07

  いつも同じ時間に起きて、身支度をする。
 変わりない、いつもと同じ月曜の朝だ。
 ただ、——

「行ってらっしゃい」

 行ってきますの後だけは、違っていた。



 人に見送られながら仕事に行くのは不思議だった。
 いつものようにスマホをかざして改札をくぐれば、通勤ラッシュとの戦いだ。
 なんだかんだ言いながら、カカシは宣言通りの家に居着いていた。そして、宣言通り料理を作る。
 それは夜だけではなく朝ごはんの用意もしていて、はだんだん申し訳ない気分になりつつあった。というのも、カカシはお弁当まで作っていた。自身、食器棚に入れた自分のお弁当箱の存在を忘れかけていたというのに。
 いつものカーブに身構えながら、はそれとなく視線を巡らせた。
 目の前でうたた寝をするOLも、その隣でスマホを弄る女子高生も、その隣のサラリーマンも……皆、なんとなく見覚えがある。いつもの電車の風景だ。
 唯一の違いといえば、彼氏でもない男が作ったお弁当を持って出勤している自分が居る事—— それだけのような気がした。


 そんなこともあり、今日のランチは変な緊張があった。
「えー、が弁当。手作り?」
 案の定、隣に座る先輩が遠慮もなくの机の方を覗き込んできた。
「いえ、違いますけど」
「どう考えても手作りじゃん。あ、そう言う事?」
「何言ってるんですか。それにしても、先輩のお弁当は相変わらずですね」
「おお、愛が詰まってるだろ? 節約という名の」
 先輩のお弁当。愛と節約。本人は上手く言ったと思っているのだろうか。
 シェイカーを振りながら、今日は定時に帰ろうと独り言を言っていた。机の上のタッパーには不揃いに切られたサラダチキンがごろごろ入っている。少し前まではコンビニ仲間だった先輩が趣味に没頭し始めたのは先月の中旬頃からだ。
「ジム、楽しいですか?」
 はさっそく卵焼きに箸をつけた。
 (あ、おいしい。)
 いつもと同じ卵なのに、なぜこんなにも味が違うのかとは不思議に思った。
「楽しいし気分転換になるよ、も通えば?」
「いえ、私はいいです」
「彼氏と夏に海に行く約束とかしてないの?」
「海?」
「彼氏のために手料理か。うちの奥さん思い出すな」
 勝手に話を進めて自己完結するのは今に始まったことではなかった。の言葉などほとんど聞いていない。そろそろ俺も弁当作ってもらおうかななどと言いながら、プロテインを流し込んでいた。


 今、口にしているお弁当は、自分が作ったものではない。
 つい先日出会ったばかりの、居候の男が作ったものだと知ったら、この先輩はなんと言うだろうか。

—— 今、何してるんだろう。テレビでも見てるのかな……。)

 はお弁当を頬張りながらリビングで寛ぐカカシを思い浮かべた。



 周りの空気など気にする様子もなく、隣の机の先輩は定時に帰っていった。「も早く帰れよ」と一言付け加えて。
 言われなくとも今日は早く帰ろうと思っていた。それなのに、気がつけば、時刻は20時を過ぎていた。
「お先に失礼します」
 は身支度を整え、足早にフロアを後にした。


 いつものように駅に向かっていると、すっとアスファルトの濡れた匂いが鼻についた。
 小走りになる周りを見ながら、こんな時のためにと、は手探りでバッグの中を探った。だが、いつもの折り畳み傘が見当たらなかった。今日は雨は振らない。その天気予報を信じて、今朝の弁当箱と引き換えに傘を机の上に置いてきたのをすっかり忘れていた。結局、駆け足のサラリーマンに混じりながら、最寄り駅まで走ることになった。
 帰りの電車はいつも以上に混み合っていた。五つ先の駅まで揺られている内に、いよいよ雨は本降りになってくる。
(雨、止まないかな……止まなかったらコンビニで傘買わないとだめかな……。)
 降りしきる雨を見つめていると、いつの間にか電車は最寄り駅に停車していた。


 人の流れに身を任せるかのように、はいつも通り改札口を通り抜けた。
 全く止む様子のない空に、いつものコンビニに足を向けた。だが、考えることは皆同じらしく、手頃な傘は売り切れていて、めったに買わないような男物の折り畳み傘しか残っていなかった。
 これしか無いなら仕方ない……。
 それを手にしようとすると、ふいに名を呼ばれ、は視線を上げた。
「天気予報、大外れだったね」
 男物の傘にのばした手はそれを手にすることなくするりと向きを変えた。そして、は見慣れた折り畳み傘を受け取った。
「ありがとう……」
「それで、悪いんだけど傘借りたよ」
 カカシの手元にはのもう一つの傘が握られていた。明らかに女物だとわかる傘だ。
 それを差して、カカシはわざわざ駅まで迎えに来てくれたのだ。
「いいよ、そんな事」
 外に出ると、小雨になっていて、道路は真新しい水たまりができていた。


