だったのだろう。「どうぞ、縄抜けしてください」と言わんばかりの出来だ。どうやら皆が敵になってしまったわけではないようだ。しばらくして冷静になったのか、初犯ならまずは雑居が適当な判断ではないかなどとぼんやりと考える余裕もできた。暗部は席を外しているのか、今ある人の気配は一人だけだった。
「すみません。一つ、聞きたいことがあるのですが」
「……」
 無言ながらも僅かに空気が動いたのを感じた。少なからず興味はあるようだ。
「どうして私は個室なのでしょうか?」
 柵の外にいるであろう、名も姿もわからぬ看守に問いかけた。しばらく沈黙が続く。すると、ペラペラと紙をめくる音がした。どうやら今日の看守は当たり。返答する気はあるようだ。だが、「……あなたは失踪疑惑がありますから」という言葉には押し黙るしかなく、は礼を返すので精一杯だった。

 それからは、なんで、どうして、と堂々巡りを繰り返した。それに、任務はどうなったのだろう。あの二人だけで、それとも他の誰かが代わりに同行したのだろうか。せっかく修行も付き合ってくれたのに……。は無意識に手をそえた。
「え」
 指先に触れもしない。いくら触っても同じだった。
 無い。
 いつもの額当てが、無い。
 そこでやっと身軽すぎる自分の姿に気づいたのだった。




 留置所の難点は孤独と気温。夏は外気の熱がコンクリートから放出されとんでもなく熱い。そして冬は壁から冷気が伝わり、小窓からは風が入りとても寒かった。今は真冬でないが夜風は思ったよりも冷たかった。一応、毛布のような物が置いてあったが、気休め程度。両手がふさがっていることもあり、マントのように羽織るのも一苦労だ。今夜は雲がかかっているのか月明かりもない。その事も相まって、より一層どんよりとした空気が漂っていた。
 仮にここが敵のアジト、もしくは他国の牢獄であるというのなら、いつか誰かが助けに来てくれるのではないかと希望も持てるだろう。
 しかし、ここは紛れもなく自国の里だ。



 しゃがみこんでいること数時間。疑問を投じたところで答えは同じ。いよいよ考えるのも疲れたのか、くうを見つめるばかりだった。その一方 、看守は呑気なものだった。堂々と欠伸をし、暇だと愚痴を溢した。大抵個室の場合、看守は二室一人と決まっている。隣に騒がしい犯罪者でもいれば多少は眠気覚ましになるだろう。だが、今日ここに居るのは極めて大人しいくノ一、一人だけだった。別の塔で誰かが騒いでいるのか、時折妙な物音が壁伝いに聞こえた。だが、それも無くなるとまた静かになった。

 本当であれば今頃里の外に居たはずなのに。
 そんなことを思いながら無になった空間でぼんやりと小窓の外を眺めていると、廊下の奥からことんと何かが当たる音がした。看守の交代かとも思うが、おそらく今は日付も変わった頃。そんな時間ではない。こんな深夜に誰か来るはずがない。個室の前の廊下はそこそこ距離があり、簡単に脱走できないような造りになっている。外に出るにはまずはその廊下を突っ切り、二名の看守が居る出入り口を突破しないことにはどうにもならない。もちろん、感知札だって付いている。まさかね。一抹の不安がよぎり気配を探ると、その足音はだんだんこちらに近づいてくる。それなのに、あろうことか看守はとうとう本気で居眠りを初めたらしく、こくりこくりと影が揺れた。時々脱走者がでるのはこういうことなのか。
「ねえ、ちょっと……」

 しかし、その声は続かなかった。一つの影がそれを遮り、すっかり眠りこけてしまった看守を見下げる視線が流れるようにこちらに向いた。許可なく留置所に勝手に入るなど考えられない。いくら暗部でも許されないことだ。「なんで、」と口を開くと、カカシは人差し指でそれを制した。

「コイツが起きる」
「あ、……」

 夜勤に慣れていないのか、ありがたいことにその看守はまだ夢の中だった。真横に侵入者が居るというのに。気楽なもんだなとカカシが呆れたように呟いたことにも全く気づいていない。
「私は本当に、……」
 何もしてない。
 そう言い切るつもりだった。しかし、カカシを見ているとどうしてもあの巻物がちらついてしょうがなかった。
 私は何もしてない。
 そう言えるのか、と、自問自答が始まるのだ。

