空蝉-三章-

 轟々と流れる川。それは男たちを追った日を思い出させた。足を取られないよう、一気に吊橋を駆け抜ける。

 がここに来ることになった理由は塔の天辺で受け取った伝言にあった。それを目にしたは瞬きの方法を忘れたように凝視した。突如、三代目に命じられたのは人探し。しかも、居場所を聞いた所で皆困惑するであろう人物だ。所謂お尋ね者ではないにしても、骨が折れる案件に変わりない。「なに、大した事ではない」そう告げる火影の姿が目に浮かぶが、道中、はベストの左側が気になって仕方がなかった。三代目火影から預かり受けた入国証と封筒。背嚢にしまわなかったのは、万が一を考えてのこと。いざとなれば身一つになれるよう、用心は欠かせない。
 目的地は湯の国。まだあの時のような男たちが居ないとも限らない。


「う~ん……そんな男ならすぐ目につきそうなものだけどね〜」
 特徴を耳にした店主は覚えがないと首をかしげた。
「そうですか……。ありがとうございました」
「ところでお姉さん、宿はお決まりかね?」
「あっはい、大丈夫です。ありがとうございます」
 そんな会話をさっきから十数回。聞き込みをするまでは良い。ただ、「旅の疲れは是非当店で」と客引きに遭うのが厄介だった。次回に、と断りの文句を言いどうにかその場を逃れる。
「はぁ……」
 橋の上で立ち止まれば硫黄の臭いが漂った。ここは木ノ葉と違い水面が見えなかった。次から次へと湧き出る源泉が絶え間なく湯気を作る。まるでの心境を映しているかのように、全く先が見えない。
 湯の国と言われても……。
 は困り果てていた。今ならはっきりとみたらしアンコに返すだろう、「私は、人探しも得意ではないみたいだ」と。どこを見ても宿ばかり。戦後の殺伐とした雰囲気はすっかり薄れていた。昔から温泉地として栄えていたこの場所は、入国してまだ間もないというのに既に両手が足りないくらい宿がある。老舗から新店まで様々。そこを一軒ずつ探し回らなければならないのかと考えると気が遠くなるようだった。
 歩き回って足はくたくた。少しでいい、温泉に入れたらこの疲れも少しはマシになるだろう。しかしそんな余裕があるわけもなく、再びは手元の地図に視線を落とした。


 本日の最終目的地となった宿は創業100年を謳う老舗。
 狭い入り口を抜けると番台に老婆が一人。暇つぶしのように夕刊を眺めていた視線が様子を窺うようにちらりと動いた。入浴料を、とが右手を動かしたときだった。特に変な行動はしなかったはずだが、

「木ノ葉か……」

 思わず身構える。なんだか嫌な感じだ。この年代は今まで忍がやってきたことを決してよく思ってはいない。嫌な記憶はいつまでも残るものだ。じろりと舐めるように見られ、は息を呑んだ。
 すると、皺の目立つ手が素早くの両手をつかんだ。途端に淀んでいた老婆の瞳が煌く。
「ちょうどよかった」
 骨ばった手は思いの他強く、は逃げられないことを悟ったのだった。





 女湯ののれんをくぐり、は意を決して戸を開けた。
 露天風呂の入り口は酷く歪んでいた。錆びた金具が鉄板を引っ掻くようなひどい音をたてる。
 客は数人。すぐにその内の一人の若い女性と目が合った。

『近頃変な男が彷徨いてるらしく困ってるんだよ、どうにかならないかね?』
『それは正式な依頼でしょうか?』
『そうなるのかねぇ……。今から火影に依頼を出すってのは無理な話じゃないかい? 成功すれば、入浴料は永年無料。それで手を打ってくれるとありがたいんだけどねぇ……?』
 —— と、急遽依頼を引き受けてしまったが、はたして今この時間にその男が現れるのかという不安は拭えない。

 事情を知った女湯の客たちは小さく悲鳴をあげた。かと思いきや、自分たちも手伝うと言って桶を手にする。もちろん、それは遠慮を願う。万が一滑って転倒でもしたら大変だ。それに色々な意味で大惨事になってしまうだろう。
 それにしても。濡れないよう、ズボンの裾を折り返しながらは思う。竹垣の隙間から覗きとはなんてベターな助平男だろうか。
 手裏剣を手にしたは呼吸を整えた。それを彼女らは固唾を呑んで見守るのだが、その視線はの手元に釘付けだ。
「あの、なにか……?」
 何がそんなに彼女たちの興味を引くのか。おそらく、頬が火照るのは湯の熱気だけではない。よく見ると壁面には『忍術厳禁』とある。原因はこれかもしれない。
「今回は事情が事情なので、宿の方にはきちんと許可を、」
「そんなことわかってるよ」
 なにを言ってるの、と彼女たちはくすくす笑う。

