空蝉-間章-

 この本は当たりだ。
 今から面白くなる、というところでカカシはそれを閉じ、忍具ポーチにしまい込んだ。



 昼下がり。あうんの門に任務を終えたフォーマンセルの一行が姿を現した。特に急ぐ様子もなく、ゆっくりとした足取りで門番の前を通り過ぎていく。それを追うようにやって来たのは一人のくノ一。警戒するように門を見つめたかと思えば、安堵した表情を浮かべる。そして、門をくぐると足を止めた。
 いつかのように目の前を素通りするつもりはないらしく、珍しくの方から声を掛けてきた。

「誰か待ってるの?」
「そういう訳じゃないけど。何かあった?」
「うーうん、もしかしたらアスマを待ってるのかなって思っただけ」

 は門番に会釈をすると何事もなかったように街中へと足を進めた。指折り数えながらぶつぶつ言うのは巻物の数を考えているのだろう。もう里に着いたというのに手違いがあったらすっ飛んで戻るつもりなのか、とカカシは思う。
 あくまでも、さりげなく。
 そう言い聞かせるように、カカシは一歩半ほど後を歩いた。背嚢は新しく買い換えたのか、真新しいものに変わっている。今日は後ろ髪が左右に跳ねることなくきちんとフォルムを保っていた。服は所々汚れてはいるが、先日のようなことにはなっていない。
「あの……」
 気づけば、振り返ったが不安げな顔をしていた。
「もしかして、背中に何か付いてる?」
「ん?……ん」
 ほらね、とカカシは一枚の木の葉を見せる。偶然、今しがた舞い落ちたものだ。
「ありがとう、さっき振り払ってきたつもりだったんだけど……実は、さっき蜘蛛が付いてて。先週はゴミムシ、その前はクワガタ」
 は眉を下げ、うんざりしたように呟いた。
 道中、は何度も欠伸を噛み殺しては手の甲をつねった。気が緩まぬように背筋を伸ばして歩くよう務める。きっと彼女の頭の中では帰宅後も行動スケジュールがみっちりと埋まっているのかもしれない。
「任務報告書くらい明日にしたら?」
 何の気なしに呟くと、は弾かれたようにこちらを見つめた。
 —— あ。
 カカシがそう思った時には遅かった。
「なんで、……」
 任務日程を見たのを勘付かれたのかもしれない。さっきまでテンポ良く話していたのが嘘のようにピタリと止まる。結局は目的地に着くまで黙りだった。この瞬間、カカシは紅に問いかけた山城アオバの気持ちを理解した。本音か上部か、時々考えることがある。きっとやなだツヅリなら、そう思わずには居られなかった。
「……じゃあ、私はこっちだから」
 カカシが返事をする頃にはは背を向けていた。駆け出したは玄関の前で立ち止まり、ゆっくりと扉を開き建物に入っていく。パタンと閉まる戸の音が、まるで彼女の心の内を見ているようだった。






「よう。……なんだ、その顔は」
 立ち止まったまま動かないカカシを見て、幽霊でも見たのか?と男はいう。それから頭の先からつま先までじろりと視線を巡らせ、にやりとした。
「へー、なかなか似合ってるじゃないか」
「……ただの制服に言われてもね」
 似合うも何もない。その答えを耳にしたアスマはつまらなそうにため息を吐いた。そして、噂は本当だったんだな、とぽつりと言った。

「ま、とりあえず元気そうでよかったよ」
「そりゃー、ヘロヘロだったら困るだろ」
 カカシは隣を歩く男を流し見た。と話したのが先週。まさか本当に帰ってくるとは思いもしない。
「で、いつ戻ったの? 知ってたらお出迎えしたのに」
「出迎え、カカシが……?」
 まるで悪い夢でも見たかのように、アスマは眉を潜める。
「あ、オレじゃない方がよかった?」
「あのな……」
「じょーだんよ、冗談」
「……戻ったのは昨日の夜、と言っても殆ど明け方だけどな。おかけで寝不足だ」
 アスマは言った側から欠伸をし、感慨深げな面持ちで火影岩に視線を移した。
「ここは変わらないな……」
 細かく言えば変わったところもある。それでも見渡した里の景色は然程変化がないように見えるものだ。決して深くは言わない男の横顔は、貫禄が増したように見えた。