 なぜこんなことになっているのか、カカシは知っているのだろうか。
 は探るように格子の奥を見つめた。しかし、カカシは黙り込んだままだった。
 留置所の面会は限られている。やってくるのは主に親類だが、それもには居ない。事情を知っているであろうアオバやトクマは任務に出ている。他はきっと、誰も知らない。だからこそ余計に惨めなのかもしれない。は再び地面へ視線を落とした。
 もしかしたら何か教えてくれるのではないか、ここから出してくれるのではないかと僅かにも都合のいいこと思っていたことを自覚すると共に、後悔した。

 月明かりもない、暗い室内。
 カカシの表情はよくわからなかった。きっと向こうもそうだろう。少々声が震えているのにだって、気づいていないはずだ。
「冷やかしなら、帰ってくれる?」
 ぽつりと呟いたそれは、虚しく響いて聞こえた。






 まるで我慢比べでもしているようだとは思った。さっさと帰るものだと思っていたのに、カカシはしばらくその場から離れる気配はなかった。決してここは居心地の良い場所ではない。夜風が吹いて冷えるのは、この牢の中に限ったことではなかった。肌寒さに加え、特有の湿気った空気がまとわりつく。数時間も居れば嫌で仕方ないと思う場所。当番の看守が最も嫌がる場所だった。


「嵌められた……、というか、利用されたんだろう」

 —— 利用?
 はカカシが立っている場所を見つめた。
「どうしてそれを私に? さっき、突っぱねたのに……」
「……知りたそうにしてたから。」
 ちらり小窓を盗み見たカカシは目を伏せた。
「そこに誰かいるの……?」
「さあ、どうだろう」
 同じように小窓を見つめるが、特に何か感じることもなかった。
 こんなところに居るのを見られたのだ、もうどう思われてもいい。そう思うようになっていたのかもしれない。

「……私は昔からこう。タイミングが悪くて、気が弱くて、おまけにどんくさい。アカデミーの時から……——

 どうしてこうも違うのだろう。そう思わずには居られなかった。
 器用にこなす人が羨ましい。そう思うことがあったが、焦るとますます駄目になると身をもって知ってからは無理なことはしないと決めた。いつしか、その方が安全だと思っていた。

「やっぱり、なんでもない……」

 留置所で独りでに語り出す者がいたが、いつも不思議だった。ああだこうだと勝手に話すのを黙って聞いていたことも多々あったが、まさに今の自分がそうだ。きっとバカバカしいと思ったに違いない。話し出した自分が一番バカバカしいと思っているのだから。カカシがどの程度「」について理解しているのかわからない。だが、対して面識深くもないくノ一の話を聞かされても全く同調できはしないだろう。
 「はたけカカシ」は昔から優秀だった。自分とは程遠い。それは今でも変わらないことだ。噂とは違う、私の想像とは違った。そう思ったこともあった。だが、今抱いていることはそれとは別だった。彼に対しこんな感情を向けるのはお門違いだと思う。だが、僅かばかり厭わしいと思ってしまった自分を否定することも出来なかった。「あのさ、」というカカシの声が、にはよりうんざりしているように感じた。


「前に言ったよね?」

「……さっき言ったでしょ? 私は……どんくさいんだって。」

 そんなことを言われてもわからない。
 半ば八つ当たりもあっただろう。せっかくこの件について教えてくれたのに。頭ではわかっているのに、口から出るのは可愛げのない言葉ばかりだ。何もカカシにこんなことを言わなくてもと、は唇を噛み締めた。いじけたと思ったのか、もしくは呆れたのか。黙り込んでしまったを見て、カカシは小さく息をついた。


「勝手に国境越えようとしたり、修羅場で堂々と術を使ってみたり。そんな奴が気が弱いわけがないって話。まあ、何に遠慮してるのかは知らないけど。」
「それは……」
 そんなつもりはない—— と思いながら、言葉にすることなく飲み込んだ。自分のことは自分がよく知っている、そう思っていた。カカシがそんな風に思っているなどと、考えが及ぶはずがなかった。

 結局、カカシの話はそれきりで、肝心な事はわからぬまま時間だけが過ぎていった。どうしてわざわざ、—— と考え、すぐに頭を振って払い除ける。
 考えても無駄だ。今までカカシの考えが読めたことなど一度もないのだから。

