空蝉-間章-

「あれに当てたら、オレの勝ちだからな!」
「やれるもんならやってみろ」

「あたりっこないって!」
「あいつには無理よ」

 下風に乗せられ、砂埃が舞う。
 わっと歓声が湧くその先で、一人の少年が悔しそうに表情を歪めた。



 あまりにも唐突だった。
 三代目火影の言葉に、カカシは耳を疑った。

 暗部の任を解く。

 それだけならまだしも、

 担当上忍。

 —— オレが ?
 何度自問したことだろう。
 子供のにぎやかな声はアカデミーのグラウンドから遠ざかっても尚、鼓膜にまとわりついた。まるで、在りし日の残響のようだった。





 快晴の空。何処からともなく聞こえるのは、忙しなく鳴く雲雀の声。
 朝日が昇り日が落ちるまで、一日がこうも長いと感じるのはいつぶりだろうか。空を見上げると、綿雲がゆっくりと空を漂っていた。宛てもなく、ひたすら流れ行く。

 カカシがアカデミーへ出向く気になったのは、あくまでも三代目の助言からなるものだった。
『一度、様子見がてら出向いてみるのも良いかもしれん』
 “担当上忍”というものに気乗りしない様子を見かねたのかもしれない。忍者アカデミー。もう十数年は顔を出していない。それなのに、グラウンドの様子は在籍時とほとんど変わっていなかった。子供の声など久しく聞いていなかった—— そう思ったが、そんなはずはないと気づく。ただ、気にもとめていなかった。それだけのことだった。


「あ」
 その呟きに視線を移せば、どうもと会釈をしたのは山城アオバ。「奇遇ですね」と彼は言う。しかし、ここは誰もが通る生活道路。誰とすれ違っても驚くことではない。声をかけたのはあくまでも社交辞令ということだろう。
「いつもの二人は?」
 日中にふらふらと一人でいるのは珍しい。そう思っての一言だった。自分も人のことを言えた義理ではないとカカシが気づいたのは後のことだ。
「ああ、とトクマですか? 多分、今日は里の外だと思いますけどね……」
と、他人事のように呟く男にカカシは違和感を抱く。しばし続く沈黙に、アオバが察し良く口を開いた。
「少し前に解散したんですよ、あの班」
 トクマは別の班に加わり、は変わらず任務に就いているという。いつの間にそんな事になっていたのかと考えれば、大方の答えは出ていた。解散理由は人員不足、といったところが妥当だろうか。
「なるほどね……」
 ぽつりとこぼしたそれは、ぼとりとそのまま地面に落ちたかのようだった。立ち止まったままの二人の脇を、一般人が通り過ぎていく。再び訪れた沈黙。これ以上は絶えられないと感じたのか、
「あ、火影室に用があるんだった……」
と、今思い出したと言わんばかりにそう言うと、アオバはそそくさとその場を後にした。



 任務がない日は恐ろしく暇だった。火影が考えを改めてくれたらなどと考えるが、望み薄だろう。カカシがふらりとやってきたのは池の前。静まり返ったその場所で、ぴたりと足が止まった。無人の船着き場に視線を向ける。そこはかつて、うちはオビトが修行に勤しんでいた場所でもあった。水場は火遁の練習にはもってこいの場所だ。池を眺めるが特に変わった様子はない。時折、風が運んだ藻の匂いが鼻についた。水面にはぷくぷくと泡が浮かび消えていく。ここも同じ。少しも変わらない。
 暇というのは思考をも鈍らせるようだ。古い小箱に目が留まる。
『さかなのえさ 10りょう』


「これでお終いね……」
 カカシは最後の一つを池に放ると人知れずため息をついた。
 つい先日まで昼夜問わず任務に明け暮れていたはずが……。空になった餌袋をくしゃくしゃに丸め、無造作にポケットに突っ込んだ。
「そういえば……」
 確か、が四苦八苦していたのもこの場所だったはずだ。あの班を解消したということは、また新たな班を組んでいるのだろうか。暇というのは余計なことを考えるにはもってこいの時間らしく、ふと、墓地で会った時の彼女の姿が思い浮かんだ。他の者と同じように嗚咽を漏らすこともなく、ただ涙を流す姿が印象に残っていた。そして、目に浮かぶのは「あの、」と口ごもっている姿だ。彼女を見た者の大半は大人しそうなくノ一、そう思うだろう。突拍子もないことをするようには見えない。だが、何かの拍子にぼっと火が点く瞬間は誰にでもあるようだ。
 人の気配に振り向くと、カカシは大きくため息をついた。