 猿飛アスマが里に戻ったという話はすぐに広まった。紅は喜ぶだろうな。カカシはそう思っていたが、いつもの団子屋での彼女はカカシが想像するものとは全くの真逆だった。おかえりなさいと言うなり、
「あなたが筆まめではないことはわかってる。忙しかったのよね、私もそうだった。でもね、どうしてメモの一つも寄越せないのかしら?」
と、お冠である。
 これにはアスマも予想外だったのかタジタジになった。いつ帰郷するのかと度々ポストや伝達小屋を行ったり来たりしていたのだと考えると、多少小言を言われるのも致し方ないだろう。このような痴話喧嘩ともとれる二人に割って入る気にもなれず、カカシはただ黙って事の成り行きを眺めていた。

「だから、私にそんなことしても時間の無駄!」

 その声に一同は顔を見合わせた。
 店先の通路では慌てて辺りを見回すの姿があった。背嚢を背負っているということは、今から任務に行くのだろう。すぐ近くで耳をそばだてる知人が居ることには気づいていないらしく、咳払いをして再び男の方を見据えた。
「ホントにお願いしますっ! この通り!」
 懇願する男にはぎょっとした表情を浮かべる。それは口舌事を止めるには十分だったらしく、アスマと紅は団子を手にとったまま路上に釘付けになった。通路の真ん中で声を上げる男女に、通りすがりの者でさえ視線を向けた。
「やめてよ、そういうのは……ほら、みんな見てるから」
 それでも男は周りの視線など全く気にしていないのか、頭を下げたまま大丈夫と言い張った。その男の手には封筒らしき物が握られている。だが、はそれを受け取ることを断固拒否した。じりじりと詰め寄られては後ずさる。
「それは無理。受け取れないって何度も言ってるよね?」
「はいっ! ですが、そこを何とか!」
「そんなこと言われても……もう、お願いだから付きまとわないでよね!」
 そう言い残し、は……どろんしてしまった。
「うわっ! また逃げられた……」
 男は盛大にため息を吐き、肩を落とした。しばらくすると諦めたのか、やがてその男も消え去った。


「あれは……?」
 アスマは答えを探すように紅とカカシを見つめた。しかし、それに答えられる者は誰一人として居なかった。があんなにもはっきりと大声で「無理」と言い切る姿はこれまで見たことがない。不審に思うのは当然だ。そもそもあの男は誰なのか。まずはそこからかもしれない。
「はて、あの男は……」
と、いつの間にやってきたのか、ガイが店先で呟く。
「アイツを知ってるのか?」
 アスマの問いかけにカカシも少なからず興味を持った。だが、
「……いや、知らん。誰だ?」
 やっぱりな。
 そう思うと同時に、一瞬でももしやと考えた自分が間違いだったとカカシは思い直した。ガイは二人が居なくなった通路を見つめ、「あれが恋文というものだろうか……」「あれは甘酸っぱいほうの青春だな」と呟く。確かにあれが恋文である可能性は否定できない。青春かもしれない。だか、がぷんすか腹を立てているのはいささか珍しい光景である。
「あの男、またって言ってたわね」
「しつこい男は嫌われるっていうのにな」
 紅とアスマはそれぞれ意見を述べると、団子を一つ頬張った。その傍ら、ガイがなるほどなと言いながら密かにメモを取る。
「押してダメなら引いてみろってのもある」
 それに深い意味はなかった。何となく呟いただけ。ガイのメモ帳に一つ付け加えるくらいの軽い気持ちだった。
 三方からじっとりとした視線を感じたカカシは忍具ポーチから本を取り出した。栞紐を挟んだページを広げる。しかし、一向に文字が頭に入らない。代わりに浮かぶのは、のぷんすかした声だった。
『だから、私にそんなことしても時間の無駄!』
 こんなことを言われて心が折れないあの男は相当だ。
 黙り込んでしまうのとどっちがマシだろうか、とカカシはぼんやりと思った。






