空蝉-三章-

「こういう事は稀にありますからね」
 鎮静剤の効果を確認し、医師は素っ気なくカーテンを閉じた。


「……もしかして、知り合いだったの?」
 あまり長いしたつもりはなかった。医務室の側で、彼女がどのくらい待っていたのか定かでない。の問いかけに、紅は首を横に振った。
こそ、友達?」
「私は隣に座ってたから、それで……」
 が嘘をついたような気まずさを感じていると、真っ直ぐな瞳が問いかけた。
「何があったの?」
 あの場で起こったことは特別珍しいことではない。
 そう言い聞かせるように、はさらりと答えた。
「騒がしくしたから、気に障ったみたい」
 しかし、紅の表情は冴えない。
「伊達に任務同行してないわね、『聞いても答えないだろうな』だって」
「……アオバさんが、そう言ったの?」
 いつもならルビー色の瞳に見入ってしまうところだが、今は前を向くのが精一杯。相談役の目に留まったのは、男に伸ばした手を勘違いしたからだ。まさか、見ていたのだろうか。前列に居たのに? 戸惑うを見て、紅はいう。
「普段はそう見えないかもしれないけど、アイツなりに気にしてるのよ。それからこれ、渡しておくから」
 紅はそっとメモ紙を差し出した。会議の内容が丁寧にまとめられている。
「今は私たちに出来ることをやるしかないわね」
 そう言って、紅は息を吐いた。



 それから数週間後、密やかに月光ハヤテの葬儀が執り行われた。自国の忍が里内で殺害されたのだ、表向きは平常通りとなっているが、実質は要警戒の臨戦態勢と変わらない。参列は各部署から数名と一部の忍たちに絞られた。肩を揺らし咽び泣く、その段階はとうに過ぎてしまったのかもしれない。その場に広がるのは虚無感だった。そのままひっそりと終わる、そう思われた矢先。

「こんなの、寂しすぎるよ……」
 きっかけは、前列のくノ一がこぼした一言だった。
「仕方ないだろ、戦争になるかもしれないんだ」
 一人続けばまた一人。磁石のように連なっていく。
「その前に誰が殺ったか見つけ出さないと」
「落ち着いたらお別れの会、開いたらいいんじゃない?」
「それがいい、そうしよう」
「そんな話し合いをしてる暇があったら、」
「そう言う問題じゃないだろ。お前みたいに情まで無くしたら終わりだな」
「んだと?」
 小さな音が感情の高ぶりに合わせ大きくなっていく。周りの忍たちが聞き耳を立てているのがもわかるほどだった。
 また始まった。
 そんな空気が漂い始めた時、

「あんたたち、もう帰りな」

 口を挟んだのは、みたらしアンコだった。一角に重い空気が垂れ込めた。少し間違えばたちまち火が点くだろう。パンパンに膨れ上がった風船のような危うさに誰もが口を閉ざす中、一人の男が割って入った。
「まあまあ。今更帰れってのは酷だろ……それに、アイツが一番困ってんぞ」
 ゲンマの一言で、熱を帯びた一帯に再び沈黙が訪れた。黙り込む面々に石版を刻む音が降り注ぐ。短いようで長い時間が過ぎていく。
「慣れねーな」
 の隣に立ったゲンマは眉間にシワを寄せ、苦い顔をした。慰霊碑の名前を追うことがどれだけ虚しいことだろう。
「もう、13年か……」
 誰に向けたものでもないそれが、じわりと染みていく。




『オビトがね——

 あれはがアカデミーでいつものように居残りをしていた時だ。突然、バーンと跳ね返る音が教室に響いた。

「なあ、リン知らねー?!」

 大きな声でに話しかけてきたのが、うちはオビトだった。

「……リンちゃんならとっくに帰ったよ?」
 これで模様も最後だ、そう思っていたのに。刺繍針が意図せぬ場所へ刺さってしまった。は密かに唇を噛んだ。
「マジかよ!はぁ〜……ってか、お前は帰らねーの?」
 普段なら気にもしていないことが、ちくりとする。
 いきなりやって来た男子の存在は、にとって予定外のこと。クラスメートのくノ一はみんなとっくに遊びに出かけている頃だろう。の本心は口元に現れ、わずかにへの字に歪んだ。
「なんだよ、お前も居残りか」
 オビトはつまらなそうな顔をし、長テーブルにどかんと腰をおろした。手元が暗い。そのことを、オビトは全く気づいていないようだ。
 彼の夢は、火影になること。
 くノ一の誰もが知っていることだった。事あるごとに宣言するものだから、耳にタコができそうだと揶揄う者も居るくらいだ。「火影になる」と豪語したその彼が、居残りをしている。それがには奇妙に思えてならなかった。
 オビトは手を止めたを、物珍しげに見つめた。
「くノ一ってそんなのまでやらなきゃいけねーの?」
「うん。くノ一の“たしなみ”だから」
「ふ〜ん。……そういやお前、名前は?」