「ところで、こいつはいつまで寝る気でいるのかね……」

 変わらず寝息を立てる看守の男にカカシは本気で呆れたらしく、小言と共にため息を漏らしたのだった。







 翌朝の天気は晴れだった。光の気配でやっと目覚めた看守が慌てて檻の中を見つめた。そして、ほっと息をついたのはつかの間。既の差で早番の看守が現れると、「お前、ずいぶん顔色いいな?」と声がする。その男は、大層肝を冷したに違いない。「気を張っていたものですから」と呟くのを耳にした。
 朝食と出された乾パンは任務で持ち歩くものより随分不味いものだった。これは文句の一つも言いたくなるだろうな、と他人事のようにが思っていると、するりと人影が現れた。
「いのいちさん……」
 その声に答える様子もなく、いのいちは鍵を開け外に出るように促した。しっかり腰縄付きでおまけに取れないよう、札まで貼り付けられていた。「ちょっと息苦しいけど我慢してくれ」そう聞こえたかと思うとばっと顔面を覆うように布切れを被せられ、視界が遮断された。私は犯罪者、そう思いはじめても不思議ではない状態だ。一晩悩みに悩み、疑心暗鬼に陥った可能性だってある。
「やけに大人しいな」
 左側のを歩く看守が不思議そうに呟いたのを耳にしながら、昨晩のことが頭に過ったのだった。


 しばらく歩いていると扉の音がした。足下はかろうじて見える状態でもたもたした足取りになるのはどうしようもない事なのに、雑に放り込まれ転びそうになった。
 目の前が開けたのは、ガタンと扉の閉まる音が聞こえてしばらくしてのことだった。

「(すまない、。こうするしかなったんだ)」
 頭の中に響くのはいのいちの声だった。そのまま聞くようにと指示を受け、はこくりと頷いた。質問には正直に答えること。聞いたことにはとりあえず全部「いいえ」と答える約束をさせられ、立て付けの悪い椅子に腰を下ろした。そこからはいつも見る光景だった。しかし、その景色はいつもと少しだけ違っていた。よく知る忍が眉根をよせ、こちらを見てくる。その部屋の隅では、昨晩見かけた冷たい空気をした暗部の忍がじっとこちらを見据えていた。


「昨日の昼間はどこに居た」
 はいのいちの顔を真正面に見つめた。
「池の魚に餌を与えてました」
「……正直答えろ」
「池の魚に、餌を与えてました」
「池の魚に……ウソ言え」
「いいえ、本当です。池の魚に餌を与えてました」
「……お前ふざけてるのか?」
と、書物の手を止めたのは別の部署の忍だった。そんなことをする女ではないというのだ。確かにそうかもしれないが、随分失礼だ。
「いいえ。ふざけてません」
「もう一度言うぞ、休日、昼間。何をしてた?」
「だから、池の魚に餌を」
「……もういい。わかった。池の餌に魚だな」
「いいえ。池の魚に餌です」
「はぁ……」

 どうやら彼らの思った回答とは違ったらしいとはすぐに勘付いた。
 例えば買い出しにでかけたとか、友人と出かけたとか、そんな証言がほしかったのだろう。なぜなら、の動向を証明できる者が池の魚しかいないということだ。きっと頭を抱えているに違いない。しかし、これも真っ当な答えではない。火遁の練習をしていた、などと言えばますます怪しい。何を企んでいると執拗に問われるかもしれない。本当のことを言えば、きっとあの子供やアスマ、アオバやトクマまで面倒なことになるかもしれない。それにカカシにだって……。得にアスマは今朝方里を出たばかりのはずだ。しかも大役を仰せつかっている。迷惑になるようなことがあってはならないのだ。かと言って、大幅な嘘をつくわけにもいかない。別の忍にも同様に答えた。記憶を見られれば、あの無様な姿も、アスマとの約束も、全部見られてしまうにしても。



 日が落ちるまではまだ良かった。小さな窓から聞こえる雑多な音が気を紛らわせた。その反面、日が落ち始めるとの気分も下降した。本当に自分はどうなってしまうのだろう。考えてもどうしようもない考えが再び脳内を駆け巡るのだ。しかも今日の看守は最悪だった。少し身動きをするだけでこちらを睨みつける。「勝手なことをするとわかってるな?」と、度々毒付きのクナイをちらつかせるのだ。
 漆黒があたりを包むと気分はどん底だった。私は無実だ、そう言ったところで誰も耳を傾けないことは、周りの様子をみると明らかだった。勝手な行動をした罰だろうか。今までのように、大人しくしていれば、普通に過ごすことができたのだろうか。……いや、何事もなくても普通ではなかったかもしれない。いのいちは心底絶望しただろう。物覚えがいいわけでもない。得意な術もない、そんな忍が自分の部下。何を教えるにも苦労したはずだ。それなのに……。
 小窓を見ると、朝はなかった暗雲が垂れこめていた。






