12

 翌朝、目を覚ましたカカシは小さく唸った。目覚めは最悪だった。
 寝たのか寝ていないのかわからないまま、いつの間にか窓から朝日が差し込んでいた。

 ベッドから這い出るとすぐに洗面所に向かった。鏡にはどんよりとした表情を浮かべる冴えない男の顔が映っていた。顔を洗い、歯を磨いても全くすっきりしなかった。そう言えば、まだシャワーも浴びていない。だからだろうと、カカシは自分を納得させるように、洗濯かごに服を脱ぎ入れた。そして、ふわりと香るそれに、ため息をついた。


 排水口に勢いよく流れて行く水を眺めながら、カカシは様々なことを考えていた。
 もしかしたら、術式に不備があって自分だけが覚えている、その可能性もある。だが、あれは何度も試作して完璧な……。

 なのに、なぜ——

 一晩経っても何一つ忘れていない事に、カカシは頭を悩ませた。
 この現象を確かめる方法があるとするなら、昨晩連れ帰ったくノ一に話を聞くこと以外ないだろう。あの様子だと火影の調合した気付け薬を飲んでもはっきりと目を覚ますのは夕方になる。それから聴取を受けるとなると、一番早くて明日の朝。
 任務にも出てしまえばこんなことで気に病む必要はないのにと思うが、生憎今日は火影の計らいで非番である。全くもって、余計な計らいだとカカシは思った。



「……任務明けで疲れてるんだな。そうだ、そうだろう? それとも、ヤツのなりすましか!」

 目の前の男は奇妙な生き物をみるような視線をカカシに向け、口布に手を伸ばした。慌てて仰け反ったカカシは、そんなわけがないとため息混じりに呟いた。

 里を明けていたのは二週間と思っていた。だが、こことあちらでは時の流れがずれているのか、ここではたったの3日程しか経っていなかったのだ。
「いや〜玉子の存在をすっかり忘れてて。運良く賞味期限、今日までだったのよ」
 冴えない思考を働かせるには朝食だろうと冷蔵庫を開けたのはしっかりと覚えている。そこにあったのは、賞味期限が切れた牛乳と、開封済みの玉子のみだった。どうせ暇なのだからと棚からフライパンを取り出した。玉子をボールに割ってかき混ぜ、フライパンに流し入れる。玉子の焼ける匂いが、少し懐かしかった。玉子は今日まで。もう一回、焼いてみるか—— そう思っているうちに、いつの間にか皿の上の卵焼きは窮屈そうに肩を寄せ合っていた。
「だからって、全部卵焼きにする奴があるか。他にも使いみちがあっただろう……」
 スクランブルエッグとか、ゆで卵とか、色々あっただろうと言いながら、もくもくと卵焼きを口にしているのはもちろんではない。
「……ああ、別に無理して食べなくてもいいから」
 カカシは徐にそれを一つ手にとった。特に際立った味ではない。
 見た目だってとくになにもないただの卵焼き……。


 目的もなく里の中を歩いた。
 いつもならAランク、Sランクと次々に任務が舞い込んでくるのに、今日はなにもない。自分の周りをうろうろしていた弟子たちは今はそれぞれ修行の身だ。こうして里を歩いていても、いきなり「カカシ先生!」と呼ぶ声もしない。本当になにもない一日だった。歩道の脇にあるベンチに腰をおろし、カカシはポーチからいつもの本を取り出した。目次を開いたものの、いつまで経っても次のページを捲ることはなかった。ただ、字面だけを眺めて、任務直前の事を振り返った。





——「この特徴がある人物を探し出してほしい」
 火影が差し出したのは一枚の紙切れだった。
「人探しだ」
 カカシはその任務計画表を見て眉を下げた。
「御冗談でしょう?」
 柄にもなく言い返してしまった。ついに火影もおかしくなったと、一瞬そう思ってしまった。
 噂では聞いていた。そんなものただの噂話だと皆が言っていた。もちろん、カカシだってそう思っていた。人が忽然と姿を消す—— どこが珍しいのかと。忍だったらそんなふうに見えるような術を使える。だが、火影は至って真剣だった。「冗談なんかでこんな頼みごとをするものか」と考えを見透かしたかのようにこちらを見つめた。
(人探し、と言っても……)
 難色を示したことで、火影の機嫌はまたたく間に降下していく。
「とにかく、その日時にそこに来てくれ。時間厳守だ、絶対遅れるんじゃないよ」
「……了解」
 火影にはそういったものの、まだ半信半疑だった。
 集合場所はアカデミー前のマンホール。
 まったくもって理解しがたい任務だ。
 
 時間になり、やって来たのは火影と一人の男だった。
「たぶん、この術式であっていますので、おそらくそこにくノ一が居ると思いますので」
 男は汗をかいていた。これで木ノ葉の忍がまた一人戻らなくなったら、と冷や汗をかいているのだ。
「とりあえず、訳のわからないところに行って、そのくノ一を連れて帰ればいいんですね……」
 口に出してみてもやっぱりおかしな話だとカカシは思う。
「写真とかは?」
「あのーそれが、見当たらなくて。すみません!」
「……どういう事?」
「そのー、なぜか、ぼんやりとしか見えなくて……」
と、写真を差し出すのだが、シルエットだけがぼんやりと浮かび上がっていた。男は泣き出しそうな顔をして頭を下げた。
 写真がないというと、あとは匂いかチャクラかと考える。
「万が一、任務失敗しても、お咎めなしでお願いしますよ」
 汗を拭いながら、チャクラをたどるから大丈夫という男の言葉も半信半疑だった。なにしろこの男の言葉は全部「多分」「恐らく」と不安要素がもれなくついてくるからだ。

 なぜ自分が天文部の尻拭いをしなければならないのか……。

 何をするわけでもなく、ただ、マンホールの上に突っ立っているというなんとも情けない状況に、カカシはただ夜空を見上げた。
 それから、しばらくして、あの妙な空間に引っ張られた——
 
 
 謎なのは、どうしてあんな場所に降り立ってしまったのかということだ。
 予定では、という女の元に降りるはずだったのに……。
 
 カカシは本を閉じ、ゆっくりと上体を起こした。気がつくと、空は夕焼け色に染まっていた。