「オレは、」
「知ってるよ、うちはオビトくんでしょ?」
「……話したことあったっけ?」
 そのはっきりとした物言いに、ややこしく考える暇もない。
「うーうん」
「だよな」
「でも、いつもリンちゃんが、」
 クラスメイトののはらリン。彼女がいつもにっこりと楽しそうに話す様は強く印象に残っていた。
「リ、リンがなんだって?! うおっうわァ」
 突然、前につんのめったオビトが勢い余って転げおちた。大丈夫と声をかける間もない。カーテンがひらりと揺れ、夕陽が教室を染めた。
「リンには言うなよ!」
 さっと立ち上がったオビトの顔は、熟れたトマトのよう。この時、瞬時に悟った。彼の想いの人が誰であるのか、火の目を見るより明らかだった。

 リンがを遊びに誘ったのは、それから三日後のことだ。それを断ったことで、少しややこしいことが起きた。
!」
 その迫力に、はびくりと肩を震わせた。
「なんで来なかったんだよ!」
「……いつのこと?」
「きのう、なんで来なかったんだ?」
 いつもように居残りをしていたところをオビトが怒鳴り込んできたのだ。しかし、誘ってくれたのはリン。どうして彼が言うのかは理解できなかった。
「だって、……」
「だってもクソもねーよ!楽しみにしてたんだからな、リンが……」
「リンちゃん?」
 また今度、と言った彼女がどうしたというのだろう。が素朴な疑問を抱いていると、オビトは声を細めた。
「お前の居残りがない日をリンは、それに……とにかく!オレは理由を聞くまで帰らねーからな!」
 数日前と同じく、オビトはどかんと長机の上に腰を下ろす。しばらく無言の押し問答が続いたが、オビトは本当に帰らなかった。そろそろ教師が見回りに来る時間だ。課題は一向に進まない。だんだんと無言の時間が惜しくなる。時計の針がじわじわとコマを進めるのを見て、とうとうは音を上げた。

「お……おじいちゃんが、家にいるから。わたしが居るといつものおじいちゃんなの。お煎餅をくれる、いつものおじいちゃん」
「はァ?煎餅?」
「うちはの店、」
「ああ、あの店か。ウマイよな、ってそうじゃねー!……のじいちゃん、どっか悪いの?」
 この手の質問はいつも困る。病気で寝込んでいるわけでもない。怪我をして不自由をしているわけでもない。ただ、にとっての普通は他の人にとっての普通ではないことも、なんとなく理解していた。
「いつも壁を叩いてる。私が見えない人と話してる。戦争が、そうしたんだって……」
 笑うだろうか。気味悪がられるだろうか。
 はそのような心配ばかりしていたが、オビトの反応は違った。一瞬面食らったような顔をし、
「リンが色々あるんだっていうから、オレは……そういうのは早く言えよ!」
と、何故かぷりぷりした口調でいう。
「……でも、ツヅリちゃんは知ってるし、だから」
「ツヅリ?」
「やなだツヅリちゃん」
「ああ、でもアイツは何も言わなかったぜ? って言うか、お前は刺繍なんか極める前に「でも」「だって」をどうにかしろよ。弱っちく見えるだろ?」
「……別に極めてるわけじゃ、」
「「別に」も禁止だ!」
「えっ、な……なんで?」
「スカした野郎を思い出す」
 オビトはフンッと息を荒げる。その様子を見て、はふと思った。クラスメイトが話すから。みんなが無理だと言ったから。そんなこと、自分でもわからない。ただ、理由を知りたくなった。
「オビトくんは、」
「って、やべー!」
 時計を見て、オビトは慌てて教室から出て行った。

 結局、がうちはオビトときちんと話したのはそれきりだった。




「また雨か」
 ゲンマは空を睨んだ。刻銘が終わり、線香の煙が線を描く。
 どこからともなく土の湿気る匂いがした。空から溢れるのは時間の問題だろう。
。オレ次の試験官任されてっから、資料よろしくな」
 じゃ、と地面を蹴ったゲンマの跡が、靄のように残って消えた。
 次第に雷が鳴り、参列した人々も散り散りになっていく。そろそろ自分もとも足を引いた。
「オレも見せてもらいたいもんがあるんだけど」
 いつ来たのだろう。少なくとも開始直後は居なかったはずだ。
「……カカシさんには見せられないよ?」
「あ、そっちは大丈夫。オレが見たいのは別だから」
「別?」
 眉をひそめるに対し、カカシはとぼけたように言った。
「探しはしたんだけど、見当たらなくてさ」



