空蝉-三章-

 木ノ葉の山地にはひっそりと佇む塔がある。高いフェンスで囲まれたその場所は、奥に進むにつれて樹海が広がっていた。人の手が入ったのは、おそらくその塔が建った時くらいなものだろう。普段は害獣とみなされる獰猛な野生生物も、そこではその限りではない。滅多なことでもない限り誰も立ち入らない『第44演習場』。そこが第二試験の会場だった。


「よりによって教室の窓か……」
 作業場の一室でしきりに時計を見ていたいのいちは、物品手配書に続き二枚目の見積書を目にすると表情を歪めた。アンコが壊した窓の修繕費用が思いの外高額だったのだ。
「それで、これを持って来たのは誰だ」
「飛竹トンボです」
 彼には拒否する選択はない。了解しました!と快く引き受けたに決まっている。きっといのいちもそう思ったのだろう、「アイツか……」とそれ以上何も言うことはなく一つ息をつく。
「いのいちさんもご存知だと思いますが……その彼ですが、情報部に入りたいそうです。一応、書類もここに。」
 それを手にしたいのいちを見ては一先ず胸を撫で下ろした。受け取った手前、きちんと判も押し一筆書いておいた。
「……どうですか、いのいちさん?」
 しかし、いのいちはの心情など気にしている場合ではないらしく、
「いや、やはりこれはアンコの天引きに……」
と、再び時計を見てその場を後にした。まさに心ここにあらずという状態だ。
 


「大丈夫だよね……」
 は森からちょこんと顔を出している塔の天辺を見つめた。
 試験初日、日没まで残す所数時間となった。荒れた森は昼間でも薄暗い。受験者は既に日が落ちたと感じるだろう。試験は最長五日間。夜通し試験は継続され、その間は自給自足。もちろん宿舎やテントもない。何が襲ってくるかわからない場所で野宿。逃げ出したくても逃げ出せない。いのいちもそわそわと時計を気にしていたくらい、危険な場所だ。

 しかし、どんなに心配しようとも付き添いの忍たちはただ待つしかない。街中では土産物屋を覗く国外の忍の姿がちらほら目についた。試験担当者は手が空いた者から巡回することになっているが、特に変わった様子はない。警備班の腕章を付けた木ノ葉の忍たちも、少々暇を持てあましているように見受けられる。そして、同様にも筆記試験が終わるといよいよ手持ち無沙汰になった。この時、時刻は夕七ツに差し掛かっていた。商店街の一角は揚げたてのかりんとうや甘い糖蜜の香り、饅頭やチマキの蒸しあがる匂いが漂っている。空腹に負け、誘惑に駆られた人々が店先で足を止める。
 ふと、二階建ての長屋を見たは立ち止まった。
 思い出したのは、おずおずと紅の背後から顔を出すイトの姿だった。夕暮れ時というには少し早い時間帯。今、彼女は何をしているのだろう。
 —— ガタン。
 戸音が聞こえ、咄嗟には路地に身を隠した。屋内に人の気配がある。誰かが駆け降りてくる、彼女の家族だろうか。それとも本人か……。
 キィと錆びた蝶番が二度鳴り、足音は遠ざかる。どうやら裏口から出ていったようだ。良かったのか悪かったのか。通りに視線を向けたは身を強張らせた。目があった男は澄ました顔をする。「お久しぶりです」という声は、が想像していたよりもうんと大人びていた。

「尾行ではなさそうですね」
 トクマはちらりと路地の様子を覗き見て、何をしていたのかとに疑いの目を向ける。
「あ、うん、ちょっとね……」
さん、試験関係者じゃないんですか?」
「今はその、暇というか巡回中で……トクマくんは?」
「オレは見ての通り」
 しまったと思うがもう遅い。“暇”という言葉もきちんと拾っていたようだ。トクマは少しむっとした声で任務帰りだと答えた。
「そっか、それは……お疲れさまです」
「ええ。本当は昨日帰る予定だったのにあれもこれも、ついでにこっちもって……」
 明らかに不満が漏れ出るトクマを見て、なんだかいたたまれない気持ちになっていく。上忍や中忍が抜けた分、彼に任務の皺寄せがきたのだ。すっかり疲れ切った帰り際、壁にへばりついた女を見て彼はどのように感じたことだろう。はごそごそとポケットを探り、そして湯気の立つ店先へと視点を移した。



