空蝉-第二章-

 ベッドに寝転ぶと、いつものシミが何の形にも模さず単なる雨漏りの跡として視界に入り込んだ。徐に左手を掲げると、手にしていた小さな紙がそれを覆うかのようにぴたりと合わさった。
 焦点が定まり、捉えたのは走り書きの文字。
 綺麗な忍文字だ。
 きっと暗号部に持ち込めばすぐに相手を言い当てるだろう。そんなことを思いながら、はしばらくそれを見つめていた。


 翌日。メモを片手には情報部の備品室へと足を向けた。時折近づく足音は、一歩手前の裏口へと続く通路へと消えていく。もうすぐ完全に日も落ちようかという時間帯に、この場所に立ち寄る者は誰ひとりとしていなかった。
 約束、と言っていいかもわからない曖昧な情報。それでも足を運んでみようと思ったのは、少なからず心のどこかに引っ掛かりを残したからだ。ポストに放り込まれていたそれに気づいた時は単なるイタズラとも思った。

『備品室 三日後の暮六つ』

 字は人を表すという。それにしても……。
 メモを見つめ、は一つ息を漏らした。


 鐘の音色が耳につくと、手元に影が落ちた。はっとして顔を上げる。
「ちゃんと来たね」
 時間通りに現れたのは、が予想していた人物そのものだった。

「これ、……」
 手にしていたメモを向ける。
 時刻は記されているが、送り主がない。普通なら屑かごに捨ててしまうだろう。ピンと来るまで時間がかかったと告げても、カカシは全く気にする素振りをみせなかった。

「暗部ではこういう呼び出しが普通なの?」
「いや。オレはを少しばかり真似ただけだよ」
「私の真似?」
 考え込んだにカカシはいう。
「覚えてない?」
「……あ」

 一年程前。ツヅリの件で暗部に行った時、カカシにメモを渡した。情報部の作業場には様々な物が無造作に置かれている時がある。この紙も普段は備品室に収められている。おそらく誰かが戻すのを忘れていたのだろう。あの時は急いでいた。気が動転していたこともあり、全く気がつかなかった。
「あれ、感応紙だったんだ……」
 確かにこれくらいの大きさだったかもしれない。だが、まさかそんな貴重な紙に書いていたと思いもしていなかった。
「そういうこと。」
 カカシがメモを手にすると、くしゃりと音をたて皺を寄せた。
 何よりも驚いたのは、カカシがそのことを覚えていたことだ。すっかり忘れているものだと思っていたこともあり、思い返すと恥ずかしかった。状況が状況だ。酷く緊張していた。疲労もあったかもしれない。ただ、どうしても一言。その一心であの場に立っていた。あの時は話すのも精一杯。もちろん、今この時だって違和感は拭えない。

「……でも、わざわざそれを言いに来たわけじゃないでしょ?」
 ゆっくりと視線を上げ、窺うようにカカシを見上げた。確実に里に居る日を確認してメモを放りこんだのだ。何かあるんだ。そう思うと同時に、先日の一件が脳裏に浮かんだ。あんな事を言ってしまったこともある。顔を合わせるのは避けておきたかったというのが本音であった。
 
「実は、少しばかり付き合ってほしいんだけど」
「え」
 表情を曇らせたにカカシはすかさず言った。
「あ、協力の方ね」
 もちろん、そんなことはわかっている。だが、協力と言われても困る。そもそも自分に頼むのはおかしな話だ。技量が伴うと思うのだろうか。どんな目論見があるのかとがそれとなく様子を窺うと、カカシの表情は至って真剣だった。

「何か問題でも?」
「そうじゃないけど……」

 問題なら山のように、と思いつつはそれを飲み込んだ。いつもの自分なら、きっと無理だと即刻断ったかもしれない。先日の事がある。頭ごなしに無理とは言い辛かった。
 何事もなかったことのように過ぎる日常。これまでのように「私は関係ないから」と悠長に構えていられたらどんなにいいだろう。