「カカシ! 随分暇をしてるようだな」
 ふんふんと鼻歌でも歌う勢いでやってきたのはマイト・ガイ。聞くまでもないことだが、一応聞いておくのが礼儀だろうとカカシは考える。
「何のよう?」
「久しぶりに例のアレをしようじゃないか!」
 想像通りの言葉だ。
「悪いけど、また今度ね」
 するりと懐に入ってくるガイには時々手を焼いた。どうせ今日もしつこく言ってくるのだろう、カカシはそう考えていたが、この日のガイは思いの外あっさりと身を引いた。
「ならば、勝負は次に回すとするか」
 気が乗らない日だってあるに違いないとガイはいう。
「お前……何か企んでる?」
 思わずそんな言葉を投げかけた。はっきり言って、拍子抜けだ。
「なんだ、がっかりしたのか?」
 にっと笑みを浮かべるガイ。カカシは答えることなくそっぽを向いた。いつまでも立ち止まっている気にもならず、再び歩みを進めると、案の定というべきか、ガイもカカシの後を追ってきた。そして、ふんふんと鼻歌を歌いだす。どうやら勝負に気乗りしないのはこの男のようだ。

「で、オレに何を言いにきたのよ?」
「聞いて驚け。明日からオレは、なんと……担当上忍になることになった! そう、オレに弟子がつくんだ!」
 ははーっと胸を張るガイを尻目に、カカシは無言を貫いた。
「……もっと驚かないのか?」
 聞いて驚け。前もってそう言われて驚くわけがない。そう思ったのもある。鼻歌が微妙だったからか。それともわざわざ自慢を言いに来たからか。いや、違う。そんなことはいつもと大して変わらない。なのに、何故かカカシは心の収まりがつかずにいた。

「担当上忍ね。」
 含みのある言葉にガイはむっとした。
「なんだ、その言いぐさは」
「お前に下忍の世話なんてできるの?」
「なっ!ほ、火影様が認めてくださったんだぞ、できるに決まってる。カカシの方こそどうなんだ」
「何が」
「試験、落としたらしいじゃないか」
「……」
 試験を受けるのは、あくまでも下忍の候補生。基準に沿わなかったから、落とす。それのどこが悪いというのか。
「……わざわざ小言を言いに来たってわけか」
「小言だと? オレはただ」
と、ガイの言葉はぴたりとそこで途絶えた。

「こ、こんにちは……」
 気がつけば、気まずそうな表情を浮かべたがすぐ近くに立っていた。

 助かった。カカシはそう思った。素直によかったねとそれらしいことを言えば済むはずが、妙にこじれてしまったことをカカシは少しばかり後悔した。



「しかし、本当に久しぶりだな」
 に声をかけたガイは、さっきの険悪な空気はなかったかのように明るく振る舞った。
「ほんとだね、最後に会ったのは……1カ月前かな?」
 考えながら答えるはさっき里に戻ったばかりだという。任務帰りに火影室へ直行後、ここに来たのだろう。
「早く渡したほうが良いと思って。はい、これ」
 三代目から、とは小さな巻物をガイに手渡した。
「あと、トクマくんが“よろしくお願いします”って言ってたよ」
「トクマ?」
 ガイはぽかんとしてを見つめた。ピンと来ていない、そう確信したカカシは思わず口を挟んだ。
「日向トクマ。」
「あ……ああ!日向トクマだな。任せとけ!と言っておいてくれ」
 如何にも知った風にガイはいう。カカシが思うに、ガイがまだ顔と名が一致していないことには気づいていない。「うん、伝えとくね」とは何の疑問も持たず快く伝言を引き受けた。しかし、ガイの意見はころりと変わる。出来かけの台風のようだ。だが、一つ決めたら一直線。
「いや、やはりオレが直接伝えに行くとしよう」
「え、でも……」
「その方が彼も安心するだろうからな。それがいい」
「そっか……うん、そうだよね」
 はそう言った。しかし、その表情は明らかに困惑していた。その様子をみていると、なんとなくカカシには想像がついた。日向トクマが言ったのはそれだけではなかったのではないか、と。
 それにしても。
 ガイはいつからと親しくなったのだろうか。