さんも一つくらい食べたらいいのに」
「私は遠慮しとく、まだ巡回中だし……」
 温かいチマキと胡麻団子はまだ封をせずに開けたままだった。ざっと二人前はあろうかという量だ。これを一人で食べるというのだから驚きだ。
「トクマくん、また背伸びた?」
「いや、さすがにもう伸びないと思うんですけどね?」
 よくわからないとトクマは首をかしげたが、は確信していた。以前会った時よりもわずかではあるが、目線が違うような気がする。
さんは縮みました?」
「さすがにそんなこと……ない、ないよ絶対」
 袋を両手に抱えたトクマは心なし機嫌が良くなっていた。すぐに帰宅する選択肢は一旦保留となったのか、「そうかな〜」とトクマはからかうような笑みを浮かべた。すっかり大人になってしまったと思わせ、こうした所は少年時代の名残が見える。
「第二試験、みたらしアンコだそうですね」
「そうなんだよね……まさかアンコだなんて」
「あの人、何かしませんでした?」
「え?」
「いや、何もないならいいんですよ」
「何もなくはないよ、教室の窓が割れて、壁に穴が空いて、予算がぎりぎりでいのいちさんが、……もしかして、知ってたの?」
「まさか。ただ、随分気合が入ってるようだったから気になって」
 ニヤリとするトクマを見ては思った。もっと早くに聞いていればいのいちが頭を抱えることにはならなかったかもしれない。
「トクマくんは今日も道場に?」
「今日はのんびりするつもりですよ。屋敷に戻ってもかわいい下忍が居ないのでね」
 心配じゃないのかと尋ねれば、トクマは以前と変わらない調子でけろりとする。「心配する暇があったら今は寝ていたいですね」と、袋から胡麻団子を一つ手にとった。
 欠伸をして屋敷の方へ足を向けるほどには余裕があるらしい。



 里の中は狭いものだな、とは思う。四度目の巡回に差し掛かったとき、ふと目に留まった。

「お疲れ様です……」
「おつかれさん、ってさっき会ったばかりだけど」
 蕎麦屋を出て然程経っていないことを揶揄するようにカカシはいう。任務が制限されている今、この人物も他の忍同様に待つしかないということのようだ。

 街を離れ、がふらりと足を向けた先は木ノ葉の中心地から少し奥まった場所だった。木々に囲まれているからか、どことなく空気が違う気がする。
「こんな所まで巡回?」
「そう……御参りも兼ねて」
 探している時は見つからないのに、特に用のない時に限って何度も会う。ただ、“ばったり会った”というのは都合のいいように考えているに過ぎない。カカシの背を見つけ、つい、後を追ってしまった。
 そんなことを言えるはずもなく、がとっさについた嘘だった。

「さっき、トクマくんにも会ったの」
「オレも会ったよ」
「あ、そうだったんだ」
「この時期大変だよね〜、こき使われるからさ」
「まあ、そうだね」
「そのわりに元気そうだったけど……若いからかねぇ?」
「そうかもね」
「……やっぱそう?」
「え?」

 確かにトクマは若い。あのチマキやごま団子もぺろりと平らげてしまうかもしれない。朝からアカデミーの階段を何度も駆け下り、情報部を何度も往復し、休憩なしで里中を四巡してもへっちゃらに違いない。きっとこの階段だって軽々と登るはずだ。だが、それはこの男もそうだった。つい今しがた「最近オレも足腰が、」と言ったのは全くの嘘であることは間違いない。

 不意に先を行くカカシが立ち止まり、こちらを見下ろした。
 風が横切り、乾いた緑の匂いにまじり樹の葉がひらりと舞う。薄暮が迫る中、くっきりとその輪郭が浮かび上がる。

「もしかして、息上がってる?」

 —— あれ……、

「……そんなことないよ、平気」

 前を見据えたまま、無意識に滲み出た額の汗を拭う。「もうちょいだから」と前を向いたカカシを見て、は足取りを早めた。



 急勾配の苔むした階段を登りきり、石造りの鳥居を抜けるとそこでは二匹の守護獣が睨みを効かせ待ち構えていた。奥の拝殿の柱は至る所に千社札が、左側には年季の入った御神灯が。その側面は合格祈願という文字が見え隠れしている。
 は目の前の御社を見つめた。一瞬感じた既視感はなんだったのか。
「ここに来るの久しぶり?」
 その問いかけには考える。
「そういうわけじゃないけど、……初詣は行くよ」
 といいつつ、その初詣も何年前のことか。二、三年の話では済まないかもしれない。
「てっきり、一生懸命お願いするタイプかと思ってたんだけどね」
 はどきりとした。もちろん、それが図星だったからだ。
 子どもの考えることだと今なら思う。自分はそれくらいしないと駄目だと勝手に思い込んでいた。まさに藁にもすがる思い。アカデミーの試験の日。合格発表に、卒業試験。もちろん、中忍試験も欠かさなかった。そうしなければ落ち着かなかった。しかし、
 神様に願い事はするもんじゃない。
 そう言ったのは祖父だ。神様は願い事をすると後回しにする天の邪鬼。だから、嬉しいこと先に言う。すると喜んだ神様が先回りをしてくれるのだ、と。
 祖父は御伽噺おとぎばなしのような話をするのが好きだった。
 そんな迷信じみたことを信じて、懸命に手を合わせていたことを思い出す。