「ただ……、私にも教えてほしい。この前の事と何か関係があるの?」

 は真っ直ぐカカシを見つめた。
 僅かな歪み。
 それに気づかぬふりをするのは極めて困難だった。






「怪しまれずに入るのがこんなに楽とはね」
「……どういう意味?」
「こっちの話」
 カカシと共に向かった先は忍者登録証のある保管庫。警備班に会釈をし、鍵穴に鍵を通し、ドアを開ける。その一連の動作を目にしたカカシはぽつりとそう言った。その言い草は過去に侵入していたと暴露しているようなものだった。入ろうと思えば入れる場所。それなのに、どうしてわざわざ? そう思うのは自然なことだろう。疑問に思いながら部屋に入ると、カカシは何か変わったことが無いかと聞いてきた。紛失物があってもさすがに一人ではわからないとカカシはいう。「協力してほしい」というものだからどんなことかと身構えていたが、その必要はなかった。今すべきなのは、密書の原本を見せることでも他里の手配書を見せることでもない。さながら間違い探し、といったところのようだ。だが相手が相手だ。そう簡単にミスをするはずがない。

 留置所に放り込まれる原因を作ったのは志村ダンゾウである—— その考えに至るまでしばらく時間を要した。火影室でばったり出くわした日は初対面。同じ空間に居たのは数分にも満たなかったはずだ。なんの面識もなかった一介のくノ一に何の恨みがあるというのか。考えたところでには利用される理由が全くわからなかった。


「……じゃあ、私は単なる時間稼ぎだったの?」
 は引き出しの中身を確認しながらカカシに問いかけた。その間、カカシは保管箱を棚から取り出し、封筒に目を通していた。特に何もなかったのかすぐに戻し、また別のものを手に取る。男の顔写真がちらりと見えたが、これも思うような者ではなかったのだろう。同じくすぐに封筒へと収まった。
「使える手はなんでも使う。そういうヤツだよ、あの男は」

 ダンゾウが情報部の目を盗み何をしていたのか。カカシの目的はそれを探ることだった。まさか全部の書類に目を通す気なのかと思ったが、カカシなりに何か基準があるのか、ある棚の保管箱はまったく見向きもしなかった。慣れた手付きだ。その様子に思わず気を取られる。
「……何かあった?」
「あ……うーうん、何も……。私、こっちの棚も見てみるね」
 次の列に手をつけ、はほっと息をついた。
 しかし。カカシがダンゾウのことをよく思っていないのには驚いた。もしかすると、昔何かあったのかもしれないとは思う。そうでなければこうも軽々とカカシが“あの男”などと言いはしないだろう。


「苦手だろ、ダンゾウのこと」

 突然のことだった。はっきり言ってのけたカカシには資料を捲る手を止めた。
「……どうしてそう思うの?」
「見てたらわかる」
 カカシは変わらず資料に視線を落としたままぽつりと言った。
「何か関わるようなことでもした?」
「ない……ないけど、あまりいい噂も聞かないし」
「噂、ね。たとえば?」
「たとえば、……あくまでも噂だよ? 噂。たとえば、実は火影の座を狙ってるんじゃないか、とか……」

 三代目と意見が食い違う様を目撃したという忍は少なくない。酷い口論にならないのが不思議な程だ。だが、強硬派に賛同の意を持つ忍も少なからず居るのは確かで、慎重派と強硬派が班に加わると任務中諍いが絶えず苦労することもある。報告書がなかなか上がらないと他処から苦情が出たりと何かと問題は絶えない。

「それもあながち間違いではないかもな」
「え?」
「火の無いところに煙は立たないって言うでしょ」
「……でも、三代目と戦友で、それに噂は噂だよ……そうでしょ?」
「まあ、あの二人が仲良しこよしだと思うんなら、それでいいんじゃない」
「……」
 単なる噂。そう思い込みたかったのかもしれない。だが、いくら考えても三代目火影と志村ダンゾウが仲良く里を歩いている姿が全く想像できなかった。
「というか、手を止めてる時間はあまりないんだけど……」
 すっかり開いたままになっていた資料に視線を感じ、は慌てて封をした。

 カカシにはどんな風に見えているのか。自分の倍はあろう速さでページは新しいものへと変わっていく。もし、カカシがアカデミーの自分を知っていたらきっと呆れ返ってしまうだろうとは思う。情報収集に時間は掛けられない。手早く、正確に行う必要がある。今だって……。だいぶ早くなりはしたが、いのいちやマワシには敵わない。
「あ、」
 小さく声を漏らし、は思い立ったように印を結んだ。ここは敵地ではない。最初からこうしておけばよかったのだ。煙に巻かれるようにもうひとりの自分が現れる。変わらず資料を探し続けるカカシが何を見ているのか気になり、そっと視線を向けると、赤い刺青が目に留まった。