 時折通り過ぎる車がいつもの通勤路を照らし出す。
 その水たまりを避けながら、は何の前降りもなく呟いた。
「お弁当……ありがとう」
「どれがおいしかった?」
「え、……」
 どれがおいしいか——もちろん、全部おいしかった。どれか一つだけ選ぶなんて失礼かもしれない。そう思いはしたものの、は真っ先に浮かんだものを口にした。
「卵焼き」
 あんなにおかずが入っていたのに、卵焼きだなんて。そう思うかもしれないが、やはり一番はそれだった。

 同じ駅から歩いていた人達が次々に通り過ぎていくのをは無意識に視線で追った。
(私たち、どんな風に見えてるのかな……。)
 ふと、そんな考えが浮かんだのは、前を歩く二人組の高校生を目にしたからかもしれない。



 家に着くと、当たり前のようにラップがかかった手料理がテーブルに並んでいた。帰宅を待っていたのだ。
「ごめん、先に食べてくれててよかったのに」
 焦ったようなの言葉に、カカシは俺は居候だからと言って、遠慮気味に笑った。

「今日は何をしてたの?」
「テレビを見て、本を読んだり」
 本なんて、いつの間に?
 そんなの疑問を見透かしたようにカカシは言った。
「ああ、自前の本」
「本なんて持ってたんだ。なんて言うタイトルの本? それ、私も読めるかな」 
 一方で、カカシは急に鈍くなった。
「まあ、これはにはつまんないと思うよ」
 どうやらまた余計な事を言ってしまったらしい。どうしよう。がそう思っていると、カカシが口を開いた。
「それより、はいつもこの時間に帰ってくるの?」
「あ、うん。遅いときもあるけど、だいたいこれくらい」
「じゃあ、あの時は特別遅かったわけ?」
 一瞬、は考えた。おそらくそれは、カカシとぶつかった日、こうして居候をするきっかけになった日のことだ。
「え?……あ、うん、いつもはもう少し遅いかも」
 なぜこんなくだらない嘘を言ってしまったのか。はバツが悪くなって、話題をそらした。
「カカシの国は、海はあるの?」
「海、海ね……あることにはあるけど、少し遠いかな。川ならあるけどね」
「なら、休日は魚釣りとかする?」
「子供の時はしたけど、最近はないな」
「そうなんだ」
 もう少し、聞いてみようか。
 そう思いはしたが、はそこで留めておいた。「ごちそうさま」と言う頃には、とりあえず点けておいたテレビのチャンネルは、21時を目前に新しい番組に変わった。


 『この国に居て幸せ?』
 時々、はカカシが言ったこの一言を思い出す。
 水道が蛇口から出る。電気が付く。ご飯が食べられる。それなりにおしゃれだってして、友達も居て、仕事だってあるんだから、そうに決まっている。恵まれているはずだ——


「そういえば、あの服、洗ってもいいの?」
「え、洗ってくれるの?」
「いつまでも置きっぱなしってわけにもいかないし、」
「じゃあそうしてくれると助かるよ」
 カカシの返事を聞き、は脱衣所に向かった。とりあえず袋に入れておいたあの妙な服を洗濯機に入れる。さすがにベストは洗えないな……そんな事を思っていると、ズボンのポケットに何かが入っている事に気がついた。ベストの胸ポケットにはボールペンの一つも入っていなかったのに。ポケットを探ると、メモ用紙のような物が出てきた。こういう物は洗濯するときに出しておかないと大変なことになってしまう。入れっぱなしじゃなくてよかった、そう思った。
 洗濯機を回しながら、避けておいたそれに視線を向けた。見てはいけない、そう思うほど気になってしまう。
 —— 何が書いてあるんだろう。
 好奇心にも似た感情がふつふつと沸き起こる。
 脱衣所という密室を良いことに、はその気持ちを抑えられなかった。
 少しだけ—— そう思いながらそれを広げたは後悔した。

「え……」
 そう呟いてしまった事も気づかないまま、は呆然とそれを見つめた。
 変な模様が書かれているそれは、どう考えても紙幣だ。しかも、あの“額当て”と同じ模様が書かれている。
 おもちゃにしては年季が入っていて、使い回されているこの感触は、日本のお札と何ら変わりない気がした。
 そして、傍らに避けておいた額当てをもう一度手に取ってみて思う。おもちゃのプラスチックでもなく、メッキで加工している感じでもない。よく見ると無数の傷があって、初めは気にしていなかった事が妙に気になってくる。その額当てに残る無数の傷はどれもこれも普通じゃない気がしてくる。ふと視線をあげると、洗面台の鏡の自分はなんとも言えない不安げな顔をしていた。
 
 互いに何も言わなければ、何もないただの紙切れに過ぎない。はそれをこっそりとチェストにしまった。洗濯物が乾いたら、こっそり戻しておこう、そう思いながら。