 作業場へ向かう頃には本格的に降り出した。
「えらく降ったな」
 遅れてやってきたカカシは軒下に潜り込むと、雫をさっと払い除けた。着替えたばかりであろう制服も、所々くすんでいる。用意していてよかったとは思う。作業場のタオルだが無いよりマシだろう。
「これ使って。備品だけど」
「ご丁寧にどうも」
 カカシはそれを受け取ると、視線をへと向けた。格好はいつもの作業着だったが、雨染みすらないのを不審に思ったのかもしれない。
「私はロッカーに入れっぱなしだから」
「ああ、そういうこと」
 カカシの声はあっさりとしていた。

 人気のない廊下までやってくると、は書類を取り出した。
「22歳、戦争孤児、薬師ノノウが引き取って養子……」
 一見、普通の下忍に見える。引っかかるとするなら、中忍試験を五回も辞退している所だろう。三枚目の用紙をめくり、内容をなぞっていく。下段に行くに連れ、再び薬師ノノウという名に目が留まる。戸籍は除籍、死因は事故死となっていた。里に居た期間はおろか、顔すらわからない。今わかるのは元医療忍者で修道女ということだけだ。
さ、誰か知ってる人とか心当たりはない?」
 書類を受け取りながら、は考えた。真っ先にいのいちが思い浮かんだが、知っているならすでに知らせているだろう。
「特には……」
「そうか」
 そりゃそうだな、とカカシはぽつりと呟いた。その様子を見て、は言った。
「思うんだけど、」
「うん?」
「……どうして私に聞くの?」
 いのいちが無理でも、マワシだったり、ランカだったり。知っていそうな人は他にいる。聞かれても大した情報も持たない、大蛇丸が里に居ることすら知らなかった自分にどうして。
「カカシさんくらいの忍なら、私じゃなくても答えてくれると思うんだけど……」
 外は変わらずひどい雨だった。廊下の窓ガラスに大粒の雨が叩きつける。シンとした廊下はまるで時が止まったように長く感じられた。
「……誰でもよけりゃ、初めから聞いたりしないよ」
 そう述べたカカシは、に背を向けた。段々と背中が遠ざかる。戸音が響き、やがて冷たい空気が指先をかすめた。


 せめて、カカシの表情が見えればこんなにも悩む必要はなかっただろう。声色だけで判断するのは難しい。しかし……。つくづく面倒な自分が嫌になる。
 私は、はたけカカシを怒らせたかもしれない。
 時間が経つにつれ、はそう思えてならなかった。


「お待たせ」
 その声で、は慌てて顔を上げた。
 防護服を脱いだばかりだという彼女は、数年前ツヅリの解剖で指揮を取った医療忍者。
 カカシに聞かれたときは全く頭になかったが、後になってふと、この人物が浮かんだ。
 年上で唯一の顔見知りの医療忍者。経験も知恵もある。何か手がかりになるかもしれない。

「どうしたの? 怪我でも病気でもなさそうだけど」
 くノ一の視線がの全身を巡った。
「いえ、今日は別件です」
「じゃあ、異動届でも出しに来たの?」
「あ……すみません、それも違います」
「それは残念ね」
 くすりと笑みをうかべる口元を見て、は冗談だと知った。抱いていたお硬い印象が、ほろりと崩れる。

 とくノ一は病院の裏手までやって来くると、ベンチに腰を下ろした。地面は芝が覆い、川沿いに桜の樹木が並んでいる。春には満開の桜が見られたことだろう。今は青葉が茂り心地よい日陰を作っていた。さらさらと流れる川の音が心を解きほぐす。気分転換にはうってつけの場所だとくノ一は言った。

「それで、ホントの用件っていうのは?」
「はい。薬師ノノウをご存知でしょうか?」
「……誰に聞いたの?」
「薬師カブトの件で資料を見たんです」
「ああ、……それなら私も聞いたわ。でも、彼女が私たちと一緒にいたのはほんの僅か。戦時中、彼女は班長をしていたからそれ絡みでね。養子がいるとは思わなかったけど。……でも、それも変な話ではないわね。あの人らしいもの」
「優しい人、だったんですか?」
「そう。優しくて、聡明な人。あなたのお母さんだって、」
 一瞬、くノ一の表情が曇った。「悪い意味じゃないの。私は今でもそう思ってるのよ……?」と言うその声は、臆したように聞こえる。
「……すみません。私、よく知らないんです」
「ごめんなさい、私」
「いえ、そうじゃないんです。実は、もう一つ聞きたいことがあって……」
 今、聞かなかればもう二度とないかもしれない。
 はしっかりとくノ一を見据えた。

六、捻れた糸

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