「私たちね、忍者を見たのはじめてなの」
「私たちの町はちゃんとした忍者がいないからね」
「しかも、あの木ノ葉っていうし」
「手裏剣なんて落ちたのしかみたことない、そんなレベルなの」
「あ、ここにいるのはみーんな友達。隣町から旅行に来たの。あ、こういうの何て言うんだろう、女子会?」
「違うよ、女子旅。ここって殆ど貸し借りだし、最高の穴場だよ」

 矢継ぎ早に述べる彼女たちの好奇心がを取り巻いた。
 これは予想外の重圧だ。依頼は容易く受ける物ではない……。
「あまり見ないでもらえると、助かるんですけど……」
 もはや何を言っても逆効果に過ぎず、
「ねえ、それ、私たちも触ってもいい?」
 彼女たちの視線は変わらず手裏剣に注がれたままだ。



 じっと湯に浸かったは考えた。
 このまま待っているのが正解か否か。露天風呂を囲う竹垣からは何の気配も感じられなかった。

「なかなかの長湯だけど、本当にのぼせたりしないの?」
「はい、私は分身なので大丈夫です」
「そう……?」
 未だ信じられないのか、の顔を交互に見て不思議そうにする。「じゃあ、私も上がるね」と最後の一人が脱衣所に消えた。
 
 かれこれ一時間はそうしているかもしれない。それなのに後から入ってくる者は誰一人居なかった。温泉に困ることのないこの国でも人気宿は一極集中、この湯屋はがらりとしている。さっきまで賑やかだった露天風呂が嘘のように静かになった。
「今日は無理かもね……どうする?」
 分身がこぼした独り言に、はため息を漏らす。
「とりあえず、閉館までは居ようよ」
 引き受けた以上、放棄もできない。実に困った。
 所詮、分身は分身。アオバやトクマと話し合うのとは全く異なる。
 同じ人物に問うたところで大していい案が浮かぶはずもなく、分身は諦めたように天を仰いだ。が、ふとその視線は一点に止まり、本体をちらりと見た。壁側に待機していたはそれに頷く。竹垣の向こうはヒイラギの垣根がある。わざわざ望遠鏡を使って覗き見ているのだろうか。そう考えるとたとえ見られたのが分身であったとしても、この不逞者は絶対に取り逃がしたくない。まずは手裏剣で穴を塞ぎ、驚いた拍子を狙う。音を立てないようタイミングを見計らい、ジャンプしたはハッとした。一瞬の事でどうしようもなかった。利き手の自由は奪われ、武器は地面に転がり石ころ同然の役立たずになっている。これでは思い切り男の上に馬乗りになっているだけだ。

「まさか……女子おなごが空から振ってくる日が来ようとはのォ」

 入浴料は無料どころか数倍払わなくてはならないのでは、そんな気がしてならない。これはネタになると言わんばかりにすかさずメモ帳を取り出す男を見て、は唖然とした。




 番台の老婆と話をつけたのか、湯屋から出た分身がこちらを見てなんとも言えない顔をして消えていく。
「さっきは手荒なことをして悪かったな」
「いえ、私の方こそすみませんでした……」
 しかしながら、探していた人物がこうして見つかるのは果たして良いことなのか。はそれとなく自来也を盗み見た。悪びれる様子はまるでない。それにこの人物なら避けきれたはずだ。もしや……。ある疑惑が頭を過る。
「まあ、お前さんは結果オーライってところか。ワシは何時間探し回ってもめぐり会わんかった……」
 もちろん、探していたのは“”ではないことは明白だ。あの三忍が覗きをするなんて……。にとって信じがたい話だが、残念ながら紛れもない事実だった。
「近頃木ノ葉の忍がウロウロしておったし、逃げ切ったと思ったんだがなぁ〜。噂ってのは全くもって当てにならん、ワシとしたことが6人も見逃した!」
 後悔の海に身をなげうつかの如く、自来也は身を捩らせ頭を抱えた。
 湯屋で見つけたのは本当にツイていたのかもしれない。風貌は初めて会った時と然程変わっていない。高身長に長い白髪。温泉地という限られた場所で大柄な男が目立たないはずがないのに、変な話だ。


