空蝉-三章-

 翌日、は木ノ葉病院を訪れていた。呼び出され向かってみれば、預けていた和本帳を突き返される。数日はかかると見込んでいたが、実際は半日もかからなかった。はじめから気前の良いことを言うべきではなかったのだ。はそれを受け取り、小さく頭を下げた。

「あの子、上忍に恵まれたわね」
「そうですね」
 聴けば、ガイは毎日欠かさずリーの元へ見舞いに来ているという。あの風貌も相まって、目撃した患者の中は親子と勘違いする者もいるらしい。ガイのことだ、熱心に語りかけているのだろうと思えば、意外にも会話は日常的なもののようで、彼が治療法を模索していることなど知りもしなかったとくノ一は言った。
「でもね、」
 突然、ぽんっとくノ一の手がに触れた。視界に入った洒落っ気のない荒れた指が、昔の記憶を掻き立て立る。
「これはとっておいて損はないと思うの。いつか役に立つかもしれないじゃない?」
「……はい」
 本当は今すぐにでもそれをゴミ箱に突っ込んでしまいたかった。自分が持っていて何になるのだろうか。反故にするなと言われ、は和本帳をなんとも言えない気持ちで抱いていた。



 それにしても、自来也はナルトを連れ出しどこへ出かけたのだろうか。
 何処からともなく聞こえる釘を打つ音を耳にしながら、はぼんやりと思った。
 騒動で荒れた家屋は修繕が進み、目で見る形は平穏を感じられるようになった。火影岩は未だ新たな顔岩を連ねることなくいつもの景色を映している。噂では顔岩の彫り師が次期火影の誕生を首を長くして待っているらしい。
「五代目、か」
 三代目の横に並ぶ若々しい顔岩を見て、はポツリと呟いた。
 こうも早く変わるとは思っていなかった。あの時、誰もがそう思ったことだろう。
 本当なら今も四代目火影が里を守っていたかもしれない。三代目がああなることもなかったかもしれない。

 四代目が決まった時、里の様子が変わって見えたものだ。戦争というものにほどほど嫌気がさしていたし、未来というものにあれほど期待を抱いた瞬間はなかった。新しい時代がくるのではないか、と皆が胸を踊らせた。それには火影の忍としての実力もさることながら、波風ミナトという人物そのものに魅力があったこともある。言うならば、カリスマ的という言葉が一番しっくりくるかもしれない。そしてその下で時を共にした三人もまた、には同じように映っていた。
 ——別世界みたい。
 配属決定後のまもない頃、やなだツヅリが団子屋の前を通り過ぎる面々を見て、そうこぼしたことがあった。その時がどんな反応をしたかといえば、ただ前を見るばかりで一言も返せなかった。
 まさか、最も親しいと思う友人が自分と同じような感想をいだいているとは思わなかったのだ。


 ふと前を見ると立ち止まった人物と目があった。すると彼女はこちらに向かって駆けてきた。そしての手を取り、「ちょっとこっち」と人目を避けるように路地へと入る。
「その様子じゃ、知らないようね」
 紅はをまじまじと見て、乱れた息を整えた。ちなみに今のは作業着や制服でなく、洒落っ気ない非番用の私服だ。それが何と関係があるのかわからないが、紅はほっとした顔をした。

「……どうしたの?」

 ようやく声を出すことを許されたような気分だった。は囁くような声でそう言うと、紅は一瞬口ごもり再びを見つめた。
「ねえ、その……昔噂で聞いたんだけど、写輪眼で術をかけられたことがあるって話は本当かしら?」
 は胃袋に鉛が落ちたような気がした。ずんとする。急に情けないことをひっぱりだされ、気分が沈んだ。てっきりあの件に関することは、情報部を除けばカカシとアオバたちしか知らないものだと思っていた。人の噂も七十五日というが、本当の話は残るもののようだ。
「あの……まぁ、うん」
 の煮え切らない返事に嫌気がさしたのか、それとも別のことを考えているのか。紅は渋るような顔をする。そして決心がついたように、深紅の瞳が真っ直ぐにを捉えた。
「実は今、カカシが寝込んでるの」
「え、」
「イタチが里に乗り込んできて、戦った時に何か術を掛けられたみたいで……」
 始めは団子屋で二人連れの不審者を目撃したことだった。それの片割れがうちはイタチだったのだ。居合わせたカカシとアスマ、紅は戦闘になった。途中でガイも参戦したが決着は付かず、最後は相手の方から身を引いた。それが腑に落ちないのか、紅は怪訝な顔をする。
「それで、私たちじゃどうにもならないから医療班に連絡を入れようと思って。もちろん内密にね」
 紅の考えはもっともだった。里の長である火影は空席。上忍、しかも『はたけカカシ』の身に何かあったとわかれば、あっという間に話は広まるだろう。しかもこの状況下、不安に思う者も出てくるに違いない。大事にはできないということだ。
「なら、私が連絡してくる。さっき木ノ葉病院に寄ってたから」
「え、通院? どこか悪いの?」
「うーうん、全然元気。ちょっと所用で」
 今度は無駄足にはならないだろう。そう思っての一言だった。しかしそれは、ごめんなさいと紅によって遮られる。
「せっかくだけど、それは私に任せてくれない?それより、カカシの家はわかる?」
「家?」
「知らないの? 宿舎よ、アンコたちとは別の棟」
「知ってるよ、宿舎でしょ?……」

