空蝉-四章-


 木ノ葉病院の内廊下はどことなく湿り気を帯びた空気が漂っていた。どうやら外では雨が降っているらしい。

 近頃、昔はあまり気にしなかった事が妙に気になるようになったとカカシは思う。この“雨”に関してもそうだ。これまでは任務に差し支えるかどうか、その程度でしか意識していなかったが、今は屋内の下に身を置きながら、僅かな水音に耳を澄ましている。そしてカカシが思ったのは、どうやら自分は雨をそれほど好いていないということだった。特別な理由は思い当たらなかったが、湿気った空気で前髪がやや重たくなるのもその要因の一つだろう。だんだんと降りてくる前髪の重心を整え、それから何気なくその手元を見た。いつも身につけている指ぬきグローブは生地が薄くなっている。そろそろ換え時か。最後に交換したのはいつだったか。人差し指の内側からひょっこり飛び出た綻びに視線を落とす。その姿が思い詰めていたように見えたのだろう。

「よう。悩みなら聞いてやるぜ」

 たまたま通りかかったとでも言いたげな顔で奈良シカクがカカシに声をかけた。「お前も慰めてやろうか?」など言われたがカカシは素早く遠慮した。飲みに行く口実にされるのは構わないが、後々高くつく予感しかしない。『恐妻家』のご機嫌取りはあまり得意とは言えなかった。夫婦喧嘩の仲裁はなかなか骨が折れることは過去に経験済みだ。
「ま、今日は御子息を案じてやってください。どっと疲れたでしょうから」
「ったく、世話の焼ける倅だぜ」
 呆れたようなシカクの深い溜息は、カカシには安堵の息に聞こえた。





 事は五代目火影の命による。
 木ノ葉崩し以降、うちはイタチの襲来然り、里の情勢は芳しくない状況にあった。カカシ個人でいえば問題の多すぎる部下二名ついても悩ましいところで、できることなら毎日この目で監視しておきたいのが本音だ。しかしそんなことを五代目が許すわけもなく、人手不足も相まった木ノ葉の忍は連日任務に向かう日々。その最中に、それは起こった。または起きるべくして起こったとも言える。簡潔に言うと、うちはサスケが里を抜けたのだ。ただの里抜けなら見つけ次第、盛大な説教が続き、最悪の場合は忍者登録の剥奪で終わる。しかし大蛇丸が絡むと話は違う。若き少年の心は簡単に揺さぶられる。

 大蛇丸からうちはサスケを奪還すべく、急遽、忍たちが送り出された。班の編成は中忍以上と同行する決まりに則り、その筆頭として中忍となった奈良シカマルが選出された。ナルト含めその同期の面々が数人で任務に当たったのだが、結果は失敗、惨敗だ。怪我人が出る事態に陥った。
 生憎、カカシは別の任務に出ていたためにこの事態に気づくのが遅れた。もし自分がその場に居れば傷を浅くできたのではないかとカカシは考える。忍である以上、どんな任務であれ多少の無茶は応じるべきだが今回ばかりはいただけない。たとえそこに彼らの意思があったとしても、だ。
 この事態に一番文句を言いたいであろう人物は目の前の男、奈良シカクだろうが、肝心のこの男はそれについて何も言わなかった。それどころか「カカシも甘チャンになったもんだな」と、嫌味を言うほどに落ち着いている。忍として少年等を対等に見ている、そんな風にも捉えられる。または言ったところで結果に変わりがないことが身に染みているからかもしれない。経験値はなにも技術に限った話ではない。結果を真正面から受け止める度量がなければ忍としてこの先きっと辛いものになるだろう。当然、それはカカシもわかっているが、必要以上の荷は背負わせたくない。
 これを甘いと言うのだろうか。
 確かに、昔の若い自分なら今の自分の考えを一刀両断する気もする。
「⋯⋯近頃、妙に気になることが多いもので」
 カカシがこぼしたそれをシカクはフンッと鼻で笑った。
「ほう、お前はそっちか」
「そっち、とは?」
「歳をとると二分する。細かいことを気にするやつ、逆に気にならなくなるやつ。共通してるのは気づいたらあっという間に日が暮れることくらいだな」
 まだそんな歳じゃないですよ。と、言いたいところであるが、カカシは大人しく口をつぐんだ。再びグローブの綻びを見やり、喉に小骨がひっかかったような心地に見舞われた。
「で、カカシはナルトか?」
「ええ、まあ」
 シカクはカカシの曖昧な返事を掘り下げようとせず、気だるそうにした。
「そんじゃ、オレはそろそろ戻るぜ。お疲れさん」
 カカシがその背を見送ると、廊下を進んだシカクはあっという間に消え去った。