 それからしばらくのこと。
 未だカカシの試験に合格する下忍候補生はいなかった。その間、ガイは芋掘りだの猫探しだのと下忍たちと同様に任務に励んでいた。ある日の任務で見かけた際、まずカカシが思ったのはどっちが下忍かわからないということだ。ガイ曰く「まずはオレが手本にならねば!」とのことだが、カカシには少々やり過ぎとしか思えなかった。確かに三代目は『上忍は忍の手本であれ』という。だが、上忍が泥まみれになって田植えをしろとは言っていないし、下忍以上に変顔をして赤ん坊をあやせとも言っていない。それに、あうんの門はもう少し静かに出てもいいはずだ。「さあ、若人よ! いざ出立の時!」などと言う決まりはない。二名を除き、げんなりとした顔で無理矢理にも拳を天に掲げていた男女を見た時は同情すら覚えた。何しろこのやり取りがあと数年続くかもしれないのだ。夢と希望を秘めて晴れて忍になったのだから、そのような表情にもなるだろう。だが、ガイのことを思えば一人だけでも慕っているのは良かったのかもしれないとも思う。「ガイ先生、ボクはどこまでも付いて行きます!」と、熱心な少年の声はどこまでも木霊するようだった。

 そのような調子でガイが弟子を連れて任務にでかける一方、カカシは中忍三名と共に里の外へ任務に出ていた。

「雨なんて最悪ですね」
 同行していたくノ一が空を見上げて呟いた。酉の方角から真っ黒な雨雲が里の方へと流れていた。
「少し急ごう。雨に打たれずに済むかもしれない」
 風も冷たくなってきた。濡れて風邪を引くわけにはいかないとカカシは足を早める。幸いにも任務は終えていた。あとは里に戻るだけだ。休憩を早めに切り上げ急ぐが、雲行きはどんどん怪しくなるばかり。息を吸うと、遠くの方から湿気った土の匂いがした。森を駆け抜けながら、視界をかすめた影に気を取られかける。雨雲はすぐそこ。降られるかは運次第。
 あうんの門に着くと、ぽつりとアスファルトに雫が落ちた。ぽつぽつと広がる黒い点はあっという間に地面に広がる。
「カカシさんも」
 軒下に駆け込んだ班の一人がさっと横に捌け、スペースが空いた。さっとそこに加われば良いはずが、なかなか踏み出せない。そうしている間にも雨粒はひどくなるばかりだ。
「……悪いけど、みんなは先に戻ってて」
 その言葉に、皆がこちらに注目する。不思議そうにするのは無理もない。
「何か不備でもありましたか?」
 くノ一が不安げに眉を寄せた。
「いや、そうじゃない。だた、ちょっと用事を思い出してね」
「えっ?」
 間の抜けた声を耳し、カカシはまたあうんの門へと足を向けた。
 せっかく濡れないように戻ったのにな、と自笑する。雨雲から容赦なく降り注ぐ雫が衣服を重くした。


 確か、この辺だったはず。
 移動時間も考え座標を絞ったが、それらしい人物は見当たらなかった。
「見間違いだったか……」
 独り言は雨音にかき消されていく。これではわざわざ濡れに来たようなものだ。ため息が漏れそうになった瞬間、カカシはそれを飲み込んだ。とっさに手にしたクナイが何かを弾き飛ばした。雨で視界が鈍り、カカシが額当てに手をかけようと左手を伸ばした時。
「カ、カカシさん?」
 振り返ると、すぐそこに目をまんまるにして驚くの姿があった。
「どうしたの? この辺で何かあったの?」
 慌てて周囲を見渡したは表情を強張らせた。

「いや、……」

 えーと、えーっと……?
 どうしたのかと聞かれても答えようがない。班の者は今頃自宅に戻り、ゆっくりとシャワーでも浴びて寛いでいるはずだ。任務は至って普通。何も問題はないのだから。

「ちょっと、道に迷って……」
 とっさのこととは言え、あまりにも出来の悪い返答にカカシは己を案じた。を見ると、目をパチクリさせ困惑したように言った。
「……嘘、だよね?」
 それはそうだ、こんな見え見えの嘘があるものか。わずかにも、あうんの門の時と同じく何事もなかったように過ぎていくのを想像したのは甘かった。