「あの、自来也様」
 自来也にとって側をうろうろされるのは鬱陶しいことこの上ないらしく、声を掛ける度に眉を潜めた。
「あのなぁ……付いてきた所で変わらんぞ?」
 内容も見当がついていたのか、せっかく手渡した封筒も開封されることなく自来也のポケットの中へ。動くたびにくしゃりと音がした。
「冗談じゃないんです、本当にすぐに戻っていただかないと困ります」
 今すぐ里に帰還してほしい。
 そう話したばかりだった。なのに、自来也はのらりくらりと話を逸らすばかりで先の見えないことばかりを口にする。
「第一、今更ワシが戻って何になる?」
 自来也はちらりとの方を見て、ため息を吐いた。しかし、には答えようがない。捜索に抜擢された理由すらわからないのだ、何のために自来也を探しているのか知る由もない。だが、
「私が里を出る時、何か妙な雰囲気がありました。きっと何か重要なことが……」
 だから三代目は自来也を探しているのだ。しかし、神妙な面持ちで話したところで自来也は変わらない。は〜あ、と欠伸をしたかと思えば入り口で追い込みの客引きをしている若女将に釘付けになっている。時々手を振り、にっこりと笑みが返ってくるのを楽しんでいた。
「……ジジイには見つからなかったとでも言っておけ」
「それはできません。こうして話しているのにそんなこと……」
「なら、説得に失敗したと言えばいい。それなら嘘にはならんだろう?」
「……それも、できません」
 自来也を探し出し、帰郷させる。それだけの任務だ。しかも相手は他里ではなく木ノ葉の人間。話せばすんなりといくもの、はそう思っていた。それがどうしてこうなってしまうのか。里はどうなっているだろう。は空を見上げたが、伝令と思われる鳥は見当たらなかった。それどころか雲ひとつない。暗闇には無数の光が散らばっていて実に長閑である。
「自来也様一度だけでいいんです、里に帰っていただけませんか? でないと……私、ずっと自来也様につきまといますよ」
「ああ、好きにしたらいい。女子と二人旅も悪くはなかろう」
「………………」
 段階的説得は失敗。完全に墓穴を掘った。ならば次を、と考えるものの自来也を説得する文言が見つからず、の表情は曇っていく。里に戻ってもらうにはどうしたら。三忍を相手に何をすれば。
「……と、言ってもあまり女子を困らせるのも性に合わんからな、」
 ほうっと緊張が溶けたを、自来也はじっと見つめた。
「……たしかお前さん、と言ったな」
「はい、と申します」
「なぜそんな面倒事を引き受けた? 」
「それは先程申し上げた通り三代目様が、……私ではいけませんでしたか?」
 自分が原因だったのだろうか? そう思い始めたを自来也は否定した。
「いや、なぜ医療忍者かと……知らぬ間に人手が余るほどになったのかと思ってな?」
「あの、私は情報部です」
「は?」
「すみません、申し上げるのを忘れていました」
 呆けた顔をする自来也に、は慌てて頭を下げた。どこを見て自来也がそう判断したのかはわからなかった。ひょっとしたら、別の誰かと勘違いしているのかもしれない。自来也はしばらく釈然としない様子だったが、里に関しては全くの無関心ということでもないらしく、
「ところで、あのガキはいくつになった?」
 その物言いには戸惑った。自来也が気にかけそうな子どもが他に思い当たらない。
「それはナルトくんのことですか?」
「おぉそうだった、ナルト。元気にしてるか?」
「はい、とても元気ですよ。歳は12、ちょうど中忍試験の真っ最中です」
「ほお。上忍は?」
「……担当は、はたけカカシです」
「そうか、カカシが……。しかしな、といったらあのじいさんの孫だろうとは思ってはいたが……似ておると言われんか?」
「え、祖父にですか?」
「んなわけあるか。母親の方に決まっとるだろう」
「特にないですけど……」
「んー……特に……」
 自来也は薄目でを見つめた。「こうして見れば、似てなくもない」と自来也は言うのだが、ベストを着込んで同じような背格好なら誰でもそう見えるだろう。
「だが、お前さんを見ておるとなんだかこう、モヤッと……なッ? わかるか?」
「もやっと……?」
 手助けしようにもそれが何んであるのか見当もつかない。自来也のモヤモヤを解消するには今ひとつ足りない何かがあるようだ。何だ何だと頭を捻る姿をは黙って見ていることしかできない。
 すると自来也はポンと拳を打った。
「あ〜そうか、わかった! カカシだ」
 は何も言わなかった。さっきの話は終焉を迎えたのだろう。話が合わないのはそういうことだ。スッキリ爽快と言わんばかりの自来也だが、頓珍漢に思えてならなかった。納得する理由とは程遠い。
「あの……全然関係ないと思いますよ?」
「まるっきり関係ないことはなかろう? 前はカカシの奴と一緒に居ったし、単に昔とダブったって話で」
 ますます分からなくなったと違い、自来也の声は弾みを増す。
「ほら、お前さんの母親がサクモたちと隊を組んでた頃、」
「サクモさん、ですか?」
「カカシの親父だ」
「え……」
 声というには貧弱なかすれた音が喉から漏れる。黙り込んだを見て自来也は悟ったのか、はたと立ち止まった。
「……なるほど。それでは話が噛み合うはずもない」
 自来也としては昔の話で打ち解けようとしていたのかもしれない。様々な記憶の中でなぜそれに焦点が当たってしまったのだろう。一方的だった言葉にようやく思考がついてくる。今までここまで深く話す者はいなかった。知らなかった。にとって、それはまるで雨夜の月を見ているかのようだった。
「まあ、似とる似とらんの話を言えばカカシの方か……。ワシも歳を取ったな」
 自来也は独り言のように呟き、夜空を見上げた。

四、探し人

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