「……そういえば、留置所に暗部の人が居たんだけど、知り合い?」
「いや、彼らはまた別の部署に居る忍」
「え、そうなの?」
 別の部署など聞いたことがないと告げると、彼らは“根”の者だとカカシは言った。ダンゾウには直属の部下が居るらしいと聞いたことはあった。あれが。—— 通りでランカが言い渋るわけだ。が“根”の者のことを思い出していると、カカシは独り言のように続けた。
「ダンゾウは昔からお気に入りの忍を手元に置いておくのが趣味らしく……直接指示を出してる。オレはもちろん、三代目だって何をしているのか知らないかもしれない。ただ、少なくともが心配するようなことはないと思うけどね」
「……」
 ダンゾウという男が「」には全く興味がないのだと知ったはほっとした。何か気に触ることをしたのではないか、と密かに心配していたが、その必要はなくなった。カカシ曰く、あの日は手頃な忍を物色していた最中で、火影室で藍色の封筒を持っていたのが最大の原因ではないかというのだ。
「たまたま、そこに居たから。理由を挙げるなら、そんなところかな」
 使えそうな捨て駒。そのように映っていたのかと思うとは複雑な思いがすると共に背筋が凍るようだった。


「ちょっといい?」
 壁側の書類を確認していると、声を掛けられ振り返る。
「どうしたの?」
「そこ、何か入ってるの? ずっと気になってたもんだから」
 碁盤の目になったその場所をじっと見つめていたのに気づく。
「あ、ここは……」
 は聞き捨てならないと言わんばかりに視線を向けた。カカシは一体この部屋をどこまで知っているのだろうか。さすがにまずいと思ったのか、カカシは珍しく視線を逸らした。
「それくらい大丈夫でしょ。理屈を知らなきゃ開きはしないんだし」
 は碁盤の目に視線を移すと黙り込んだ。確かにカカシの言う通りだ。大半は開くことすら知らないだろう。中はいつもの登録証に使用する道具しか入っていなかったはずだ。番号や刻印など細かなものばかり。そんな物をダンゾウが必要とするだろうか。
 もう一度全面を見つめる。こじ開けた形跡などどこにもないように思う。

「一応、ここも見たほうがいいよね?」
「……開けられるの?」

 もしかして、余計なことを言ったのではないか。
 はそう思わずに居られなかった。



 誰かの前で開けるのは少々緊張する。「そんなのよく覚えてられるね」と言うカカシに、大したことではないと答えつつ、は内心とてもハラハラしていた。さすがにマワシに三回も聞き直したとは言えない。ここで間違えたら赤っ恥だ。カカシならきっと一回で、……。
「この事は忘れてね」
 自分はとんでもないことをしているのでは—— その考えも、一旦忘れたほうがいいのかもしれない。その方が健全に違いないのだから。は高鳴る鼓動と共に最後の28列目に手をかけたのだった。

 しかし、開けたところでびっくりするような代物が出てくることはない。いつもの道具が前回と同じように入っている。触られたような痕跡もなければ、何一つ紛失していなかった。
「何もなかったね……」
 引き出しを閉めながら、は無意識にため息を吐いた。
「何かあっても問題だけどね」
「それもそっか」
 仮に何か見つけてしまったらカカシはどうする気でいたのだろうか。は最後の引き出しを閉じると、カカシの方に視線を向けた。
「でも、怪しいことをしてたら三代目だってさすがに気づくはずじゃない?」
「さあ」
「さあって、」
「親しいからこそわからないことだってあるかもしれないし」
 思わずは言葉に詰まった。否定することも肯定することもできなかった。


 ほとんど触らなかった場所がないのではないか。が部屋を見渡しながらそう思っているとカカシが言った。
「何もないなら、巻物か」
 巻物。
 どっと心臓が跳ねた。急に冷たいものが流れ込んだかのように手先が冷える。
「それなら、別の保管庫だけど……」
「保管庫。作業場の奥のこと?」
「……うん。作業場と繋がってるから、ここを降りたらすぐ」
 あの巻物を見られたら知らんぷりできる自信はない。偶然を装って見てしまった振りをすることもできるかわからない。今は人も少ない。言い訳はそれらしいことを言えばすんなり入れるだろう。カカシが行くと言うのなら、行くしかない。

「ああ、ならいいか」
「え……どうして?」
「作業場は誰かしら居るだろうし、人目のあるところで何かするとは思えない」
「そっか……」
 は無意識に視線を落とした。
 よかった。緊張が一気に溶けていく。いっそのこと、ここで言ってしまおうか。そしたら……と、は落胆した。もちろん、自分に対してだ。カカシに言ってどうするのか、考えもしていなかった。打ち明けてみようと考えたり、バレやしないかと事あるごとに冷や冷やしていることも—— 。結局、自分の罪悪感を消し去りたいだけなのだ。