「任務帰りに人影を見た気がしたから、念の為。見間違いだったけど……」
「あ、それで。でも、何もなくてよかったね」
 適当な穴蔵で雨が引くのを待つ。カカシの想像通りはずぶ濡れだった。巻物が濡れないようにと、せっかくの雨衣は背嚢を包んでいる。早く止まないかな、と空を眺めるは両腕を抱き寒そうに肩を震わせた。転がっていた枯れ木に火を点けるとの表情が少し穏やかになった。「やっぱり、カカシさんは違うね」という。マッチも湿気ってしまい、正直な所困っていたのだと苦笑いをした。
「……火遁は?」
「火遁は……その、ちょっと調子が悪くて」
 それを聞けば、多少は来た意味があったとカカシは思った。そうでなければ本当にただ、ずぶ濡れになっただけで、なんだか少し……。
 を見るとすっかり真っ白になっていた顔に生色が戻ってきた。手裏剣ホルダーの留め具を掛けたは空いたままになった腰元のクナイポーチに手を伸ばす。使わないに越したことはないが、それにしても。あまり減っている風でない。それがなんとなく気になった。ある程度雨が止み、芯から温まるまでもうしばらくかかるだろう。そう考えたカカシは口を開いた。

「手裏剣、結構鋭い投げ方するけど、誰に教わったの?」
 おそらくアカデミーの教師ではないだろう。上忍にあんな投げ方をする者がいただろうか。カカシはクナイで弾いたときの感触を思い出しながら、考えを巡らせた。
「祖父に」
 ああ、なるほど。と、ひとり納得するカカシには続けた。
「昔……アカデミーの時に少しだけ。だから手裏剣だけは、まあ……」
「せっかくだからクナイも投げてみてよ」
「えっ、どうして?」
が投げたところ見たことないから」
「……そ、そうだっけ?」

 はポーチからクナイを一本取り出すと何度も握り直し、持ち手の感触を確かめた。かなり用心深い……と言うよりも、渋っていると言ったほうがいいかもしれない。
「……じゃあ、あの楠でいい?」
 カカシが頷くと、は真剣な眼差しを向けた。

 思ったより悪くない。カカシがそう思ったのはつかの間、クナイは目標をかすり雑木林の中へと消えていった。飛距離はまずまずだった。手が滑ったのだろうとを見たカカシは口を噤んだ。は耳を朱に染め、下を向いていた。手裏剣の腕前とは天と地の差だ。カカシは徐に自分のポーチからクナイを取り出した。的はさっきと同じ。こんな感じか?と一投する。すっと線を描くそれは、と同じくあらぬ方へ飛んでいく。それを見たはぽかんとこちらを見つめた。口には出さなかったが、どうして? としっかりと顔にある。「土砂降りだもんね、たまにはそんなことも、」と、明らかに視線を泳がせた。

「手首をもう少しまっすぐしてみるといい」
「まっすぐ?………あ、」
 は慌ててポーチからクナイを取り出した。
「まっすぐって、これくらい?」
「これくらい」
 カカシはが握っているクナイを少しだけ傾けた。微々たる差だが、今度は上手くいくはずだ。
「じゃあ、さっきの木ね」
「……また投げるの?」
「当たり前でしょ」

 難しい顔をしたはひとつ息をつき、クナイを放った。しかし、あらぬ方へと飛んだそれはまたしても雑木林に消えていく。ほらみろと言わんばかりのは地面を見つめていた。だが、さっきは本当に滑っただけだ。ほら、とカカシが自分のクナイを差し出すと、はよりはっきりと表情を曇らせた。
「じゃあ、これで最後」
「でも、……」
 探るようにこちらを見たはそれを手にし、再び前を見つめたのだった。



 時には暇も悪くないのかも……。そう思えるようになったのは単なる慣れによるものだろうか。
 里に戻り、ほっと息をつくつもりで顔岩を見たカカシは呆れた吐息を漏らした。
 顔岩の上で立ち尽くす人影はアカデミーの教師。フェイスペイントが雨に流れ、見事なマーブル色が出来上がっている。
 これは派手にやったな。
 そう思ったからだろう。困り顔の恩師が笑いかけた気がした。

三、恟々

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