 カカシはナースステーション近くのナルトの病室に立ち寄り、それからまた別へ足を伸ばした。目指すは階段を上がったすぐの部屋だ。
 看護師からは相部屋と聞いていたが、他は全て空いてるようだ。空のネームプレートを見て、カカシは一つ深呼吸をした。いつもならばさっさと入ってしまうのだが、そうもいかない理由がある。というのもこの病室にはがいる。



 —— 「⋯⋯別の匂いがある」

 サスケの件を聞きつけ、カカシは山へ向かった。負傷したナルトを見つけだし、移動しながらシカマルたちの小隊の居所を探らせていた忍犬たちの報告を聞いていると、灰の毛色をした忍犬『シバ』がそう言ったのだ。さあ、急いで里へ戻ろう。そんな時に、急に足を止めたまま動かない。スンスンと鼻を鳴らしたのがやけに長く感じたが、警戒していないところを考えると敵ではない。忍犬たちは敵と味方を混同するようなヘマはしない。匂いなんてそこら中にあるのだ、稀にこうこともある。特に、野生動物の死骸は彼ら忍犬たちには相当な悪臭と聞くのでカカシは大方その類と考えた。これで原因がクマパンダなんて言われたら力が抜けるだけだが、
「これは⋯⋯わかった、だ」
 ピンと来た顔で納得するシバをよそに、途端にカカシの手のひらには汗が滲んだ。まさかと思うが彼らに限ってそれはない。
「どこにいる?」
「日向のところだな」
「怪我は?」
「わからない、血の匂いが濃すぎる。これは日向の者か」
 同行していたパックンが同意するようにうんと一つ頷いた。
「⋯⋯とにかく急ごう」
 ナルトを背負ったまま、カカシの足はそちらへ向いた。そしてその途中、運良く捜索へ充てられた医療班と遭遇したのだった。ネジは重篤だがかろうじて息はある。に怪我はない。その報告にカカシがひとまず安堵したのは言うまでもない。

 医療班がネジの元へ辿り着いたとき、はまだ意識もはっきりしていたらしい。よほど集中していたのか、はしばらく呼びかけにも応じなかったという。は額当ての布や持ちものでネジの傷口の止血を試みていた。深傷に直接的な効果はなくとも、後々の明暗を分けることもあると医療班の一人は言った。
『おそらくですが、任務の途中で通りかかったのではないでしょうか』
 はサスケの件は知らなかったはずだ。きっと里へ戻る途中で異変を察したのだろう。そこでネジを発見し、留まったのだ。チャクラも体力もすべて尽き果てることも厭わす、血の気が引き冷たくなっていく恐怖と戦いながら必死になって目の前の命を懸命に救おうとしたのだ。この目で見ていなくとも、その姿がカカシにははっきりとわかった。

 その後、ネジは医療忍者と五代目の医療忍術により一命をとりとめた。は体力を消耗したらしくしばらく安静。微量の睡眠薬も投与されているのでしばらく目覚めないという。そこまでするのは余程のことだ。それに関してとある看護師がカカシにチクチクと言った。
『この際、よく養生してもらわないと。五代目様は人使いが粗いのではありませんか?』
 これにカカシは頷いていいものか悩んだ。肯定した日には任務が倍に増えるだろう。看護師は多忙ゆえ、この話が深まらずに済んだのは救いだった。カカシは愛想笑いを浮かべたが、それでもまだこちらを窺うように見る看護師にカカシは困惑した。
『あのー、まだ何か?』
『⋯⋯そのグローブ、解れてますよ』
 指先に向かってはらりと伸びた糸に視線を移したのだった。




 あの看護師も“こっち側”か。カカシはの病室の前で立ち尽くし、そんなことを考えていた。思えば、教え子で何かあるのは大抵、男子二名。暗部のくノ一の面々もさほど大事を起こさなかったし、同期の紅は余程のことのない限り無茶はしない。つまり、女性の見舞いなどに行く機会は滅多にない。病院の世話になるのは慣れているが、その逆は不慣れだ。
 ——もし目が覚めていたら⋯⋯いやいや、普通に困るでしょーよ。
 今しがた消沈したナルトを見たこともあり、『見舞う』という簡単な事柄をごちゃごちゃと考えた。もしかすると自分は見舞いも苦手なのだろうか、そう思案し始めたころだった。