 最後に手を合わせたのは、いつだっただろう。
 すっかり足が遠のいて、どれくらい経っただろう。

 雨晒しで劣化した拝殿は煤けて見えた。それでも蜘蛛の巣一つ付いていないのは、誰かが手入れをしている証。
 カカシもこういうものを信じるのだろうか。どうせならガイやアスマたちを誘えばよかったのに。そんなことを考えながら、はポケットを探った。さっき店で買い物をしていて良かった。ちょうど良い額の小銭を取り出し、賽銭箱にさっと投げ入れる。
「忘れてる」
 背後のカカシの声にははっとして手を止めた。
「あっ、そうだった」
 吊り下げられた鈴緒に触れると、弾みで小さく音が鳴る。
「鈴を鳴らすのは何故か、知ってる?」
 視線を向けたものの、その横顔からは何を思っているのか読み取ることはできない。カカシは正面を向いたまま、奥の扉をじっと見つめていた。
「一つは魔除け。もう一つは……神様を呼ぶんだって。遠くにいるから、呼ばないとこっちに来てくれないんだと。鈴の音がこの世を繋げてくれる……ってオレが子どもの頃に聞いた話だけどね」
 単なる迷信だろうとカカシはいう。
「それ、」
「ん?」
「……うーうん、何でもない」

 鈴緒を引き、鐘の音に耳を澄ます。
 それは、揚々と話す祖父の姿を想起させた。



 下りは案外楽だった。ひょいひょいと降りていくと、通路まであっという間にたどり着く。
「ところで、本戦は試験監督も観れるもんなの?」
「多分観れると思うけど、どうして?」
 第三試験は一対一の試合形式で行われ、会場の外周は警備班が受け持つことになっていた。情報部が配置されるとすれば、観客席辺りだろう。
「あのさ、」
 振り向くと、わずかにカカシの視線が泳いだ。
「もし時間があればの話だけど……アイツの試合だけでも観てやってくれない? 相変わらず落ち着きはないけど、フェンスからひっくり返るような様ではないからさ」
 が最近見かけた彼の姿はカップラーメンを大量買いしているところだった。そして先週、
 カカシがイルカと揉めたらしい。
 イルカがカカシと揉めたらしい。
 そんな噂話があったのを思い出した。揉めた理由も試験だったと聞く。「うん」とが頷くのを見たカカシは「……って、第二試験さえ危ういってのにね」と茶化したが、トクマのように余裕とまでは行かなくとも、彼らが第二試験を突破すると信じているのは間違いない。
「でも、ナルトくん私のこと覚えてくれてるかな……」
 そして最後の一段を降りたは立ち止まった。
「……ごめん!お参りしてないよね? 私、ほんとに」
 どうしてすぐに気づかなかったのだろう、ここに来た意味がまるでない。ひとりでぺらぺら話して、何を考えているんだと叱咤したいくらいだ。慌てるを尻目にカカシは歩みを進める。
「あー……それね、大丈夫」
「大丈夫って、」
「オレはさっき済ませたから」





 の元に一報が入ったのはそれから間もなくのことだった。
「どこに行ってたんだよ、探したんだからな」
 カカシと別れた直後。すっと目の前に現れた男、ランカは肩で息をしていた。
「ごめん、予定通り巡回に……少し遠くまで見たほうがいいかなと思って」
 少し足を伸ばしすぎた。やはりカカシについて行ってしまったのはまずかったかもしれない。彼のただならぬ様子には息を呑んだ。
「まあいい、すぐにアンコさんの所に行ってくれ」
「アンコ?」
 第二試験開始から一時間ほどしか経過していない。まさか、例の請求書の件で。すると、ランカは声を低くした。
「緊急事態だ」



 が塔へ向かうと、監視室で待機していたアンコはソファーに腰を下ろし、不機嫌な顔を顕にした。試験会場の近くで三体の変死体が発見されたという。

「一応確認よ。どう、間違いない?」

 テーブルに並べられた写真を見て、は絶句した。遺体はすべて草隠れの忍たち。しかも全て顔がない。溶けたようになくなっていた。試験が始まった時には既にこの有様だった可能性が高いという。
「はい、間違いありません」
 は証明写真の三枚を見比べた。何度も記憶をたどってみる。一体いつそんなことを。もしかしてどこかで、ということも。その様子を見て、アンコは不審に思ったようだ。途端に彼女の視線が鋭くなる。
「もし、何か見たっていうんなら、」
「そういうわけじゃないけど……」
「……あっそ」
 アンコは顔を顰め、監視モニターに視線を移す。
「どうしてこんなこと、何が起きてるの?」
 待機する忍たちの表情が一瞬強張った。しかし、その視線を遮るようにひらりと一枚の紙が差し出される。

「……これは」
「見てのとおりよ。アンタさ、そういうの得意なの?」

 微動だにしないを知ってか知らずか、アンコの視線はモニターへ向けられたままだった。

三、見えない轍

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