 途端に脇に抱えたままの和本帳がの居心地を悪くする。行ったところ何もできないことを紅だってわかっているはずだ。それなのに、彼女は暗にそこへ向かうように言うのだ。やはり病院へ連絡する役目は自分だとは思う。「また来たの?」と言われはしても「何しに来たの」とは言われはしないだろう。

「そんな顔しなくても大丈夫よ、誰か側にいてほしいだけだから。こんな時になんだけど、私もアスマも下忍たちの面倒があるのよ。ガイも戻らないし、勝手にカカシが知らない人を家に上げるのもどうかと思って」
「ガイ、里に居ないんだ」
「ええ。飛び出して行って……そうそう、アオバに会ったらからも言っておいて。口は災いの元って。が言えばビシッとするんじゃないかしら」
「アオバさん、何かしたの?」
「ちょっとね」
 はぁ、と紅は呆れた声を漏らす。

 が知る限り、アオバがうっかり口を滑らせるような印象はない。だが、話を蒸し返す勇気もなく、はそれ以上訊こうとはしなかった。それに、本人に会えばいずれわかるだろうと踏んでいたからだ。
「今、カカシにはアスマがついてるから」
 紅は頼んだからと念を押し、頷くを見ると木ノ葉病院の方へ駆けて行った。その背を見届け、一歩、二歩。の歩みもだんだんと早くなる。やがて駆け足となり、いつの間にか空を切って走っていた。



 そして、は町内の一角で足を止めた。ナルトの自宅と勘違いしたあの日が懐かしいとさえ思う。そもそも、忍専用の宿舎など滅多なことでもない限り行くことはない。当然ながら誰がどこに住んでいるという話は知り得ないことで、まさかこのような形でマワシのメモ書きに助けられるとは考えもしない。
 見覚えのある外壁が視界に入り、は建物を見上げた。窓辺にはアスマと思しき人影が写り込んでいる。紅を疑うつもりはなかったが、本当にカカシは寝込んでいるようだ。宿舎の階段を登りきったその廊下で、ちょうど顔を上げた相手と視線がかち合う。その瞳はひとときの希望を見て、すぐにどんよりと沈んだ。

「私、さっき紅に聞いたんだけど……」
 カカシの部屋の前に立ち男に声をかけた。近づくにつれ相手の表情がはっきりとわかり、は思わず後ずさる。その顔は血の気が引いていた。先の戦で見せた頼りがいのある背中はすっかり陰り、肩は小さく丸まっている。そしてか細い声で「まずいことになった……」とアオバは呟いた。じろりと動いた視線はこの世の終わりと言わんばかりだ。思った以上に大変なことになっているようだ。
「だ、大丈夫?」
「……ここに来る途中、サスケ見なかったか?」
「サスケくん? 見てないと思うよ」
「そうか……」
 ふいと背を向けたアオバは、通路側の柵に足を掛けた。
「どこに行くの?」
「サスケを探しに行ってくる」
 が来たならここはもういいだろ。アオバはそう言ってあっという間に隣の屋根へと飛び乗った。は手すりから身を乗り出したが、アオバの背は瞬く間に小さくなっていく。そうしていると背後から蝶番の擦れる音がし、びくりとの肩が揺れた。

「来たか」

 玄関から顔を出したアスマの様子は、が想像するよりもうんと落ち着いていた。
「ようこそ。って、オレん家じゃないけどな」
 家主に代わり、アスマが軽やかに招き入れる。非常時とはいえ勝手に上がり込むことには変わりなく、は玄関のたたきの上で立ちすくんだ。急いだものの、何の心の準備もなく来てしまったことに今気づいたのだ。ふと足元を見やると、カカシとアスマのものと思われる男物の忍靴が二組並んでいた。自分の靴がやけに小さく感じる。
「悪いな、スリッパは見当たらなかった」
 スリッパどころか座布団すらないとアスマはいう。奥に続く廊下には簡素な雰囲気が漂っている。
「そんなの、全然……お邪魔します……」
 隣人は留守。そんなことも相まって、部屋の中はしんとしていた。開いたままになった扉の奥が、カカシが寝ている部屋のようだ。アスマの後を追い、はゆっくりと足を踏み入れた。まるで忍び入っているように足音を消して歩いた。慌てて駆け寄るような間柄でもないのだからと言い聞かせた。もしもカカシが目を覚ましていたら、慌てて部屋を飛び出していっただろう。
 しかし、あと一歩というところでは足を止める。まるで扉の沓摺くつずりが停止線の役割を担っているかのようだ。
「そんなところに突っ立ってないで入れよ」
「うん……」
 一歩踏み出せば、自ずとベッドに横たわるカカシに意識が向く。寝かせた時のままなのだろう、一度も寝返りを打った様子はなかった。事情を知らずに来ていたら、きっと悪い想像をしてしまったかもしれない。息がある証に、僅かだが手裏剣柄の掛け布団が上下している。