 ガイはがあまり里に居ないことを知っているのか、「いつまで居るんだ?」と当たり前のように切り出した。対するも驚くこともなく、二日後の朝一に発つ予定であることを告げる。
「結構タイトだな」
「そうでもないよ、ルートは決まってるから。外務も慣れれば意外に何とかなるんだね」
「そうか。だが、油断は禁物だ。単独任務を狙った不届き者がうろついてるかもしれん」
「そんな、大げさな……」
 私なんかを捕まえてどうするの、とは苦笑いをする。
 しかし。
「単独任務?」
 カカシがぽろりとこぼすと、ガイが呼応するように言った。
「せめてツーマンセルにできないものなのかと思うんだが……、頬のそれは?」
 ガイは訝しげにを見つめた。同じくカカシも視線を移すと、彼女の頬には擦ったような痕がついていた。よく見れば頬だけでなく、あちこちに擦り傷が残っている。まるで地面を這いずりまわったかのようだ。しかし、当の本人は然程気にしていないらしく、
「あ、クマパンダに引っかかれたのかも」
と、軽い口調でそう言った。
「……なんでまた」
 困ったものだとカカシは思う。黙っていよう、そう考えて口を噤むが、気づけばまた一つ、二つ、と口を出してしまうのだ。
「里に帰る途中で下忍たちと会って……、あまりにも危ういから……」
 危ういから……。つまり、はその下忍たちを手伝ったということだろうか。
「勝手に下忍の任務に手を出したってこと?」
「……うん」
 は小さく頷いた。そんなことして、と喉まで出かかったが、カカシは口を噤んだ。任務計画には下忍の育成も含んでいる。まずいことをしたとも思っているのだろう。伏せ目がちになったは覇気を無くしたように口を閉ざした。すると、ガイはむっとした表情を浮かべてに言った。
「その班の上忍はどうした?」
「あ、……それが見当たらなくて。途中ではぐれたのかなと思ってたんだけど」
 下忍もよくわかっていないようだったとはいう。
「けしからん奴だな、下忍を放って何をしてるんだ」
 自分ならそんなことはしないとガイは息巻く。だか、そうとは限らない。
「放っておいたかはわからないだろ、どこかで見ていた可能性だってある」
 それに、もし本当に放っておいたのなら、それはそれで大問題だ。

「……そうだよね」
 ぽつりと呟いたは立ち止まり、背を向けた。すかさずガイが引き止める。
「どこに行く?」
「私、謝ってくる」
 余計なことをした。そう言っては駆け出した。後ろ髪は左右にはね、泥のついた背嚢の上蓋がパカパカと音をたてた。
「後ろ、」
 カカシに気づいたはかぶさるように言った。
「あ、金具が壊れてるの」
 は赤らんだ頬を誤魔化すようにははっと空笑いをし、その場から消え去った。その表情は羞恥だけではなく、疲労が滲んでいた。余程その下忍が危うい状況だったのか。本当なら、彼女にはクマパンダと格闘する余裕などなかったのではないか。カカシにはそう思えてならなかった。確かにガイが心配する意味がわかる。戦後数年が経過したとは言え、中忍が一人きりは危険だ。
「少なくとも中忍には部下、もしくは上忍を付けるべきだ。単独任務といい担当上忍の件といい、三代目は何を考えて……」
と、気づけば独り言を呟いていた。カカシがそれに気づいたのは、「なあ、カカシ。」とガイが呼んだ時だった。しまった、とカカシは心の中で呟いた。
 また小言か? カカシはそう思ったが、ガイは黙ったまま眉を潜めた。

「カカシ、お前……」
「……何?」

 なんだ、何が言いたい。
 カカシは様子を窺った。返事がまずかったのか、元々濃い顔がむっとしたまま更に濃くなっていく。しかし、眉間に皺を寄せ見つめられるだけで言いたいことがわかるのなら苦労はない。もったいぶるガイを見て、思わず語気が強くなる。

「だから、何って言ってるでしょ」
「カカシ。は、上忍だ」
「……」

 失礼すぎるぞ!そう言われても、カカシは無言のままだった。
 上蓋を揺らしながら走って行くの姿がカカシの視界をかすめた。もちろん、そこに彼女はいない。
 
 そもそもこの男、ガイも人のことを言えないくらい失礼だ。普段は人の顔をまともに覚えない。何度会っても興味がないとまるっきりだ。それなのに、なぜそんなことを知っているのかとカカシは疑問だった。その間もガイはうるさく耳元に寄った。

 が聞いたら、ショックで卒倒したかもしれない。
 が聞いたら、任務でミスを連発したかもしれない。
 が聞いたら、ひと月は屍のように過ごしていたかもしれない。

 などと言うのだ。さすがに屍は言いすぎだ、と思いつつカカシは黙って前を向く。

 ただ、目も合わせずどんよりとした空気を醸し出すを想像するのは容易いことだった。

一、朦々

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