「何かあった?」
 カカシの視線を感じる。わかっていても、どうしても顔を上げられなかった。
「うーうん……なにも」
 たったそれだけを言うだけで、どっと疲れた気分になった。そうか、と呟くカカシに視線を向けることさえままならない。
「ごめん……」
 何も知らない相手に謝罪の言葉を口にするのもまた卑怯だと思う。次はどこを確認しておくべきか、と思案するカカシの背を見て、また一つ、ごめんと心の中で呟いた。

「あ、別にのせいじゃないから」
 そんなに申し訳ない顔しなくても、とカカシは眉を下げ僅かに笑みを見せた。





 これ以上ここにいても意味がない。その判断は正しかったはずだ。
「この上は、資料室か」
「うん。でも、今はほとんど物置きみたいなものだけど」
 保管庫の上は情報部の資料室だ。歴代の忍達が集めた他里の書籍や押収品の忍具など情報がぎっしりと詰まっている。もちろんその辺りに売られているような物はない。
「たしか、あの場所も鍵がかかってたっけ?」
 後で面倒事になるのは御免だというカカシには言い淀む。じゃあ、私はここで。そう言って解散すればよかったはずなのに、気がついたら口走っていた。

「鍵なら、私が持ってる」
「え?」
「言ってなかったけど、この鍵マスターキーみたい。他のみんなはまだ知らないようだけど……」
 いつだったか、うっかり倉庫の鍵を間違えたことがあった。別の鍵だった、そう思ったのに開いたのだ。何の違和感もなく。もしかしたらと思えば案の定。どこですり替わってしまったのか。誰かが入れ替えたのか。

「さすがにそれは、」
「……いいの。」

—— 『それ、カカシさんだ』
 商店の前でトクマと顔を見合わせたアオバはそのようにこぼした。いのいちに火遁のことを話したのは、はたけカカシ。
 詫びか。それとも、先日のお礼のつもりなのか。自分でもはっきりと断言できなかった。

 夜は結界も強化される。忍び込むにも少々手間がかかるはずだ。
「私にできることは、これくらいなものだから」
がカカシのほうを見据えると、黒い瞳と視線がかち合った。




 上階へと足を向けたは澄まし顔で警備班に告げる。
「情報部のです。資料を確認しに参りました」
 鍵を見た忍は何も疑問に思わない。どうぞ、と扉の前から退く男には小さく会釈した。カタンっと金具の音が響く。明かり窓もない埃っぽい小さな部屋だ。非常灯を頼りに、カカシとは一歩足を踏み入れた。
 書籍や古物は湿気とサビの交じる独特の匂いを放っていた。電気を点けようとスイッチを探すがなかなか見つからない。
「たしか、この辺に……っ!」
 壁伝いに手を這わすと何かに触れて、ひっと息をのみ飛び退いた。
「あっ」
 弾みで何かを蹴飛ばしてしまったようだ。それは瞬く間に広がっていく。
 コロン、カシャン。
 様々な音が鳴り響く。その様子に、堪らずカカシが小言を漏らした。
「……驚きすぎでしょ」
「でも、さっき何かに触れたような気がして……」
 だが、ここには自分を含めた二人分のチャクラしか感じられない。それとも蜘蛛か鼠か。それか……。心臓がぞわぞわと毛羽立った。何にしても鳥肌ものには変わらない。すると、パチっと電源の入る音がした。埃と蜘蛛の巣を纏った裸電球がジーッと虫のような音を上げ、辺りを鈍く照らし始めた。そして、カカシの手がスイッチからすっと離れたのを目にした。が触れた箇所と極めて近い。

「ご、ごめん……」
「え?……ああ」

 よく見ると作業台というには心許ない小さなテーブルが二人の間を辛うじて遮っていた。物に溢れた保管庫を目の当たりにしたは苦悩した。どうしてここに二人で入ってしまったのだろうか。大人しくカカシに鍵だけ渡して待っておけばよかった。は踏みそうになった古い籠手を拾いながら、眉根を寄せた。
 この部屋の整理整頓が急務であることは間違いないだろう。絶対に不要な物がある、そう思うのは自分だけではないはずだ。
 背後から「あ。」と呟く声がしたかと思うと、振り向くや否やガシャンと派手な物音が響き渡った。

十、暗黙の中で

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