「……ひどく背中を打ち付けたり、頭を打ったりは?」
「背中は紅をかばった時に打ったかもしれない。急に呻きだして……情けない話、しばらく眼を開けて居られなかったもんだからその辺りがちょっと曖昧でな。ただ、イタチが術をかけたことは間違いない。ガイが来なかったら正直ヤバかった」
「そうだったんだ……」
「ガイの奴、眼を見ずに戦えとか言うんだぜ。理屈はわかるんだけどなぁ」
 アスマは困ったように頭をかいた。苦戦を強いられたことが頭から離れないのか、彼にしては珍しくため息を吐いた。しかしながら、対写輪眼など想像もしていないのが普通だ。ガイがわざわざイタチと遭遇する日を想定していたとも考えにくい。日頃の鍛錬の賜物……それとも、カカシ相手に考えていたのだろうか、とは思う。
「そういえば、アオバさんがサスケくんを探しに行くって」
「あー……アイツも間が悪いよな」
「その話なんだけど、……何があったの?」
「アオバがサスケと鉢合わせて、イタチが里に来たことがバレちまった」
 どこで聞きつけたのか、アオバが真相を確かめにここへやってきたらしい。たまたま来たサスケは血相を変えて出ていったという。
「慌ててガイが追っていったが、サスケの足だ、どこまで行ったもんだか」
 は胃が締め付けられるようだった。うちはイタチがどんなことをしたか知らない大人はいない。彼が犯した罪でうちは地区は無くなってしまった。今となってはその情景は記憶にしか存在せず、懐かしむこともできない。サスケは一族の末裔だ。は“ちょっとね”と濁した紅の気持ちがよくわかった。アオバがしたことは絡まった糸を更に複雑にしたようなものだ。責任を感じるのは無理もない。


「カカシもこの様子じゃ、しばらく入院だろう」
 念のため結界札も貼ってやるか、とアスマは忍具ポーチから無地札を取り出した。
「とりあえず、」
 筆を取ったその手が札の上で彷徨う。しばらく考えた後、久しく書いてないとアスマは呟いた。
「……私が書こうか?」
「お、そりゃ助かる」
 和本帳を机の上に置き、は筆を受け取ると無地札を見つめた。里の中で難しいものは要らないだろうが用心に越した事はない。せっかく書くのだがら念には念を。触れた者にマーキングができるように組み込んでおく。
 が毎日のようにペタペタと巻物に貼っていることをアスマは知らないのだろう。手早く書き終えると、アスマはへぇと感嘆の声を上げた。
「これでいいと思う」
「よし。それじゃあオレもそろそろ出ようと思うんだが、任せていいか?」
 胸ポケットから煙草を取り出し、アスマは外を眺めた。どうやら一服を兼ねているらしい。
 カカシの様子を見るが、容態は変わらない。紅が戻る様子もなかった。
「もちろん」
「まあ、何かあったら分身にでも……」
 と、口を開いた拍子にアスマの口から未着火の煙草がぽとりと落ちる。
「しまった、服……」
 戦闘の際に池へ落ちてずぶ濡れになってしまったらしく、紅から洗濯を頼まれていたがカゴに放ったまますっかり忘れていたという。ライターを握ったアスマの左手はもたつき、指先が蓋を撫でた。よく見ると手の甲にかすり傷がある。本当はアスマも紅も思わぬ戦いで疲れているはずだ。なのに、二人はそういう話を一切しない。
「洗濯もやっとくよ」
「でもなぁ、」
「大丈夫。紅には言わないから」
「あ~……すまない、ありがとな」
「他は、何かあるかな?」
「これだけやれば充分だろ。あとは本人に目を覚ましてもらうだけだ」
 用事が済んだら戻ると言い残し、アスマは部屋を後にする。玄関の戸音が消え、再び部屋は静かになった。