「お、カカシか」

 見舞いの品であろう、小ぶりな風呂敷を持ったいのいちが顔をだした。アレが正解かもしれない、と思うカカシの心中に答えるかのごとくいのいちは続ける。
「あ、これか? 急ぎ顔を見てくるだけと言ったのに、妻と娘が持たせてきてな」
 こういうときは女性陣のほうが気が利くことが多い。「その辺の男たちといっしょにしないで!」と小言が風呂敷から聞こえてきそうだった。いのいちは休暇を取っていたため自宅へ連絡が届いたらしく、大慌てで家を出たらしい。いつものポニーテールが若干乱れて見えた。ちなみに、いのはチョウジたちの様子を見に行ったという。
「それで、帰るのか?」
 いのいちはカカシの方を見やった。廊下に立ったままの姿を見ればそう思うだろう。実際はかなりの時間、廊下をウロウロしているのだが、カカシは都合よく調子を合わせた。
「いえ、オレも今来たところです」
「そうか、なら一緒に行くか。見舞いとはいえ、やはり男一人というのは気を使うものだな」
 こんな話をしていられるのもが重篤ではないからだ。もしもに何かあれば、いのいちはどんな場所でも真っ先に飛び込んでいくに違いなかった。

 想定はしていたが、扉のノックに応答はない。いのいちが先頭に立ち、カカシもそれに続いた。半開きのカーテンに目が止まる。起こさないため、いのいちは潜入するような足取りで側へ寄る。カカシもそれに続いたが、いのいちの表情が冴えない。
「……本当に寝ているのか?」
 カカシはぎょっとした。少し様子を見る予定が慌てての横まで駆け寄るはめになり、
「や、寝てますよ、息してるでしょ」
 思わず声が大きくなる。
「だ、だよな」
「心配もほどほどにお願いしますよ⋯⋯」
 と言いはしたが、カカシはいのいちの気持ちを理解できた。がそれほどに青白い顔をしていたからだ。繋がれた管から流れ落ちるものが唯一の生命線のように見え、カカシでさえ本当にただの疲労かと疑った。通りかかった顔見知りの看護師を捕まえて尋ねてみれば、「さんなら大丈夫ですよ。ここにくる時のはたけさんとそう変わりませんから」とのことだった。いのいちは更に詳しく聞こうと看護師に詰め寄る。その間、カカシは窓の外や部屋の様子を見たりした。雀は元気、緊急の鷹もいない。特に変わったことはない。だが、4人部屋に一人というのが気がかりに思えてくる。偶然にも、いのいちもカカシと同じことを考えていたらしい。
「念の為、カカシの影分身を置いていくか」
「オレより、いのいちさんの方が安心するんじゃないですかね?」
「目が覚めて上司の顔など見たくはないだろう」
「そんなことはないですよ」
 もちろん、面倒などという話ではない。率直な話、自分が居るよりもいのいちが居た方が何倍もほっとした顔を見せてくれるような気がするのだ。自分が居ると寝たふり、もしくは布団を被ったまま「帰ってください」とヒンヤリと言われるのがオチではないだろうか。その想像が急にリアルに感じ、カカシはハハハと愛想よく笑って誤魔化した。しかし、いのいちがカカシの事情など知る由もなく「同期の助けがあるほうが心強いに決まっている」と引かない。しかも、いのいちはカカシにとって直属の上司でなくとも忍の先輩だ。
「じつは少々立て込んでいて、思うように時間が取れそうになくてな」
 こう言われると引き受けざるを得ない。これでも上下関係は尊重するほうだ、昔よりは。
 本当にオレでいいんですかね?
 思わずこぼれそうになったカカシの思考を読んだかのようにいのいちは言った。
「案外、は話したがっているかもしれないぞ?」
 いのいちは上司の勘といったが、カカシには別のもののように思えた。10代の頃から面倒をみている上、他の部署よりも過ごす時間が長いとなれば、は家族のような存在に近いだろう。少なくとも、自分よりものことを良く知っている。
「あの、いのいちさん――」
 しかし、カカシのそれは背後の気配にかき消された。

「なんだ、お前たちか」

 扉のすぐ側に五代目火影が立っていた。
「部屋からオッサンの声がするってもんで来てみれば」
 と、疲れた顔で五代目は言う。不逞な輩であればすぐに鉄槌を下すつもりだったのだろう。「一応、ここは女子部屋なんだがな」と、チャクラを練り込んだ拳を引っ込めたのをカカシは見逃さなかった。あんなものが当たったらタダでは済まない。
「すみません、綱手様。すぐに帰ります」
 いのいちが慌てると、それを五代目が引き止める。
「いや、ちょうど良かった。いのいちに聞いておきたいことがあるんだが⋯⋯」
 何やら込み入った話になりそうだ。そう察したカカシが部屋を出ようとすると、それもまた止められる。
「お前はここで待機だよ」
 関係ないではなく、待機。
「ナルトたちのことならすでに話した通りですが?」
「ああ、それは聞いた。別件だ」
「もしかして、分身で報告したこと怒ってます?」
「それもある」
 五代目は目を覚ます気配のない、を見る。それは一瞬のことであったが、カカシは意外に思えた。


三、紛れた雨声

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