 苦労した。
 ふと手元を見たはため息を漏らした。まだこんなにも空白が残っている。下書きが鮮やかな刺繍糸で塗りつぶされるのはまだ先のようだ。ため息を堪えまた一つ布地に針を当てる。ぱたぱたと廊下を走り去る音に気を取られそうになる。向かい側の窓でゆらゆらとベージュのカーテンが揺れ、銀幕のようなぼんやりとした光が辺りを照らした。
「ねえ、リンちゃんは将来何になるの?」
 クラスメートの一人が問いかけた。好奇心に満ち溢れた声色だった。くるりと振り返ると、栗色の髪の毛がふわりと舞う。
「わたし? わたしは医療忍者。医療忍者になって、みんなを元気にするの!」
 皆を全力で守るのだとにっこりと微笑む姿に、クラスの女子は皆、称賛と憧憬の眼差しを彼女に向けた。彼女が文句のつけようのないくらい優れていたこともあるが、彼女のが一般家庭であったことも少なからず関係していたかもしれない。誰もが彼女の才能に一目置いていたのは傍から見てもわかるほどだった。
「ツヅリちゃんは?」
 ツヅリちゃん。
 その声にはすぐに視線を向けた。ぼんやりとした光は時折スポットライトを当てたように彼女を照らす。課題はとっくに終わったのか、刺繍針を道具箱にしまっている最中だった。
「私も、医療忍者かな」
 そう言って、少し照れくさそうにしたのを、は隣で見ていた。

ちゃんはどうするの?」

 手元を見ると、一つ縫い目がずれしまっていた。刺繍糸が一本、不揃いに並ぶ。

「お母さんは医療忍者だよね?」
 
 あなたも医療忍者になりたいの?

 そう、問いかけられているような気がした。
 手元の縫い目を見つめる。まだ三分の一にも満たない出来だ。周りはおしゃべりをする余裕すらあるのに。

「わたしは、」

 そこでガラガラと音がすると、教室の扉が開いた。教師と思われる人影がうっすらと教室に入り込んだ——




「交代だ」
 それは教師の声ではなかった。知らない男の声。は顔を上げ、小窓を見つめた。外はまだ薄紙を貼り付けたように靄がかっていた。まもなく朝日が顔をだす、そんな時間帯なのかもしれない。しかし、生憎ここではその朝日を目にすることはできない。小窓が取り込む光は決まっている。日中の限られた時間のみ、この部屋を照らす。
 話もそこそこに看守の男は立上がった。その足音は遠くなり、古びた戸の音が廊下に響いた。
「相変わらず大人しいな」
 同じ体制でいたせいか、それとも妙な夢をみたからか。気怠さを感じつつ無言を貫いていると、男は「いろんなヤツを見てきたが、人は見かけにはよらないな」とせせら笑った。見えもしない姿を横目で流し見る。
「少なくとも、お前は柵を揺すって破損させることもない。妙な言葉をペラペラ話だすこともなさそうだ」
 この男はおしゃべりだ。野太い声とは裏腹に、メソメソしているもんだと思っていたと冗談交じりに話しかけてくる。変な人。そう思っていることに、その男は気づいていたらしく、
「黙ってたってつまらんだろ」
 こっちだってこんなところに居るのは暇でしょうがない、と不平を垂れた。
「……聞かれてるかもしれないのに」
 ぼそっと呟いたその声もきちんと拾っていたようだ。
「誰かに聞かれて困るようなことは話していない」
 男は小窓の奥を見つめ、一つため息を漏らした。やはり外に何かあるのかと見てみたものの、四角に切り取った灰色の景色が見えただけだった。


 それからしばらくして、男はポケットから何かを取り出した。今度は何を、そう思っているとその手は柵に触れ、ガシャンと格子が音を立てた。「何をしてるの」と言ったつもりが、乾いた音が鳴るばかりだった。目を白黒させて訴える。
 その男が誰なのか、向き合って初めては理解した。

「三代目が戻られたようだ」

 よかったな。そう言っての腕の紐を解いたのは、森乃イビキだった。

八、怪事

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