 まずは洗濯か。と、さっそく脱衣所に向かったは戸惑いを露呈した。
 仕事柄、他人の所有物の扱いには慣れているはずが、戸棚一つ開けるにも気が引けた。故意に物色しているつもりはなくともうろうろと動き回る様は怪しく、滑稽だ。洗濯機の側に置かれた洗剤に気づいた時はがっかりした。しかし、洗濯といっても洗うのは洗濯機だ。その間にできることと言えば、先に手洗いしたベストを干しておくくらいなものだった。自分の物であれば全て洗濯機に放り込んでしまうところだが、他人の物となればそうはいかない。クリーニング、手洗い、それとも同じく洗濯機に任せてしまうのか。カカシが普段どのようにしているのかまるでわからない。全てにおいて勝手が違う。




 カカシが寝ている部屋に戻ると、は書いたばかりの結界札を手にとった。できれば見えにくい場所、貼るなら窓枠だろうとそちらへ歩み寄る。2枚の内、右側は難なく貼れた。だが、反対側はそうもいかない。
 カカシの枕元を見て、は一瞬動きを止めた。この部屋に入った時から窓辺に飾られた写真の存在には気づいていた。だが、ずっと直視できずにいた。カカシには目を覚ましてほしいのに、今はこのままでいてほしい。己の矛盾を感じながら、は右側の窓枠に札を貼り付けようと、そっと手を伸ばす。

「あっ」

 パタンという音が部屋中に響いたように感じた。十分に気をつけていたはずが、肘が当たったのか衣服が触れたのか。いや、今はそんなことはどうでもいい。は倒れた写真立てを恐る恐る手に取った。運良くガラスは割れていなかったが、はたと視線が交わる。こちらを覗くにっこりと笑った少女。彼女の側にいがみ合った少年が。そしてそれをなだめるように立つ人物は、やや困り顔だ。若き日の一枚。
 それを見ていると、薄れていた記憶が蘇る。あの頃は夢に溢れていたように思う。たとえ別世界のように感じ、遠くで眺めているばかりであったとしても未来を見たいと思えた。彼らが綺羅星のように見えた。
 は惜しむようにそれを元の位置に戻した。となりに並んだ真新しい写真と対比し、少しだけ色あせて見える。


「うっ……」

 は弾かれたように振り返った。
「……カ、カカシくん?」
 意識が戻ったのかと顔を覗き込むが、その眼が開く様子はない。固く歪んだ表情が次第に解けていく。うちはイタチがどのような術をかけたのかはわからない。だが、自分がかけられたものとは全く次元の違うものだとは感じた。夢を見ているのか、それとも見させられているのか。いつの間にかカカシの額にはじわりと汗がにじんでいた。は無言で立ち尽くしていたことに気づき、慌てて脱衣所へ向かった。棚から見出したタオルを拝借し、濡らしたそれで優しく汗を拭う。はらりと横に流れた前髪が、左目の瘢痕を露わにした。
 どくん、と心臓が鳴った。
 今までまともに見ることもなかったそれに、は息を詰まらせる。
 リンとオビト、二人の意志がそこにある。それがカカシの身を以てなり得ている。そう思うと、どうしようもない悲しみを覚え、感じる意思に怖気付いた。
 もしも、ガイが言うように悪い記憶を消してしまえたら。美しい思い出だけを残すことができれば、それは——
「っ、」
 は慌ててカカシの側から飛び退いた。
 どくんと波打つ心臓が耳障りなほどに大きく聞こえる。恐ろしいものが全身を駆け巡っているようだった。悍ましいとすら思った。道を踏み誤るのは僅かなところから始まるのだろう。はこの一瞬、奈落を覗いた気がしてならなかった。





 しばらくして、どこを見ることもなかったの視線が再び窓辺へと向いた。真新しいそれは、微笑む少女といがみ合う少年の姿が写っている。その後ろで同じようにすこし困った顔をしたカカシが。今の第七班だ。その横には見覚えのある鉢植えが一つ。青々とした葉を見れば、丁寧に世話をしているのがよくわかる。この部屋は整頓され、綺麗な絵画もある。決して殺風景ではないはずだ。それなのに、この窓辺だけが唯一の温もりに見えた。


 あの日、慰霊碑と向かい合うカカシの背は贖罪のそれに似ていた。ざんざんと降る雨すらも受け止めるその姿は忘れもしない。自来也は『錆』と言った。放っておいて治るものでもない、こわいものだ。それがもし、どこかでくすぶりつづけていたとしたら。
 瞬きとともに雫が落ちる。現実から目を逸らず向き合い続ける男と自分の差が、肺腑をえぐる。
  知りたい。正しく、真っ直ぐに。知らなければならないのだとは思った。


 気がつけば日は陰り、室内に影を落としていた。
 窓枠の向こうで黄昏月が覗いている。

十一、月白の空

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